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序章
それは、春を告げるルビタリスの薄桃のつぼみが、高地から街に続くなだらかな丘のあちこちで、いっせいに花開いたある朝。ほのかな甘い香りにくすぶられ、ぱっちりと目を覚ました少女は、馬車の固い座椅子にあずけてこわばった身体をそろそろと持ち上げ、静かに伸びをした。丈の合わない、ぶかぶかの黒いローブの袖から、すんなりとした白い両腕がのぞく。背に垂れた姫百合色のおさげはわずかにほつれ、たわわになったいばらの実のように、ゆらゆらと揺れた。
「ほっほっ、春の妖精のお目覚めですの」
前席から顔をのぞかせたのは、白く長いあごひげをたくわえた小柄な老人だ。羊毛を叩いて作った布を、くるりと巻いただけのような、簡素な赤い帽子をちょこんと頭に載せ、出先にも関わらずきちっと革エプロンをしめた姿は、彼のまめな性格を、いかにもというように表している。
「エンドラッド――宝石の王都ですぞ」
ほれ、と老人があごをしゃくる。
うながされて窓辺に頬を寄せた少女は、わずかに目を細めた。何も見えなかったからだ。
しかし、ヨークの荒れ地を発ってから三日間降りつづいた雨は、ここに至って、明け方近くにやんだようだった。身を乗り出すと、水分を多く含んだやわらかな空気が、しっとりと髪をなでる。残った雪をすっかり溶かし、春を運ぶ雨だ。これが去ると、ターリア王国には、春と夏が一気になだれこんでくる。
「来ますぞ」
「えっ?」
振り返ると、老人は「目を離しますな」と言った。
突然、朝もやに煙っていた景色に、さっと、薄ら白いベールが投げかけられた。
鈍色の夜の巨人の掌に、くしゃっと握りしめられていた光は、地平に触れた瞬間、一気に広がって、ゆっくり、ゆっくりと、放射状の街並みを淵の方染めていった。ちょうど正面にそびえる雲の峰の山は、その名の通りに雲の峰だった。裾野の辺りからまばらに建ちはじめた人家の屋根が、車輪に例えると軸の部分――王宮の方角に向かって、次々に浮かびあがってくる。
「きれい………」
崖になっている左手の眼下にはすでに、極彩色の海が広がっていた。家屋根は銘々、鮮やかに塗り立てられ、もやが晴れると同時にかちりと動く光の角度が、王都を生きた鉱物のように彩っている。
「………なんて大きな世界なの」
言葉は、ため息に流されて虚空にたなびくようだ。そのかすかなつぶやきを拾った老人は、苦笑するように肩をすくめた。
「この世界は全て、大きくて、小さなものですぞ」
「ノルドさん、それって一体、どういうことですか?」
わずかに窓辺から身を引いて、老人のつぶらな瞳を見つめる。彼はしばらくそれを静かに受け止めていたが、見守るうちにもう一度、窓枠に切り取られた景色の向こう側へと、意識を転じていくようだった。少女も自然と、それにならった。
「おいぼれの言うことですがね」
もごもごとひげを動かしながら、老人は遠くを見つめた。
「こうも人や家がひしめいておりますと、どうしても、閉じられた小さな世界というものが、身に迫ってくる時があるのですよ。とくにこの年にもなりますとね、どれだけの人と出会えたか、ああ………わたくしめの世界はとても小さかったと、大きく見えていたものの一側面しか見えていなかったと、感慨深いような、少し寂しいような気がするものです」
老人の穏やかな声が通り過ぎてゆくのに身を任せているうちに、少女はいつしか、淡くなった面影を景色に重ねていた。
「――博士が教えてくれたわ。エンドラッドは、永久に閉じられたターリアの瞳だと」
赤や黄や、桃色や、数えきれないほどたくさんの色がひしめく大地の背後には、すっぱりと開けた海と空が波打っている。その景色を切り取るまばゆい純白――この王国を統べる者のおわす城は、そこだけがぽっかりと時を失ったかのように、不思議な静寂をたたえて見えた。
