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「ひとりぼっちにしたら、可哀想じゃないか。」
タクミは、か細い声で呟いた。
近くの部屋からは、通夜の酒盛りが行われているのか、男性の声が重なって聞こえてくる。
タクミは、棺の窓からマリコを覗き込んだ。
「随分と疲れているように見えるよ。大丈夫か。大丈夫な訳ないよな。」
そこには、生前のマリコとは似ても似つかない気の抜けたような女が寝ていた。
マリコは、タクミの高校時代の同級生だ。
その当時から、タクミは、密かにマリコに恋心を抱いていたのである。
密かにという言い方は、違っているかもしれない。
タクミが、マリコを好きだと言うことは、マリコも知っている。
1度、マリコに打ち明けたことがあるからだ。
でも、既に、マリコには彼氏がいた。
それが、今の夫のケンジだ。
なので、勿論、アッサリと断られたよ。
「あ、ごめん。あたし、ケンジと付き合ってるんだよね。」
そう言った後に、ケラケラと笑ったね。
あの時の、あっけらかんとした断り方は、その時は、傷ついたけれども、あれは、僕に対する優しさだったんだなと、時間が経ってみれば分るよ。
とはいうものの、打ち明けた後のマリコとは、以前と変わらない関係が続いた。
それどころか、マリコと、それにケンジとも、仲が良かったんだよね。
ケンジも同級生だったから。
一緒に3人でハイキングに出かけたり、しょっちゅう遊んでた。
でも、そんな付合いが続くほど、マリコへの思いは募っていく。
目の前にいるのに、自分のものじゃない。
いや、自分のものじゃないって言い方は、間違っていることは分かっているさ。
たとえ、どんな状況であっても、人が人を所有するなんてことはあってはならない。
いや、そもそも、出来ないだろう。
あれは、西宮にある甲山にハイキングに行った時だ。
頂上の芝生の広場に出た時に、汗で額に貼り付いたマリコの前髪を、ケンジが指先で、ちょんと摘まみあげて、汗をハンカチで拭いたことがあったね。
あの時ほど、悔しかったことは無かった。
マリコの髪に触れることが出来るケンジ。
そして、マリコの髪に触れることの叶わない自分。
それを20年経った今でも、まだ覚えているって、相当だよね。
マリコは、僕とケンジに、おにぎりを作って持って来てくれたよね。
解ってるさ、ケンジの為に作ったってことぐらいさ。
でも、僕にとっては、あのおにぎりが、マリコに触れることのできる、唯一の瞬間だったんだ。
マリコが、白く細い指先で、握ったおにぎりは、米の一粒ひとつぶが、妙に白かった。
その米粒には、マリコの指の残像のようなものが残っているはずだ。
目には見えないけど、そんな感じがしたんだ。
手に取って、初めてひと口噛んだときに、マリコの掌の皮膚の細胞のヒトカケラでも、おにぎりに入っているんじゃないかって、ドキドキしたよ。
いや、マリコの細胞を喜んで食べるなんて、勿論、僕は、カニバリズムの趣味は無い。
でも、もし細胞を食べることが出来たなら、それは、マリコを手に入れたということなのかもしれないと、その時は、真剣に考えた。
いや、そう言う意味では、マリコを手に入れるのは、容易いことだ。
図書館で、自習をしていた時だ。
隣に座っていたマリコから、にんにくの匂いが漂ってきた。
「あれ。マリコ、にんにくを食べた?」
「匂う?さっき、ランチに餃子食べたんだよね。臭い。あははは。」
「ダメだよ。図書館で、そんな大声で笑っちゃ。それに、女の子がにんにくの匂いさせてるってのもさ。」
「だって、食べたかったんだもん。」
マリコは、いつもそうだ。
あっけらかんとしたオーラのようなもので、回りを明るくさせる。
その時も、僕は、マリコの肺から排出されたばかりの息を、マリコには気づかれずに吸い込んだんだ。
今まで、マリコの体内にあった水分が、肺から水蒸気として呼吸によって体外に排出されている。
詰まりは、タクミの吸い込んだ息の中の水蒸気や、にんにくの匂いは、ついさっきまで、マリコの体内に存在していたものなんだ。
それをタクミは、今まさに、自分の体内に取り込んだと言う事である。
マリコと喋りながら、マリコの体に存在した水蒸気が、僕の肺から体内に取り入れられて、いま自分の体内を巡っている。
そんなイメージを楽しんでいたが、だんだん、自分のイメージと言うか、妄想が、変態的になっていくことも俯瞰的に見ている自分もいた。
