第二章 王からくだされるもの (3)

2/3
前へ
/58ページ
次へ
「エプィヌ」  名を呼ばれて初めて、エプィヌは、考え事をしているうちに、ユディトからずいぶん遅れてしまったことに気が付いた。 「すみません」 「そんなに急がなくても良いのよ」  小走りに間隔を詰めたエプィヌが、石畳の僅かなとっかかりに躓いたのを見て、ユディトは柔らかい声で言った。  まだ朝だというのに、高い城壁が立ち塞がっているおかげで、淡い陽光が真上から差している。白いベールに身を包んだ彼女は、ちょうどその明るみに佇んでおり、まるで、創世神話の女神のドゥリンが、目の前に現れたかのようだった。 「驚いたでしょう」  ぼんやりしたままのエプィヌに、ユディトは穏やかに語りかけた。 「誰もがそう、皆驚くの。広くて、見たことのないものに溢れていて」 「はい」  感情の起伏が少ない博士も、少年の頃、初めてここへ足を踏み入れた時には、そうだったのだろうか……。ユディトが歩くのとは反対の左の傍らに、見慣れたローブの黒い袖がひらめいているような、不思議な感覚があった。緊張と驚異と、それから、時の流れをどこかに置いて来たような街並みが、エプィヌにそのような幻想を見せているのかもしれなかった。 「わたくしがここへ初めて来たのはね……」  僅かに言葉を途切らせ、懐かしそうに目を細めたユディトは、袖で口元を押さえると、少女のように肩をすくめて笑った。 「砂糖菓子の売り子としてだったのよ」 「ーー売り子、ですか?」  エプィヌは、意外さのあまり目を丸くした。ラウル家の女主人ともあろう人物が、小籠を抱え、街角に立って菓子売りをしているところなど、一体誰が思い浮かべられよう。それが、たとえ二十年以上昔の話であったとしても。 「そうよ。ノルドを頼って王都に来て、生活は苦しくて。住んでいた近所の菓子職人に雇ってもらって、なんとか生きていたのよ」 (王都の娘らにとっては、憧れの物語だろうな……)  貧しい出自の菓子売りの娘が、高貴の家の子息に見初められ、王子の乳母にまで上り詰める。そんな話は、百年に一度あるかないかの奇跡のように思われた。  ユディトは、非常に誇り高い女性で、ラウル家をよく守っているが、私欲のようなものを一切感じさせない。とはいえ、エプィヌは彼女に知り合って間もないため、実際のところを知る由もないわけだが、バラクなどに比べて、あまりに自由であっけらかんとしているところが、少し引っかかるような気もする。それが、氏のない出自の、気負いのなさというものなのだろうか。 「今は静かだけれど、昼を過ぎると門が開放されて、学徒の昼餉や夕餉の時刻には賑やかになるの」  彼女の口調には、抑えきれない高揚が見え隠れしていた。商人が屋台を連ねる様子を、道端を指し示しながら説明すると、今度は、城壁に向かってなだらかに上って行く家屋の群を見やる。 「国中から学徒が集まるから、一通り住むに困らないものはここにあるわ。貴族の子息は自邸から通うけれど、中流くらいの職能階層の子らは皆、敷地内の寮に住んでいる。順毎一度の休暇になると、皆決まって、門外に遊びに行くのよ」  そしてユディトは、小さな空を見上げながらぽつりと付け加えた。 「ペリドットも、ここで暮らしていた」  エプィヌは、思わずはっと目を見開いた。博士の存在の痕跡など、残っていようはずがない。しかし、ユディトのその一言は、胸にくすぶる寂しさの残火に、ふっと吐息を吹きかけたようだった。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加