わずかな空気の流れを冷たいと感じる時、地面に落ちた自分の影を、奇妙な気分で眺める時、自分は、ここでないどこかに、何かを忘れてきたような気がする。白い王城のまとう漠然とした静かさは、その感覚によく似ていた。
「わたし、旅の間、ずっとずっと考えていたんです。博士の言葉って、ノルドさんがさっきおっしゃったような意味なのでしょうか?」
「はてさて」
老人は重そうな眉毛を二度三度持ち上げたり下げたりして、それからおもむろに首をひねった。
「ペリドット殿の考えられることなど、わたくしめのようなものには、とうていおぼつかぬ難しい話ですわい」
少女は一つまばたきをすると、ヒスイ色の瞳を伏せた。
「博士の教えてくれたことはみんな、こんなふうに分からないことだらけです」
ローブの布地をなでながら、自信なさげにつぶやく。
「お学びになれば、きっと近づけましょうぞ」
確信に満ちた表情で老人は言ったが、彼を上目遣いに見やって、少女は返事をためらった。自分は真面目な性格ではあるけれど、決して優秀だとはいえない凡人なのだと、すでに悟っていたからだ。育ててくれた博士は本当の天才で、そんな人を、ずっと間近に見てきたのだ。しかし今、老人のうなずきは揺るぎのないものに思えた。
「――その瞳、ペリドット殿ゆずりですな」
ふいに投げかけられた言葉に、少女は思わず顔を上げた。
「すっかりご存知だと思っていたのですが………博士とわたしとは、血のつながりはないんですよ」
「いやいや、ちゃんと知っておりますよ、そのことは」
視線がぶつかると、老人はやや慌てたようすでそう言った。少女としては、彼を非難するつもりはなかったのだ。かえって申し訳ない気がして、うつむくことしかできなかった。
「そうですか」
その声色は、複雑そうな色をたたえていた。
少女の故郷はここからずっと西の高地だ。羊飼いたちの村を臨む、荒れたヴィーヴェランの丘の古城。そこに、博士と十八年間暮らしてきた。彼女は、自分を生んだ両親の顔を知らない。ただ、研究に打ち込む博士の背中ばかりを見つめてきた。
「博士の緑色より、わたしのの方が明るいんですよ。でも、丘の人たちにも、本当の親子だと勘違いされてしまうことが多かったんです」
「わたくしめがこう申すのも出過ぎたことと承知しておりますがね」
老人は、身体をずらしてこちらに向かい合うように振り返ると、一言一言をかみしめるように言った。
「ペリドット殿と同じ強さが、あなたさまの瞳には宿っているような気がするのですよ」
「――そうですか?」
あまりに意外なことだったので、少女はつい拍子抜けしたような声を出してしまった。
「主のもとで、思うことを、存分にやってごらんなさいな」
自分には未来がどこまでも見通せているとでもいうように、老人は大きく請け合った。
「そのために、わたくしめの主は、あなたさまをエンドラッドにお呼びになったのですから」
「――そうですよね」
ほとんど、自らの胸の内に語りかけるように、少女はつぶやいた。
「わたし、博士ともっと、色々ちゃんとお話ししておきたかったもの。博士と同じものを分かち合いたければ、そのためには、たくさん学ばなければならないと、痛いほどよく分かっているわ」
『いつかおまえが自分の暮らしを見つけたら、そのときには弟子としてではなく、祝ってやりたかった』そう、博士は言ったのだった。これは、もしかしたら、自分たちにとって、最も重要な言葉だったのかもしれないと、少女は唇を噛んだ。なぜなら、自分は博士の弟子だったけれど、本当は彼をずっと、心の中ではこっそり父さんと呼んでいたのだから。
「それだけです、わたしに分かっていることは」
「よいことを教わってこられましたな、エプィヌさまは」
それを聞いた時、少女はようやくほほえんだ。そうして、目の端から頬を伝って膝の上に落ちる、温かな雫に気付き、自分がこれまで何を忘れていたのかを、はじめて思い出したのだった。
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