二つの約束

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 当時は二人との約束に優先順位をつけていた。今思い返すと文太郎は情けなくなって自分の頭をゴチンと一発殴ってしまう。  慶太とはな枝。文太郎とは幼馴染みだった。  文太郎は慶太と約束をした。  今からちょうど一年経ったら、俺はこの島の港で、慶太はこれから暮らす向かいの島の港で、自分の作った花火を打ち上げる。  どんなに出来の悪い花火玉でも打ち上げろ。いびつな形をしていても構わない。俺たちが離れている一年の成果を見せつけて、元気に暮らしていることを知らせろ。  慶太はうんと頷き、船に飛び乗った。手ぬぐいを振り回し、甲板から文太郎に叫んだ。  「約束だからな!」  「どっちが良い花火か、勝負だ!」  船が離れ、声が届かなくなるまで慶太は叫び続けた。聞こえなくなっただけで、本当はずっと声を張っていたのかもしれない。文太郎と同じように。  文太郎ははな枝と約束をした。  今からちょうど一年経ったら、絶対に迎えに行くから、その頃には俺は誰よりも美しい花火を作る職人になっているから、だから結婚しよう。  離れていても、俺たちの間に海が流れていても、俺ははな枝が好きなままでいるから、待っていてほしい。  はな枝は可愛らしい微笑みで文太郎を見上げた。こくりと頷く。  「もちろんよ。待っているから、迎えに来てね。約束よ」  はな枝は舟に乗っても文太郎を見つめていた。彼女の姿が見えなくなっても、ずっと目が合っているような気がした。はな枝もそうであっただろう。  文太郎が二つの約束のうち、どちらをより重く捉えていたかというと、はな枝との結婚の約束であった。  だからといって、慶太との約束が軽んじられていたわけではない。それでも、無意識にはな枝との将来を思い描く時間のほうにかまけていた。  毎日、火薬を詰めながら考えていたのは海を隔てて対峙する、隣の島のことだった。  慶太はそこの花火職人に弟子入りをした。文太郎の師匠の好敵手ともいえる職人の弟子だから、おのずと文太郎たちも、互いを競争相手として認識し、切磋琢磨する意志を固めていた。  毎年、祝い事があると文太郎たちの住む島も、向かいの島も、花火を打ち上げて盛大に祝う。その花火の華やかさや形の端正さを島民たちは比べ、歓喜したり下唇を噛んだりするのが恒例だった。  本番はもちろん年明けとか、豊作を祝う祭であるが、その前に、花火職人たちは出来上がった花火玉をいくつか試し打ちする。それは職人の作品だけでなく、弟子の手がけた成果も打ち上げられる、駆け出しにはとびっきりの見せ場となっていた。  文太郎と慶太は一年後、試し打ちの機会を利用して自分の花火を一斉に見せ合おうと約束した。そして出来栄えを競うとともに、互いの息災を確認するのだ。  その時が来たら、文太郎は二つの島の中で一番素晴らしい花火を打ち上げなければならない。  それがはな枝との約束だった。  はな枝は向こうの島で暮らす叔父夫婦の家に一年間まるごと滞在することになっている。叔父夫婦は忙しく、子どもの世話が見きれないというので、はな枝が手伝いに行くらしい。  一年経てば帰ってくるのだが、文太郎はわざわざ自分から迎えに行くと言い張った。  ただ迎えに行くまで待っていてくれ、それから結婚しようと言えばいいものを、わざわざ「一人前の花火職人になる」ということまで約束してしまったのだから、今では首が閉まる心地だ。  花火の出来が悪かったらはな枝との結婚はどうなる。それは関係ない。慶太のほうが立派な花火を打ち上げて見せても、文太郎ははな枝との結婚を諦めるつもりは毛頭なかった。  とにかく、今できることは花火を作ることだけである。