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青年はすぐには返事をしない。その間が、青に不安を抱かせる。
触れてほしくないことだったかもしれない、どうしてそんなことを聞くのだと怒らせているかもしれない、そんな憶測が青の頭を埋め尽くす。
しかし、それでもこの機会を逃したくなかった。今逃したら、もう二度と無いような気がしていた。
最初は不幸だと思っていたこの邂逅が、今の青にとっては幸運だった。そして、幸運となった今、この機会はもう訪れることはきっとないのだ。そういう人生だった。
青年は少し遠くを見て、何か思案している。青は不安の中に若干の期待を含ませながら、青年の返答を待った。
やがて、青年は遠くを見たまま目線を下げる。
「覚えてたんだね」
青年の言葉に青はすかさず「そりゃ……」と小さく答えたが、次の言葉が出てこない。この青年を不快にさせない言葉を必死に模索した。そして、あわよくば好感も抱いて欲しいなどと思っていた。
しかし、青はすぐに大事なことを伝え忘れていることに気が付いた。一歩下がり、青年と僅かな距離をとってから深々と頭を下げる。
「あのっ、助けてくださり、ありがとうございます」
頭を下げた拍子で肩にかかっているスクールバッグが音を立ててずり落ちた。そのあまりにも決まらない格好で今朝の傘をぶつけた事故を思い出し、地面を見たまま頬を赤らめる。
そっと姿勢を戻すと、青年は青の方を見て何か言おうと口を開きかけていた。青は息を飲み、青年の言葉を待つ。
そこに、何かが震える無機質な音が響きだす。それはずり落ちて地面に放置されたスクールバッグから鳴っている。青はすぐに母親からの電話であることを察した。
あまりの間の悪さに青は舌打ちしそうになるのを抑え、「ごめんなさい……」と言いスマートフォンをスクールバッグから取り出す。
スマートフォンの画面に表示される『お母さん』の文字。応答ボタンをタップし、「もしもし」と小声で言いながら青年に背を向けた。
『あんた今どこにいんの? 学校終わってるんでしょ?』
母の声が電波を介して耳に入る。自分の不機嫌を全く隠そうとしない声色で話す母に青も顔を顰める。
「だから学校で残って勉強してるって。暗くなる前に帰るよ」
『あんたメール見たの?」
「あー、集中してて気づかなかった」
『何時に帰るのよ』
「だから暗くなる前に帰るって」
『昨日すぐ帰るようにお父さんに言われてたでしょ?』
「いやそうなんだけど……」
今すぐにでも電話を切りたいのに、そんなこと知るはずもない、知ろうとすらしない母はまたいつもの質問責めを青に繰り出す。
『まだ帰らないの?』
「だから暗くなる前に帰るから」
『いつまで勉強するのよ?』
「だから暗くなる前に……」
『それじゃあわからないでしょ!?』
「はい?」
母の満足する回答がわからず青は混乱する。一方、青が答えれば答えるほど母の不機嫌さは増していく一方だった。
『だから! いつまで勉強する気なのって!?」
「あー……暗くなる前に帰るんだから、その前とかじゃない?」
『何時になるのよ!?』
「そんなことわかんないよ……」
『いつ帰るの!?』
「いや……だから暗くなる前……」
『あんた話聞いてる?』
聞いていないのはそっちだろという言葉をぐっと飲み込み、代わりにを母には聞こえないように静かにため息を吐く。
そっと後ろを向くと、青年が手持ち無沙汰な様子で傘を軽く振っていた。それを見た青は申し訳なさでいっぱいになる。
これ以上青年を待たせないためにも、終わりの見えないこの会話をどうやって切り抜けるか、青は空を仰ぎ考えた。
「え……っと、18時になる前には帰るよ。明日からは真っ直ぐ帰る」
『じゃあいつまで勉強するの?』
「あー……」
青は一度スマートフォンを顔から離し時刻を見る。もうすぐ17時になろうとしている頃だった。
「……勉強は中断して、もう学校出るよ」
『勉強しないの?』
「うん、今日はここまでにする」
『勉強は大丈夫なの?』
「勉強は大丈夫です」
『じゃあもう帰るの?』
「もう帰るよ」
『今から帰るのよね?』
「そうなるね」
『じゃあ着くのは18時前ぐらい?』
「そうなるね」
『真っ直ぐ帰るの?』
「真っ直ぐ帰ります」
『そう、じゃあ玄関の鍵開けとくから』
「お願いします」
青の言葉を最後に、やっと通話が終了した。おでこに手を当て俯き、今度は大きくため息を吐く。
結局今すぐ帰らなければいけなくなってしまったことに、青はひどく落ち込んでいた。もう少しの間だけでも、青年と共にいられると思っていたからだった。
青はスマートフォンをバッグに入れ、青年と向かい合う。だが、目は合わせず俯いている。
「あの、すいません。帰らなきゃいけなくて」
「そうみたいだね」
話を聞いていたのか、青年は少し食い気味で返答する。
本当ならここでまた他人に戻るべきなのだろうが、青はそれができない。だが、名残惜しいと思っていることを打ち明けられるような仲でもない。何も言えず、ただ黙り込んだ。むしろ、青年の方から言ってくれないかと期待さえしていた。
視線を青年に向ける。青年と目が合い、青は視線を逸らした。
「……帰ろうか」
そう告げたのは青年だった。その言葉が発せられたことで、青は眉を落とす。
青年の言葉はきっと、最寄駅が同じなだけの他人に戻るということを意味している、と、青は感じとっていた。
淡い期待が潰えた瞬間だった。胸が詰まり、苦しくなる。
だが、青年の言葉はまだ終わっていなかった。
「どうせ、帰り道同じだし」
言葉の続きを聞いた青は、目を輝かせながら顔を上げ、青年を見た。
今日は運がいい日だと、青は確信した。
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