鳥海 青

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 翌日、青の気分は最悪だった。  昨晩制服を着たまま布団に潜り寝てしまい、目が覚めたら午前1時だった。  恐る恐るリビングを覗くと、母は既に不機嫌になっていた。ガチャガチャと物音を大袈裟に立てながら洗い物をしている。  夕飯はいらないなんて言っても怒られるだろうし、いると言っても寝ていたことを責められるだろうと判断した青は、そのまま自室に戻り母が寝るのを課題をしながら待っていた。  しかし、一向に寝る気配がない。疑問に思いリビングに行くと、眉を吊り上げた母が青を待ち構えていた。そして、耳に刺さる甲高い声で「あんたが起きて来ないからいつまでも私が寝れないじゃない!」と怒鳴ったのだった。  その後、青は母のしつこい嫌味と質問にひたすら答える羽目になった。  「あんた夕飯はどうするの。食べるの?」  「もういいや。このままシャワー浴びる」  「食べないの?」  「そうだね」  「『そうだね』ってどっちの意味よ」  「いや、だから『食べない』って……」  「食べないでどうするのよ」  「は?」  「食べなくていいの?」  「……わかったよ、じゃあ食べるよ」  「どっちなのよ!」  「だから食べるって!」  「あんた今食べないって言ったじゃない!」  母とのやり取りはいつもこうだ。何故か会話が成立しない。それは青が幼い頃からだ。青と母が言い争いをしている間、父はずっとパソコンでアダルトサイトを見ている。家族がいるリビングで見るなという言葉を、青はいつも飲み込んだ。  結局残っていた夕飯をかき込み、シャワーを浴び自室に籠った。だが、居心地の悪さは変わらない。納得もしていない。中途半端に寝てしまったせいで眠れなくなっていた青は、そのまま課題をしながら徹夜し、午前5時半、両親が起きてくる前に何も言わずに家を出たのだ。  悪い親だとは思っていなかった。だが、いい親だとも思っていなかった。人として尊敬できるかと問われれば、答えは否だ。  梅雨だからか今朝も雨が降っている。ビニール傘を差し、まだ人通りの少ない住宅街をのんびりと歩いた。  青が早朝に勝手に家を出るのはよくあることだった。母に一言「課題忘れてたから早く登校する。昼食は自分で買う」とメッセージを残せばとりあえずはやり過ごせるからだ。  それに、人の少ない時間は青にとって安寧でもあった。  高校生になってからも登校中に事故に巻き込まれるのは変わらない。自転車や車に轢かれるだけではない。植木鉢が降ってくることもあった。民家の敷地内に植えられた大木が唐突に折れたこともあった。  生涯で一度も事故に合わない人もいるというのに、青が事故に合う確率は異常だ。  不幸体質が発動されるその都度、傷を隠し嘘を並べてその場を凌ぎ、“普通の人間”であろうとした。だが、それにも限界があることを青は察している。とにかく、不幸体質であるが故に不死身が露呈するような事態は避けたい。  住宅街を抜け、小道に入る。その小道を抜ければ商店街に出る。  ただ通ればよいだけの道ではあるのだが、その前に、青は一つの気がかりがあった。  道の半ばには古びたアパートが建っている。青はそのアパートの一階の奥の部屋に目をやる。  「やっぱり、今日もだ」  青がこの時間に家を出ると、必ず出くわす人物がいた。長身細身、白いトレーナーに黒いパンツに黒いリュックの無彩色な格好の青年。ブリーチを重ねたのか、痛み縮れグレーに光る髪の毛。前髪の量が多く、後ろ毛はすっきりしている。  その青年は今まさに部屋から出て、鍵をかけているところだった。この時間に青が家を出ると、必ずここでこの青年と合流してしまい、駅までご一緒することになっている。  しかも乗る電車まで同じなため、青は青年がホームに上がるためにいつも使っているエスカレーターとは反対の階段をわざわざ使ってホームに上がっている。  もちろんお互い真っ赤な他人だ。だからこそ、青はいつも気まずい思いをしていた。きっとそれは向こうも同じである。高校生になってからずっとそうなのだ。相手方も青を覚えていることは間違いなかったし、目が合ってしまったときはお互いばつが悪そうに目を逸らすのだ。  だが、ルートを変えたら今度は何が起きるかわからないという不安が襲ってくる。これ以上早い時間にもしたくないし、そもそもちょうどいい時間に電車がない。  青は少し歩調を早くし、青年から少しでも距離を置こうとした。重心を前にし、体勢も前傾にし、傘も斜め前に持ち下を向きながらぴちゃぴちゃと足音を立て歩いていたら、前方にあった電信柱に正面から派手にぶつかった。  傘の布と骨に力が加わる間抜けで鈍い音が、静かな小道に響く。  まさかと思い傘を見上げると、骨が直角に折れ曲がり、なんとも不恰好な物に成り果てていた。  後ろを振り向くと、そこでは紺色の大きい傘を差したあの青年がしっかりとこちらを見ている。  「最悪だ……」  青は小声で呟く。体の傷ならすぐに治るのに、心の傷はなかなか治らない。真っ赤にさせた顔を壊れた傘で覆い、水飛沫を小さく上げながら小走りで駅に向かった。    
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