文太郎は火薬を手に取って、一人頷いた。  一年はあっという間に過ぎてしまうものだ。  はな枝との結婚を考えているときはとてつもなく長く感じられる時間も、最高の花火玉を作ろうと試行錯誤しているときには無慈悲に走り去っていく。  文太郎は紺色の風呂敷に包まれたような、夜の港に立って震えていた。  寒いから震えているのではない。武者震いであってほしかったが、それも違った。  文太郎の花火職人としての腕は大して上達しなかったのだ。  はな枝のことを想えば、師匠の叱咤もありがたい教えとして身に染み込んだ。何度やり直しさせられても、心が挫けることはなかった。むしろ、試練を与えられるたびに成長の機会を得たとばかりに喜んだ。  しかし、約束の一年まで残すは一か月となったときには、文太郎は日の過ぎるのが恐ろしくてたまらなくなっていた。  いつまで経っても師匠は花火を打ち上げるのを認めてくれない。試し打ちするまでもなく、全く駄目であるということだった。  鶏が調理のために首をひねられるのは、こんな気持ちなのかもしれない。文太郎は時間の無駄にしかならない想像をした。時間が過ぎるごとに呼吸ができなくなる気がするのだ。気がするだけで実際は大量の空気を摂取しているのであるが、心の呼吸がままならなかった。  顔を洗うとき、張った水に映った自分の顔がはな枝に見える。  すれ違う女の子をはな枝と見間違え、「帰ってきたのか!」と叫んでしまう。  ついには火薬の一粒一粒がはな枝に見えてしまうまでに追い詰められた。  呼応するように花火玉の出来はどんどん悪くなる。  文太郎の歯がガチガチと鳴った。  冷や汗が結露のように無数に浮かんだ顔を拭こうと手ぬぐいを持ち上げたとき、思い出した顔があった。  慶太!  船の上で手ぬぐいを振り回す友人の顔が鮮明に思い出された。一年どころか何十年も会っていないと感じるくらい、久しぶりに記憶が蘇ってきた。  そうだ、俺はあいつとの約束も守らなくちゃならないんだ。  慶太に花火を見せなくてはいけない。  その花火がどんな出来であってもだ。  文太郎は大切な幼馴染みたちとそれぞれ交わした約束を反芻してみた。  慶太と自作の花火を見せること。はな枝と結婚すること。  手元の火薬を手に取る。ずっと頭を支配していた不安がほんの少し晴れてきた。  慶太と約束したのは、花火を打ち上げることだ。 どんなに出来の悪い花火玉でも打ち上げる。いびつな形をしていても構わない。俺たちが離れている一年の成果を見せつけて、元気に暮らしていることを知らせる。そう誓い合った。  はな枝と約束していたのは、結婚だ。迎えに行くから、好きなままでいるから、結ばれよう。  誰よりも美しい花火を作る職人になる、というのは文太郎が勝手に追加した試練である。見栄を張ってしまったのは恥ずかしいが、これが叶わなかったからといって彼女との約束が反故になるはずはない。  それならば、二人との約束を果たすために文太郎が今するべきことはただ一つだ。  何が何でも花火玉を完成させて、試し打ちができる程度に漕ぎつけねばならない。  いよいよだ。  昨日やっと、師匠から試し打ちに出る許しをもらえた。師匠の花火玉は最後に打ち上げ、まずは自分から打ち上げることになった。  二人が同じ日に花火を打ち上げたら、見ている人はどっちの花火かわからないのではないだろうか。慶太は文太郎の花火が前後のどちらであったのかわからないし、逆もしかりのはずだ。  しかしその心配はなかった。師匠である花火職人の咲かせる花火は、唯一無二であり見ればすぐにそれとわかるのだ。完璧に限りなく近い形に、美しい色合い。それだけでなく、何かがあるのだった。この花火は自分のものだと主張する声が、意志が、花火から感じ取れるのだ。