知らないままでいたかった

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知らないままでいたかった

――これはとても大切で大事なものの鍵なのよ。  そう懐かしむように微笑みながら言っていたのは私の祖母だった。  この手元に渡されただけの鍵が、何の鍵なのかも、どこの鍵なのかも、誰から貰った鍵なのかも、ただの血縁の孫のひとりでしかない私は知らない。  祖母は、どこか不思議なところがある普通の人だった。  私はのかもしれないなと、目の前の現実を受け入れたくなくて幼い頃に亡くなった祖母とのやり取りに思いを馳せていた。 「なんじゃ。そなた、約束をやぶるつもりか?」 「あの……ちょっと待って欲しいんですけど」 「ふむ。約束を破らないのであれば、しばし待つのは別に構わんえ」  相手に聞く気が……話す余地があるのは幸運だと思うしか無いなぁ。っていうか、ここは一体どこで、目の前にいらっしゃるこの存在はどういった類の存在なのか。  まるで精巧な硝子細工のように怖いくらい鋭利でうっとりするくらい美しい顔。冷え冷えとした雰囲気に似合う鈴のような声の持ち主。  普通ならば、怖いと感じるだろう場面である、とは思う。 「そもそもなんですけれど」 「なんじゃ?」 「『約束』って『誰と何を約束』したんですか?」 「……そなた、を持っているのに、聞いてないのかえ?」  疑問に思ったことを口にしたら呆れたような声で返答が来た。  小さな爪で私斜め掛けにしていたポシェットを指差しているのは分かったけれど、この中にはハンカチと家の鍵としかいれていない。家の鍵もハンカチも多分違うと思うから、それを持っているのそれは祖母から渡された鍵のことだと思った。 「聞いてないですね」 「何も知らないと?」  ものすごく不思議そうに首を傾げる。長いなぁ。たぶん妖かしとか神様とかそっち系だと思うけれど、深く考えたら駄目なやつだと私は思った。私は、どうにか無事に家に帰りたい。 「鍵であることしか、分からないです」 「でも、そなたはえ? 約束を知らないならば、ここに来ることはでけへんよ? なんで?」  それはこっちが聞きたいです、とは口に出来なかった。  とてもとても淋しそうになんで?と問われたから。 「不思議やね? なんでやろ。ほなら、しよか。そなたとうちで、新しい約束を結ぶんよ。そしたらそなたはうちとの約束破ったことにならへんし」 「約束の上書き?」 「そうえ。上書きするんよ。楽しみやわ」  声音はとても楽しそうだった。顔はほとんど変わらないままだけれど。  帰れるならば約束するのは良いかなと思ったけれど、これ、もしかしなくても返答を少しでも間違えたら駄目なのではと直感的に感じてゾクッとした。 「さぁ、どないな上書きにするえ?」 「わ、私は……」  そこで意識がぶつりと切れて、次に。  おばあちゃん……と口だけで呼ぶ。 ――もう大丈夫よ。ね。  そう祖母は言いながら私の頭をゆっくりと優しく撫でてくれた。うとうとと微睡みに逆らうことができなくなって目を閉じる。 ――酷いじゃない、あの日の約束を勝手に上書きしないでくれるかしら!  ぷりぷりとした声で何かに怒る懐かしい祖母の声が聞こえた気がした。 終わり
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