1924年、転調 (1)

1/1
前へ
/7ページ
次へ

1924年、転調 (1)

「姉様、お手紙が」  小さなおさげの可愛い頭が影になり、障子に映っている。わざわざ律儀に正座をして、大人ぶって伺いを立てているのがなんとも可笑しかった。そんなものは女中に任せておけば良いのだが、妹はまだ六つで、そういう世の倣いなど知らないのだ。使用人らも、この子の手が汚れる仕事でなければ無下に駄目だとも言わない。それは養父も黙認しているところだった。 「廉子、良いよ、入っておいでな」  芳子はふっと息を吐き、なるだけ優しく呼びかけた。 「だあれ? 御殿湯の丁稚かい?」 「うん。佐助さん」  廉子は辿々しく答えながら、丁寧に両手の指を揃えて手紙を差し出した。透かし模様の入った上質の紙を折って封をされている。送り主の名は書かれていないが、そんなものは見なくても分かるというものだ。 「そう。ありがとう、廉子」  礼を言うと、妹は花が綻ぶかのように笑った。共に暮らしていなかった日々の方が長かったし、ある日降って湧いたような幼子を受け入れるのは、正直容易ではなかった。それを本能的に感じ取ってなのか、廉子は、姉の機嫌を取ろうとあれこれ気を引く工夫をしているように見えた。そんな彼女に、もう少し柔らかく接してやれたらとも思うのだが、素直でない質の芳子には難しかった。  廉子が去った後、いつの間にか部屋が暗くなっていたことに気が付いた。洋燈(ランプ)を引き寄せ灯りを入れると、先程届けられた手紙が、途端に眩く浮かび上がった。  先頃、蝶は高等女学校を修了した。彼女のような娘が、結婚による中退などせずに卒業するのは大変珍しい例だった。かと言って、蝶は学問に対して崇高な志があるというわけでもない。ただ、女将の御眼鏡に適う嫁ぎ先がなかっただけだった。北条とは交際しているというが、それは当事者二人と、他には芳子と山家だけの知るところだった。あの日、あんな所まで行くのではなかった。カミマエの森の近くまで寄ったから、何か色々と変わってしまったのだ。芳子は、そんな破茶滅茶な後悔をすることもあった。  北条とは結局の所、最後まで、彼女を送迎する役を奪い合う関係と言えた。芳子は毎日迎えに行き、蝶を乗せて街道を行く。時折、その途中にある橋の所で北条が待っていることがある。そうすると、芳子はもう何も言わないで、蝶をそこで降ろすことにしていた。最初のうちこそ納得がいかなかったが、野暮は寄せと山家に言われてからは、なんとなく矛を収めた。彼もまた、友に連れ立って傍まで来ているのだから、やっていることは芳子と変わりなかった。この男もまた、蝶が好きなのだろうと、芳子は知っていた。  女学校を終えてからも、蝶は、琴や茶を習いによく出かけた。家に師範を呼び付けることもできように、外に出る機会が欲しいと譲らず、娘に甘い女将もそれに折れたようだった。芳子は、以前より回数が減りはしたものの、その送迎の役を続けることができた。北条もまた然りである。彼との逢瀬を重ねる度毎に、蝶は目に見えて艶やかになった。毎日顔を合わせることがなくなると、以前にも増してそう感じるようだった。 「会えなくなるぶん、手紙を書くわ」  蝶は言ったのだった。 「私には、貴女しか友と呼べる人はいないもの」  そのため、芳子は新しい文箱を買った。花と蝶の蒔絵が美しい品で、廉子がしきりに羨ましがったものだ。  芳子は手紙を取り上げ、そっと鼻に近付けた。いつも香が焚き染められており、蝶らしい粋さだと嬉しくなるものだが、今日は少し違った。封を開けてみて、芳子はつい目を丸くした。折り畳まれた便箋の他に、まるで雑紙のような一筆箋と、椿の押花が入っていたのだ。  一筆箋は見慣れない筆跡だった。闊達な文字で「明日七ツ時、橋デ待ツ」とごく短く記されている。記名は無いが、こんな無作法なやり方をする者は他にないだろうと、なんとなく差出人には目星が付いた。  それよりも、何かがおかしいと思わずにはいられなかった。押花など、蝶は好まないはずなのだ。移ろいの季節、春の終わり、落ちた椿……。乾いた赤は、鮮烈さを失った分、よっぽど人の血のように見えた。まさか、と思った。  芳子は浴衣の合わせをぎゅっと握り締め、胸を掻き抱いた。呼吸が浅くなって、目の前が白んでいた。しばらくそうして、額に垂れて乱れた前髪を耳に掛けた。  北条が卒業の祝いとして遠駆けに連れ出してくれた話、そこで目にした最後の一輪の椿を、芳子にも見せてくれようと思ったことなど、普段の調子で、彼女らしい流麗な文字ですいすいと書かれてあった。他の誰かが読んだならば、何の変哲もない内容だと思うだろう。  手折ったわけではあるまい。落ちた花を拾ったのだろう。生花さえ嫌って最低限の作法しか身に付けない蝶のことだ。芳子は何度もそう考えた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加