毎年見ている島民が見間違えるはずはなかった。それは慶太の師匠にも言えることだった。  文太郎は港に立ち、海を隔てて対峙する島に頷いてみせた。  花火が打ち上がった。  同時に、向こうの島の花火も打ち上がる。  二つの閃光は同時に爆ぜた。  一つは潰した蜜柑のようないびつな花火。病み上がりが急に起き上がって倒れたときのようにあっけなく消えていった。  もう一つは菊のように丸く、牡丹のように鮮やかで、桜のように上品な見事な花火。数日後の祝い事を告げる、吉兆の花のようだ。  夜空に蒔かれた種子から生まれた二輪の花の歴然とした差に、島民たちのため息がかかる。姿だけが見える向こうの島からは、今にも歓声が聞こえてきそうである。  「ひでえな」師匠が呟いた。文太郎の顔が真っ赤になる。その表情は情けないものであったが、頭上の花火に比べると何倍もましだった。  今、向こうの島で上がったのは慶太の師匠の花火だ。見ればわかる。  では次は慶太が打ち上げるはずだ。文太郎は気を取り直した。  文太郎の師匠の花火が打ち上げられる。白い龍が天に昇っていく。  咲いたのは百合のように可憐で、蓮のように清い、火の大輪だった。島民が悲鳴のような歓声を上げた。  向こうの島の上には紺色の風呂敷がかかっている。天の土壌にはもう花が咲く気配がない。  しばらく沈黙が続き、誰かが「向こうの島は一つだけか」と言った。  「お弟子さんは打ち上げないみたいね」  「まだ出来が良くないんだろう。こっちの弟子とは違って納得のいくものができるまで上げないんじゃないか」  人の波が引いていく。残るのは海の波と文太郎のみだ。  文太郎はずっと待っていた。夜が明けるまで、遠くに友人が花を咲かせるまで、そこに立ち尽くしていた。  そして、朝が来ても花は咲かなかった。  文太郎は船に乗っていた。  向かい側の島までもうすぐだ。海があって行き来は面倒であるが、距離は近いのですぐに着くのだ。  文太郎は島に着いてからの段取りを頭の中で何度も確認した。  着いたらまっすぐはな枝に会いに行く。そしてすぐに船に乗せ、俺の暮らす島に、はな枝の故郷に帰る。  慶太に鉢合わせるだろうか。会ったらあいつは俺に何を言うだろう。  考えたって無駄だ。俺はもうあいつの顔も見たくない。  一年越しの約束をあいつは破った。こっちはあんなに醜い花火を打ち上げてまでお前との約束を果たしたのに、あいつはそれに応じなかった。  文太郎は鼻を鳴らした。船が港に着く。  あいつなんか納得のいく花火ができるまでせいぜい頑張っていればいい。いつ打ち上がろうとも、俺は見てやらないから。  そう思いながら港に降りると、そこには今まさに考えていた一番会いたくない相手がいた。  「文太郎!」  裏切り者が駆け寄ってくる。  文太郎は無視して歩き始めた。  「おい、文太郎!」  慶太が文太郎の前に立ちふさがる。文太郎は煩わしそうに顔をしかめた。  「話しかけないでくれよ」   慶太が面食らう。文太郎は友人を見て口元を歪めた。  「昨日の花火、見ただろう? 自分が出す気も失せちまうくらいひどかったか?」  「約束を破ったのはごめん。でもそれどころじゃなかったんだ」  「それどころじゃないだと」  文太郎は走り出した。はな枝のいるという家に一直線に向かう。  「待ってくれ、文太郎! 違うんだ」  後ろから慶太が追いかけてくるが、足は文太郎の方が早かった。はな枝の叔父夫婦の住む家の前で来たとき、慶太は蟻くらいの大きさで走っていた。  「ごめんください」  戸を叩く。開いて、女の子の顔がのぞいた。  「だあれ?」  叔父夫婦の娘、つまりはな枝の従妹だろう。  「俺ははな枝さんの……友達? だよ。はな枝さんは今いるかな」  そう聞くと、女の子はたちまち悲しそうな顔をした。