すすき野原

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「――おい、お前、こんなところで、何をやってんだ?」  遠くの山の稜線が仄かに赤く染まっている。東の空にはまだ青みが残っているが、秋の陽が沈むのは早い。この青が藍に変わり、やがて闇に呑まれるまでもうそれほど時間はないだろう。  川面に張り出すよう群生した無数のすすきが、吹き抜ける風にそよそよと揺れている。京の都は盆地にある為、夏はうだるように暑く、冬はとんでもなく冷えて雪が降る。お后教育の一環として義父がつけてくれた教師から最近、かつてこの地を都と定めたのは桓武の帝だと教えてもらったのだが、その事実を知った時、多子は本気で、いにしえの帝の正気を疑った。 「おい小娘。さっさと家に帰れ。その身なりだ。まさか家がない訳ではないのだろう?」  河原の道を歩んでいて、たまたま多子の姿が眼に止まったらしい。童形の少年がこちらを見下ろしながら問う。黄金色のすすきが揺れる川辺で、一人膝を抱えて蹲っていた多子は、唐突に現れた少年のぶしつけな言葉に声を荒くした。 「余計なお世話よ。あ、あんたこそ、こんな時間にこんなところで何をしてるのよ?」 「俺ことなんてどうでもいい。今の都は、夕暮れ時にお前みたいな小娘が、供もつれずに一人で出歩いていい状況ではないんだぞ。身包み剥がされて売り払われたいのか?」  そういう少年の年齢は、恐らく、今年十歳の多子より二つか三つは幼いのではないだろうか。多子の常識に照らし合わせるなら、七つや八つの幼子が一人で河原を歩いているのだって十分異常だ。しかしこの時、彼は多子が知るどの大人の男よりも、さめざめと醒めた目をしていた。  何故なのだろう。少年と眼があった瞬間、急に胸の内から言葉があふれ出た。 「……母様が亡くなったの」  多子の生みの母は、父の正室ではない。もとは正室である北の方に仕える侍女であり、父の寵を受けて多子を産んだ。とはいえ、北の方はとても寛大だった。飼い犬に手を噛まれたといっても過言ではない状況で、多子と実子として扱い、その母共々、自らの懐に囲いこんだのだ。  表向き、多子の母は北の方だ。多子もずっと北の方を「母上」と呼んできた。しかし、だからと言って―― 「入内するの」  前後の脈略のないまったくないこの台詞に、少年はわずかに首を傾げながら多子の隣に腰を下ろした。少年の目線の先、揺れる穂先すれすれのところで赤蜻蛉が飛んでいる。 「だから誰も教えてくれなかったの。北の方様も、義父上も、母様が亡くなったことを知っていたのに、わたしには教えてくれなかった。義父上はおっしゃったわ。忠通様もご養女を帝に入内させようとなさっている、よりにもよって、こんな時に死ななくてもよかろうにって」  本来ならば、身内に不幸があった娘の入内は延期されるのが通常だ。まったく、何という時に死んでくれたのだろうね。しかし、心配するな。お前の母は北の方だ。お前の入内には今回のことは何ら係わりない――  侍女達の噂話に実母の死を聞いて問い詰めた多子に、父と父の友人……多子の義父となる藤原頼長は笑いながらそう答えた。多子が自分の入内が延期されるのではないかと、憂いていると思ったらしい。  それが、実母を亡くした娘の前で言う言葉か。何不自由ない生活を保障し、手中の珠、未来の国母と慈しんでくれた二人の父親に、多子が心底失望した瞬間だった。 「――帝は、死ぬぞ」 「そりゃ、いつかは……」 「いつかじゃない。俺の師匠は大陸の医術に詳しい。こないだ、宮中で帝の顔を拝見して、死期が近いと見て取った。二十の年は越えられぬ。子を儲けられることもないとな」 「えっ、冗談じゃないわよ!嫌々入内させられて、行く末がそれなんて!」  帝に先立たれ、子のない妃の行く末はたった一つだ。出家して、死ぬまで延々、亡き夫の菩提を弔うだけの人生を過ごす。  正直なところ、多子は何度か遠くから垣間見た、近衛帝という少年が好きではなかった。