鳥海 青

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 7時半頃、青はようやく教室に着いた。  青が通う高校は自宅から少し遠く、電車を二回乗り継ぐ必要がある。それだけでも面倒なのに、高校の最寄駅には踏み切りがあり、これが一度閉まったらなかなか開いてくれないのである。今朝もその踏み切りに20分も時間を取られた。  去年クラスメイトと駅で偶然会ったとき、そのクラスメイトに「どうせ電車来ないから、踏み切り潜って行こうよ」と誘われ、断り切れず話に乗ったら案の定事故に遭ったという苦い思い出がある。  あの時は確か転んで、ブレザーの校章が線路の溝に嵌り動けなくなったためだった。  下半身が潰され病院に搬送されたが、救急車に入れられたときには既に傷は完治していた。  車両の下にうまく体が入り込んで無事だったということになったが、奇跡の生還として地元の新聞に大きく取り上げられた。その新聞には青の引き攣った笑顔の白黒写真が載せてある。  そして、そのクラスメイトとは以降全く会話せずにクラス替えとなった。  そんなことがあったため、青は例え面倒でも踏み切りはしっかり律儀に守るようにしている。  とはいえ、例え踏み切りに足止めを食らったとしても時刻はまだ早い。教室には数人しか人がおらず、静かに黙々と自分の作業をしている。  青は窓際一番前の自分の机にスクールバッグを置き、中からペンケースと文庫本、今日必要な教材とノートとファイルを取り出して机の中に閉まった。  さらに教室の後ろに向かい、上段に設けられた個人ロッカーから使いそうな資料や教材を引っ張り出していたとき、開いたロッカーの扉の下から人の下半身が見えた。  誰だろうと青はロッカーの向こう側を覗き込む。そこにはいつも行動を共にする友人、石橋花音が立っていた。  「おはよー、青」  「あれ、おはよう。早いね、花音ちゃん」  ひらひらと手を振る花音に青は目を丸くしながら答えた。花音は朝が苦手らしく早い時間に登校してきたことなどなかったので、青は意外に感じた。  「うん。今日パパが珍しく車乗せてくれてさ、早く着いたの。雨だし、超ラッキー」  そう言い、花音は廊下側一番後ろの自分の席にスクールバッグを置いた。大量につけられたキーホルダーやストラップが箒の穂のように広がり、一面に付けられた缶バッジが蛍光灯の明かりを受けてチラチラと光っている。  それを見て青はハッとした。そうだ、キーホルダー、と。  昨日キーホルダーを探すよう頼んできたのは花音だった。おかげで悲惨な目にあったのだが、それは伏せたまま、見つけられなかったことを伝えなければならない。  花音は、最近大流行している男性アイドル育成アプリゲームの熱狂的なファンだ。ライブやイベント、アニメ化など、話題は尽きない。  花音のスクールバッグについている缶バッジもストラップも、キーホルダーも、そして昨日探していたキーホルダーも全てこのゲームのキャラクターの絵が擦られている。花音の“推しキャラ”というものらしい。真っ直ぐな白髪に碧い目。どことなく、早朝によく出くわす青年に似ていると青は感じていた。  青も花音に言われこのアプリをインストールしたし、ライブにも行かされたが、いまいち興味は湧かなかった。  花音が推しているキャラクターは認識しているものの、元よりこういったジャンルに青は疎いため、他のキャラクターはどうしても同じ顔に見えるのである。それでも毎回花音に感想を問われる。青は仕方なく適当に推しというものを作り、適当にゲームを進めている。  でも花音はそうではない。花音がどれだけそのゲームに時間と金を費やしているか、青は知っていた。だからこそ言いたくないが、言わないともっとまずい。  意を決して花音に近づき、「あのっ」と青は声を出す。だが、花音の声がそれを遮った。  「また青が住んでるとこ、出たんだね」  花音は席に座り、まだ誰も着席していない前列の机を見つめながら言う。  「また」。  はっきりと言われなくても、青には何の話かわかった、殺人鬼『フラワーキラー』だ。  「ああ……そうだね。また出たんだ。何がしたいんだろー」  青は咄嗟に話を合わせた。興味なんて微塵も持ち合わせていないが、花音の話を無視する度胸の方がもっとない。  「怖くないの?」  花音は、今度は青の目を真っ直ぐに見た。その目に慈愛などこもっていない。あるのは好奇心だけだ。  「怖くはない、かな。明るいうちに帰ってるし……」  「へえ?」  「犯人、どんな人なんだろうね」  「さあね」  「うん……」  青は言葉を詰まらせた。自分は死なない。恐怖もない。だからこの世間を騒がす事件と自分はあまりにも交わらない。そのため花音の言葉にどう返事をすればいいのかわからなかった。  