引き返して「おかあさん! おかあさん!」と叫んでいる。  すぐに細長い女性が出てきた。  「あなた、文太郎さん?」  その女性ははな枝の叔父の奥さんだった。浮かない顔をして文太郎を家の中に招き入れる。  そこにいたのは、文太郎を待ち受けている元気な幼馴染みではなく、布団に横になって辛そうに咳をしている少しやせた幼馴染みであった。  「文太郎ちゃん……」  「はな枝、どうしたんだ」  はな枝は身を起こそうとしてまた倒れ込んだ。それを見た従妹がわっと泣く。文太郎は昨日の自分の花火の消える瞬間を思い出した。  呼吸を少し乱しながら、はな枝は文太郎に笑いかけた。  「ごめんね、少し病気しちゃって」  後ろの戸が開いた。慶太が飛び込んでくる。  慶太の姿を見た瞬間、はな枝はわっと泣きだした。  「二人とも、ごめんなさい」  はな枝はしゃくりあげながら、ときに咳き込みながら話し始めた。誰が止めても話すのをやめなかった。  はな枝は一ヶ月前から病を患っていた。すぐに治るだろうと高を括っていたのも束の間、寝たきりになってしまった。帰ろうにも船に乗る気力もなかった。  布団の中で過ごすこと一ヶ月、ついに文太郎との約束がやってきた。  はな枝はこのときばかりは無理をして花火を見に行った。文太郎の完璧な、どれよりも美しい花火を見れば、きっと元気が出る。そして彼が迎えに来たときには何が何でも船に乗って故郷に帰るのだ。  はな枝は約束が果たされる時をじっと待った。  そしてその時はすぐにやってきた。  遠くに浮かぶそれを見ると、はな枝の心は潰れた蜜柑のようにひしゃげた。  咳が強くなり、めまいがした。  体調がより悪くなったのか、心が苦しがっているのか、わからなかった。  はな枝はその場を走り去った。よく走れたなと自分でも驚く。  人気のない暗がりまで行き、海に身を投げようと足を踏み出す。  文太郎に裏切られた。彼は約束を破ったのだ。誰よりも美しい花火を作る職人になると言っていたのに。彼はあんなものを!  一番の職人にならなくてもいい。慶太の花火より見劣りがしたって構わない。文太郎が精一杯作ったものなら私はどんなものでも好きになれる。だからこの日を楽しみに、病に耐えてきたのに。  自分が軽んじられた気がした。私との結婚なんて彼は考えていない。約束なんて片手間に守ればいいと思っているのだ。  いい加減に作られた花火より、墨のように真っ黒な海の方が暖かく、慈悲がある気がした。  ドボンと落ちると、それは気のせいで、冷たい水が心臓をキュッと絞った。  目を覚ました時、はな枝はいつもの布団にくるまれていた。  夢かと思ったが、体調はこれまでにないほど悪くなっていた。水に入ったのが災いして風邪を引いたのだ。  はな枝を海から引き上げたのは慶太だった。  慶太は言った。  「文太郎は俺との約束を守ろうとして急いだんだよ、きっと。花火をどんなに出来が悪くても打ち上げるって約束してたから。ごめんね。でもきっと、あいつはもう一つの約束を守るよ。俺との約束を守って、はな枝との約束を破るなんて、ありえないから」  はな枝はふっと息を吐いた。文太郎と慶太に向かって微笑みかける。  「慶太ちゃんはね、花火を打ち上げるはずだったんだよ。でも私が走ってったから心配して追いかけてきてくれたの。慶太ちゃんがいなかったら私、文太郎ちゃんとの約束、破るところだった……」  文太郎はいつのまにか泣いていた。昨日の花火に匹敵するほどのひどい顔だった。  文太郎は慶太を見た。慶太は申し訳なさそうな、でもどこか嬉しそうな顔で頷いた。    約束は、破られることによって守られたのだ。
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