果たして、自分は異常なのか。
そんな問いを発しても、恋するものは、みんなこうなんだという理由をつけて、答えを置き去りにしてしまう。
そんな高校時代だった。
勿論、もう1度、マリコに告白をしようと思ったことだってある。
でも、マリコのケンジといるときの楽しそうな顔を見ると、やっぱりと諦めてしまう。
たとえ、ケンジを殴り殺して、マリコに告白しても、オッケーを貰える自信はない。
ケンジより、マリコを幸せにする自信なんてゼロだ。
そもそも、その前に、マリコに愛される理由が無いじゃないか。
僕には、マリコに愛される理由が見つからないのである。
どうしたら、マリコに愛されるのだろう。
マリコを手に入れたいという気持ちは、年を追うごとに増していく。
しかし、マリコを肉体的に手に入れても、そして、精神的に手に入れても、果たして、それで僕は満足するのだろうか。
ただ、お互いに認め合って人生を歩いて行く。
それは、精神的にもマリコを手に入れたということになるのかもしれない。
でも、タクミは、それよりも愛が欲しいと思った。
たとえ、一瞬でも良いから、マリコがタクミの事を、胸を焦がすような思いでいて欲しいのだ。
それは、一時的な欲のような衝動なのかもしれない。
でも、タクミが1番欲しいのは、それだったのだ。
そもそも、愛とは何なのだ。
いや、そんなことは、どうでもいい。
ただ、胸を締め付けられるような思い。
それが、欲しいんだ。
しかし、タクミは、マリコの棺の中の顔を見て、これから、そんな展開が起こる可能性がゼロになったことを悟った。
巻き線香の香がタクミの身体にも染みてくる。
「白檀か。」
マリコが、白檀の香が苦手なのしらないのかよ、ケンジ。
そう呟いた時に、ケンジが、人の気配に気が付いて、棺の置かれた部屋に入ってきた。
「よう。来てくれてたのか。声かけてくれればいいのに。」
「ああ。マリコと、少し話したくてね。それにしても、通夜だろう。最後の夜なんだから、そばにいてやらなきゃダメだろう。マリコが可哀想だよ。」
「親戚の人が来てるからさ。そっちの挨拶や世話があってね。それに、もう遅いから誰も来ないと思ってさ。」
マリコは、ガンになって、半年間、治療を続けたけれども、その甲斐もなく死んだのである。
「それに、もう死んじゃったんだよ。変な言い方だけど、ガンの苦痛から解放されたっていうのかな。だから、今は、あの世で楽になったって喜んでるよ。最後は、穏やかな表情だったよ。」
タクミは、ケンジに対して、今まで怒ったりしたことは無かった。
マリコが選んだ人だから。
でも、今の瞬間は、ケンジを殴りたいと思った。
最後は、穏やかな訳ないだろう。
たとえ、表情が穏やかだって言っても、それは諦めが高じた表情じゃないのか。
きっと、心の中では、苦しんでいたはずだよ。
それが解らないのか、バカヤロウ。
さぞかし心残りだったろう。
ただ、その心残りの相手が、このケンジだってことが、悲しくて仕方がない。
「ちょっと、一杯、飲んでけよ。」
「止めとくよ。親戚の人も来てるんだろう。それに、最終電車が、もうすぐ出るしな。」
ケンジがいなければ、朝までマリコの傍にいたかったけれど、ケンジを見ると、そんな気持ちが無くなっていた。
帰路の電車の中、タクミは、ジャケットのポケットに手を突っ込んで、あるものの感触を確かめていた。
そこには、確かにマリコが存在していた。
タクミは、少しの幸福感を覚えていた。
次の日、マリコの葬式である。
タクミは、葬式には行かなかった。
葬儀も無事に進んで、いよいよ出棺する時だ。
棺桶の蓋を開いて、飾ってあった花を手向ける。
ケンジが、何気なく見たマリコの白い装束の端に、赤い色が見えた。
何だろうと、ケンジが探って見ると、どうも血のようである。
そっと、袖から中を探って見ると「あっ。」声を出しそうになるぐらいに驚いた。
一体、どういうことだ。
マリコの左の小指が根元から切り取られていたのだ。
ケンジには、犯人はすぐに見当がついた。
あいつだ。
「タクミだ。」
ケンジは、愛するマリコの肉体を切り刻んだタクミに、震えるほど怒りを感じた。
とはいうものの、今は、葬式の最中である。
途中で騒ぎを起こすことも出来ずに、そのまま棺の蓋を閉めた。
そして、火葬場で点火される時に思った。
昨日まで完全だったマリコの肉体が、今は、小指の欠けた不完全な状態で焼かれようとしている。
ケンジの大切なマリコの肉体が、タクミによって持ち去られた。