彼は顔色の悪い陰気な少年で、常に母親の裳の影に隠れているようなところがあったから。  その帝に嫁ぐ為に、母の喪に服すことさえ許されないという。かなり反抗的な気分になった多子は、帝の母・美福門院邸を訪問するこの日、輿が館に着く直前に密かに抜け出して、この川辺にまでやってきたのだった。 「お前、帝が嫌いか?」 「嫌いというほど、お会いしてないもの。でも、お会いして、お話が弾む方でないことだけは確かね」  それはそうだ、と少年は笑う。整った相貌に初めて、年相応の幼さが垣間見えた。 「よし、なら、どうだ」 「えっ?」 「会って話が弾む男がいいんだろう?ならばお前、俺の后になれ」  少年のこの言葉に、多子は本気で吹きだした。 「あんた、后って言葉の意味、わかって言ってるの?后ってのはね、帝の奥さんのことなのよ」  義父が突然政治的に失脚でもすれば別だろうが、実際のところ、多子が入内する運命はどう足掻いたところで変わりようがない。父たちにしてみれば単に娘を入内させたという事実が必要なだけであって、相手なんて誰であっても構わないのだ。近衛帝であろうが――この少年であろうが。 「俺だってそれくらい、知ってるよ。つまり、俺が帝になればいいってことだろ?」  帝と后の意味は知っているのかもしれないが、この子供は多分、「奥さん」の方の意味をわかっていない。出会ったばかりの年下の少年に対し、不意に優しい感情がこみ上げてきて、多子は彼に向かって微笑みかけていた。 「……いいわよ。あんたが帝になったら、わたしが后になってあげる。でも、あんたは一体――」 「――多子様!多子様!まあ、こんなところにおられたのですか?」  誰なのよ……と多子が口をする寸前で、頭上から声が落ちた。弾かれたように顔をあげた少年が、やべ、と呟いて立ち上がる。呆気に取られた多子の視線の先で、驚くほど素早い身のこなしで、すすき野原を駆け抜けて行く。  そのまま走り去るのかと思ったら途中で振り返って、多子に向かって大きく手を振った。彼の姿を認めた多子も、手を振り返す。多子の傍らに降りてきた乳母が、少年と少女の姿を認めて目を剥いている。 「多子様!皆、どれだけ心配したかわかっているのですか!それをこんなところで、あのような子どもと係わるなんて!」  あのような子供。  その言葉に違和感を覚えて、見慣れた上にも見慣れた乳母の顔を仰ぎ見る。彼は多子の身なりをよい身なりだと言っていたが、少年の着ていた衣服だって、それなり以上ものだった。まさか身分のない地下人の子ではあるまい。多分、傍系の皇族の子――親王宣下を受けられない末端の王の子か孫あたりだろう思っていた。 「乳母やは、あの子が誰か知っているのね?――あの子は誰?誰の御子なの?」  多子の問いかけに、乳母は憂いを帯びた目を、もうほとんど米粒くらいにしか見えない少年の背に向けた。 「――守仁王様でございますよ。雅仁親王様のご長男です。母君がご誕生と同時に亡くなって……、雅仁様はお子の養育などできない方ですからね。見かねた上皇様と美福門院様が引き取られたのです」  現在の治天の君・後鳥羽上皇には二人の后がいる。  後鳥羽院は皇位を継ぐ前からの糟糠の妻であった待賢門院を疎み、年若い寵姫である美福門院――多子の許嫁である近衛帝は彼女の所生である――を深く愛した。待賢門院が生んだ子ども達は后腹でありながら正統とみなされず、長男・崇徳帝はだまし討ちのように近衛帝に帝位を奪われるなど、長く不遇の境遇にあった。  雅仁親王は上皇から疎まれた待賢門院の第四皇子である。今様狂いの変人として知られ、元服後も長らく同母兄の崇徳院の宮に同居していた。出生と同時に母を亡くした孫王を祖父が憐れんで手許に引き取った――といえば聞こえはいいが、実際には皇位継承の望みを断つ為に、早々に出家させられることが決まっている少年だと多子が知るのは、それからもう少したった後のことだった。
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