すすき野原

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 ――目を閉じれば今も鮮やかに、すすき野原で笑うあの人の姿が見える。 「何度言われても、答えは変わりません。――わたくしは絶対に、宮中には参りません」  頑なな拒絶に、男は深く長い息を吐き出した。白い色が混じった顎鬚に手を伸ばし、微笑を浮かべたその表情は、幼子を宥める好々爺のそれであったが、生憎、彼が今相対しているのは、幼子ではなかった。 「多子、聞きなさい」 「いやです。もう聞きたくありません」 「聞くのだよ、多子。他の誰でもない、主上が、お前をお望みなのだぞ。考えてもみろ。もう一度入内して、もし皇子を授かればそなたは国母じゃ。この爺は帝の外祖父じゃぞ。我が家門にとってこれ以上の栄誉があろうか」  滔々と語り聞かせる父親の言葉を振り払らおうと、多子は激しく首を振る。高位の女の元へ深夜の男の訪れではあるが、彼は多子の実父なので、本来ならば垂れ下がっているべき御簾も今は上げられている。  藤原多子は閑院流藤原家、藤原公能の息女である。十一の年に摂関家の藤原頼長の養女として宮中に上がり、時の帝である近衛帝の后となった。近衛帝在位中に皇后の位を賜り、帝が十七歳の若さで亡くなった後には、太皇太后として、今なお、先帝の后として人々に遇されている。  その自分をあろうことか、今生の帝――二条帝は近衛帝の甥にあたる――が望んでいるという。既に二条帝には正妃である中宮が存在したが、一人の帝に二人以上の后が仕えるのは珍しいことではない。しかし叔父と甥、二代の帝に仕える一人の后――二代后は遠く中国に前例こそあれ、この日の本の国には例がない。  頑な娘の様子に、父はしみじみと膝を折る。 「お前と近衛帝は仲むつまじかったからな。亡き帝に操を捧げたい気持ちはわからんでもない。しかし今生は気性の荒いお方。お前が拒んだと聞き及んだら、この父だけではないそなたの兄も姉妹も……どんな処罰を受けるか知れぬのだぞ、多子」  気持ちはわかる。だが耐えてくれ。そう言わんばかりの父の様子に、多子は――高位の女人としてはあるまじきことに、声をあげて笑い出しそうになった。  ――わかっている?  この人はいつもそうだ。父だけではない。この国の男は、いつも自分の見たいものだけを見て、自分の信じたいものだけを信じる。女にも感情があるなどということは、はなから考えてもみやしない。  多子は亡き近衛帝の后ではあったが、周囲の期待は帝より年長で男子出生の期待ができるもう一人の后・藤原呈子に向いていた。多子と近衛帝との間に心が通い合ったことは一度もないし、もっというなら、褥を共にしたこともない。そんな夫婦仲は父だって知っていたのに、今ここで「仲睦まじかった」と口にするのだから、空いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。  あなたにわたくしの気持ちがわかろうものか。わかるはずもない。そうよ、お父様、あなたは何もわかってなどいない――
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