「ゆるさない。」
ケンジは、震えが止まらなかった。
そして、骨上げの時、焼け残ったマリコの骨を、箸で掬いあげる。
その軽さに愕然とした。
親戚の人が、箸でマリコの骨を拾い上げるたびに、カサカサと骨が崩れて乾いた軽い音がする。
その音を聞いて、マリコは完全にこの世から消えてなくなったんだと、ケンジは思い知らされた。
灰になった骨には、マリコを感じることが出来なかったのである。
そして、思った。
今、この世に、マリコの実体があるのは、どこでもない、タクミの掌なのであると。
それが悔しくて仕方がなかった。
ケンジは、もうマリコの残像も、DNAも残ってはいないだろう灰になった骨が入った骨壺を持って、自宅に帰った。
その頃、タクミは、マリコの小指を取り出して、掌の上に乗せて見つめていた。
学生のころも、そして、卒業してから今日にいたるまで、触れる事も出来なかったマリコの肉体が、ここにある。
遂に、タクミは、マリコを自分のものにしたのだ。
ただ、そこに精神的なもの、タクミが求めていた愛は、存在しない。
でも、それでもタクミは満足していた。
たとえ、マリコが死んでしまっても、今、自分の掌にはマリコが、間違いなく存在しているのだ。
あれは、タクミが、就職して初めての給料をもらった時の事だ。
記念にと、台湾に旅行に行った。
初めての海外旅行だった。
その時に、何となく面影がマリコに似ているということで、ある有名な女性歌手のお墓に行ってみることにした。
そのお墓は、台北からバスで1時間半ぐらい走った山の斜面にある。
墓は、広い公園のような感じになっていて、その奥に歌手の墓があった。
国葬された唯一の芸能人だったんじゃなかったか。
その墓の傍に行くと、70才ぐらいの男が、そこに立っていて、訪れる参拝客の案内や、お墓のお世話をしている。
とはいうものの、正式な墓守ではなさそうなので、その男に声を掛けてみると、男は、毎日、このお墓に来ているそうだ。
そして、何をするでもなく、立っていると言う。
ただ、お墓のそばで立っている。
そこで、タクミは、直感した。
彼は、彼女のファンだったと。
生きている間は、近寄る事も出来ない遠く離れた存在だったに違いない。
話す事も出来ない。
そして、触れる事も叶わない存在。
でも、彼女が死んでしまってからは、このお墓に来さえすれば、彼女に会えるのである。
ずっと、そばにいられる。
それが、どんなに男にとって、幸せな事か。
彼女は、国葬されるときに、エンバーミングをされている。
詰まりは、この墓の下には、生きていた当時のままの姿で横たわっているのだ。
正に、そこに彼女はいる。
実在しているのだ。
男にとって、過去に、これほどの幸せな時間があっただろうか。
そして、男は、今日も、明日も、そして、命が続く限りずっと墓の傍にやってくるだろう。
タクミは、その台湾旅行のことを思い出した。
そして、今なら、その男の気持ちは理解できると思った。
タクミは、10年ほど前だったか、もっている貯金をはたいて、マリコの絵を、ある作家に頼んでいた。
その作家は、写実絵画を描く若手作家で、その作品が8年ぐらい前から壁に掛けてある。
始めは、写実絵画なんてとバカにしていた。
写真と言うものがある時代に、写実絵画なんて、必要があるのかと。
写実絵画とは、写真に撮ったように、実物そっくりに描く手法だ。
でも、ある時、写実絵画を展示しているホキ美術館に行った時の事だ。
そこにあった女性の絵に憑りつかれてしまったのだ。
何故なら、そこに描かれていた女性は、知らない女性だけれども、確かに、その女性が実在していたのだ。
写真は、そこにある物の反射している光線を映しとったものだ。
正確には違いないが、抜け殻のようなものだ。
でも、写実絵画は、その色形も忠実に再現しているのは同じだが、その女性の本質のようなものも写し取っているのである。
内面的なもの、或いは、精神的なもの。
なので、それを見る人に、彼女が実在しているかのような錯覚を覚えさせる。
タクミは、マリコをモデルにした写実絵画を作家に依頼して描かせていたのだ。
その絵が、壁にある。
それは、まさに、マリコが、タクミの部屋に実在しているかのように、にこやかに笑っていた。
そして、今、掌の上に、マリコの肉体が乗っている。
タクミにとっては、これでマリコの実在が、完成したのである。
本質を写し取った絵と、マリコの肉体の実物。
詰まりは、精神と、肉体の両方が揃ったのである。