それに、花音が本当に話したいことは“そこ”じゃないこともわかっていた。そして、そろそろ花音がそれを話し出すこともわかっていた。  青の憶測通り、花音は話し出す。  「今度の被害者は、何をやらかした人なんだろうね」  花音は両手で机に頬杖を突き、恍惚とした表情で天井を見上げた。  “正義の執行者”、この殺人鬼は、ネットで付けられた安直な名前とは打って変わって、若者の間では崇高な呼び名を与えられている。  全て憶測の域を出ない。だが、それはまるで真実のように電波を通して語られ、全く興味を持っていないはずの青の目にまで届いている。  昨晩のニュースのを含め、今までの被害者は計五人。  殺人鬼の最初の標的は、ごく普通の主婦だった。二人目は男性会社員、三人目は男子大学生。四人目はフリーターで、五人目の情報はまだ入っていない。  全員不幸にも事件に巻き込まれたと思われていたが、ネットのとある一言が様々な考察を読ぶことになった。  被害者は全員、法では裁けない悪人なのではないか、と。  一人目の主婦は、有名な悪質クレーマーだったという。出禁にしているお店もあるはずだが、一切懲りていなかったらしい。  二人目の男性会社員は、いわゆるパワハラ上司だったと言われ、この男性が原因で新卒の部下が一人自殺し、二人うつ病で休職しているらしい。  三人目の男子大学生は、サークルで新入部員を飲み会で泥酔させ、ホテルに連れ込みレイプしていたという証拠がネットで出回っており、常習犯だったと言われている。さらに、この大学生はミスターコンに参加していたため、ネットはこの事件のことで持ちきりとなった。この頃から、あの例の“正義の執行者”だという噂が若者の間で流れ出す。  そして四人目のフリーターは女性なのだが、地下メンズアイドルの熱狂的なファンだったらしく、自分が特に応援しているアイドルの他のファンを異様に敵視し、SNSで誹謗中傷やデマを投稿していたとされている。  そして、この殺人鬼は殺害したあとに必ず遺体の側に花束を置く。その花の種類は報道されていないが、目撃情報では白い花だったとされていた。  自己顕示欲からそのような行動をとっていると考えるのが一般的だが、ネットでは、それがまるで被害者を弔い“献花”しているようだとも言われている。  安寧のために消された命を思う犯人の本来の心優しさが表れているなどと説く人まで現れている。  これらの情報は全てニュースで明らかにされたことではなく、あくまでもネットで言われている噂にすぎない。  当然殺された被害者について言及するのを嫌う人間は多い。それでも、皆、この浪漫を語らずにはいられないのだ。  この殺人鬼は、“悪”を滅してくれている真の平和主義者だ、と。  「ねえ、青聞いてる?」  殺人鬼の噂についてポツリポツリ思案していた青は、同じく殺人鬼について語っていた花音の言葉で現実に引き戻され、ついでに肘を壁に打ち付けた。それを見た花音に「アホだね」と吐き捨てられ、続け様に言われる。  「あんた鈍いから、事件に巻き込まれても知らないよ。なんかいっつもついてないし、呪われてるんじゃない」  花音は青の額を指差しながら愉快そうにケラケラと笑い、足を組んで座り直した。  青は心外だと反論したい気持ちに駆られたが、口を結んでそれに耐える。そして「あはは」と力ない乾いた笑いを溢した。  だが、青の緩んだ顔が急に強ばる。青はちょうど、昨日ついに見つけることができなかったあのキーホルダーのことを思い出したのだ。その話を切り出そうとして話題が殺人鬼に持っていかれてしまっていた。  おそらく、本人はキーホルダーのことなどすっかり忘れている。花音は同じものをいくつも集める収集癖があり、件のキーホルダーも自宅に帰れば何十個もその顔を並べている。青もその趣味のためにしょっちゅう買い出しに行かされていた。  このまま殺人鬼の話を続ければ午前中は平穏だろう。しかしだからといって何も言わないのは、それこそ厄介事になることは容易に想像できた。  「あ、ねえ……」  青は胸の前で両手を握りしめ、眉を下げて笑みを作りながら控えめに花音に話しかけた。目を合わせられず、床を見つめる。花音は「声小さー」とまた高い声を出して笑った。  青は耳を塞ぎたくなるのを堪え、嫌な鼓動を刻む心臓を撫でながら声を絞り出した。  「ごめん……キーホルダー見つからなかった」  青のか細い声が耳に届いたのか、それまで、悦に入った顔で笑っていた花音の眉間に皺が寄る。  そして真っ黒の大きい瞳を光らせ、青を睨みつけた。  それを見て青は悟った。今日も帰りが遅くなりそうだ、と。  
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