「ああ、愛おしい。マリコ。愛してる。」
タクミは、マリコの小指に頬ずりをした。
赤い血が、タクミの頬を染める。
「うん。解ってるよ。死んじゃったから返事できないんだよね。ん?痛かった?小指切る時痛かったの?あはははは。でも、死んじゃってるんだから大丈夫だよね。」
「ねえ、マリコ。マリコの指で、ほら、僕の唇に触れてみてくれないか。うん、そう。どうだ?僕の唇は。柔らかいかい。あははは。そうかい、そうかい。」
タクミは、マリコの小指を使って、妄想の世界に入り込んで行った。
数時間もタクミは、マリコの小指の世界に没入していただろう。
「あ、ダメだよ。マリコの小指、変な匂いしてるよ。ダメだ、ダメだ。腐っちゃ嫌だよ。マリコは、マリコで居てくれなくちゃ。」
タクミは、マリコの小指が、あと数日もすると腐りだして、最後には、骨だけになってしまうんじゃないかと、不安を覚えだした。
「たとえ、骨だけになったとしても、僕は、マリコを愛するよ。それが愛って言うもんだ。分るだろう。」
骨もまた、火葬場で焼いてカサカサと音がするぐらいに軽くなってしまえば、実在を感じなくなるかもしれないが、今のままの生の骨なら、きっと実在を感じることができるだろう。
でも、一度、肉体の柔らかさを知ってしまったら、その生々しい皮膚を感じずにはいられなくなってしまう。
「ああ、マリコが腐ってしまって、また僕と離れ離れになってしまう。」
タクミは、頭を抱えて部屋を歩き回った。
次の日の夕方である。
ケンジが、タクミを訪ねてきた。
いや、訪ねて来たと言うよりは、怒鳴り込んで来たという方が正解か。
「タクミ、お前、マリコの小指を切っただろう。大切なマリコの身体を傷つけて、酷いやつだな。」
「ああ。悪かったよ。確かに、僕は、マリコの小指を切って持ち帰ったよ。」
「何を冷静に喋ってるんだ。その指、返せよ。」
「それは、嫌だよ。だって、やっと手に入れたマリコなんだ。手放すわけが無いじゃないか。」
「盗ったんだから、返すのが常識だろう。」
「いや、ケンジの持ち物なら返すよ。でも、マリコの小指は、マリコのものだろう。だって、マリコは、ケンジの所有物じゃない。」
「何を屁理屈言ってるんだ。返せって。」
「申し訳ないが、それは出来ないよ。だって、マリコの指は、もう飲み込んでしまったんだから。」
「飲み込んだ、、、。」
「ああ。あの白い小指の肉を、このまま腐らせちゃ可哀想だろう。なあ。だから、飲み込んだ。もう、あと数時間もすれば、マリコの肉体は消化されて、僕の肉体の一部になる筈だよ。あははは、これからは、僕自身が、マリコになるんだよ。」
「この野郎。」
ケンジは、思わずタクミに乗りかかって、首を絞めようとした。
「ケンジ。僕を殺すのは、マリコを殺すのと同じだよ。解るかい。もう、マリコは、僕の一部になり始めている。このまま、マリコを、僕の肉体の中で生かせておく方がマリコの為だとは思わないのかい。」
それを聞いてケンジは、首を絞めるのを止めた。
「狂っているよ。」
そう言い残して、ケンジは帰って行った。
おそらく、警察に被害届を出しに行くだろうけれど、証拠なんて何もないさ。
タクミは、部屋の窓を開けた。
ひんやりとした風が部屋の中に吹き込む。
「ああ、気持ち良いね。そうだ、明日からは、マリコの分も人には親切にしなくちゃね。だって、マリコの優しさをみんなに知って欲しいからさ。ボランティアなんてのもどうかな。
タクミは、学生時代から感じていなかった幸せに浸っていた。
「そうだ。僕、髪を伸ばそうかな。どう思う?マリコ。」
「あははは。そうだよね。うん、そうだ。」
「でも、あそこのオムライスは、最高だよね。えっ、あれにソースかけるの?」
「そこ、ダメだよ。くすぐったいって。」
タクミの独り言は、深夜まで続いた。
そして、タクミが、また呟いた。
「うん。タクミ。あたしも、タクミの事が好き。」
その瞬間、タクミの胸が締め付けられるようにキュンとなった。
「あれ、これって、愛じゃないのかな。でも、このときめきは、僕のマリコに対する愛なのか、それとも、マリコの僕に対する愛なのか。一体、どっちなんだ。」
、、、、「まあ。どっちでもいいか。ふたりは、一緒なんだもん。」
タクミは、机に向かって、ただ笑顔で座っていた。
ただ、そこに座っていたのだった。
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