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 芳子が蝶と共に駆けるのは、いわゆる善光寺街道である。その宿場として栄えた浅間温泉の、最も由緒あるとされる御殿湯は、慶長年間に藩主が築いた別邸に始まり、今では宮家を迎え入れるほどであるが、その湯守の地位を代々継承し、ここらで一番の宿を営んでいるのが、蝶の一族、雪平だった。約九百年前の開湯まで遡ると、泉源を発見した犬飼氏に繋がり、維新以前には、松本藩主の重臣に名を連ねた豪族である。雪平家に仕える者や土地の者は皆、蝶を御姫様(おひいさま)と呼んでおり、そのような娘が乗馬などとんでもないという風に思っているようだった。かといって、蝶に粗暴な振舞いを教えた張本人として、芳子が人々に責め立てられることもなかった。蝶が誰よりも……もちろん芳子以上に気難しく、伝統を重んじる気風の中で育ちながら、反面、誰よりも型破りであることを、皆とっくに承知していたのだ。方や、芳子の養父の川島浪速は、今でこそ清朝宮廷にゆかりのある名士となったが、気性の荒い堅物の性格は人に好かれず、その上、元は雪平家にとっては並ぶべくもない藩士の子息に過ぎなかったことから、芳子もまた、清朝の皇女としては、意外なほどそっけない扱いを受けていた。日中関係は常に雲行き怪しく、異分子として爪弾きにされることはあっても、歓待されるなど有り得ない情勢だったが、それでも、山間の古風な宿場では、芳子はあくまでも、浪速の娘として静かな暮らしを送っていたのだ。  雨が上がり、初夏にしては涼しい風が心地よい日だった。直に終わりを迎える川辺の紫陽花の群生は、目いっぱいに朝露の飾りを着けており、芳子たちが傍を駆けると、その風圧で僅かに傾いで、はらはらと輝きを零した。  蝶は、後へ後へと流れていく景色を振り返りながら、芳子の方へ身を寄せて言った。 「見てよ、虹が架かっているわ」  彼女が指差す先には、白んだ背景に浮かぶ七色があった。 「本当。紫陽花の色が空に還ったみたいね」  芳子は手綱を引いて馬の速度を落とすと、空を見上げて目を細めた。曇天の切れ間から、いくつかの細い梯子が降りてくるように、淡い光が差し込んでいる。虹はほとんど靄のようだったが、明るみの中に架かっているところが一部だけ鮮やかに見え、赤に青にと、紫陽花に似た色合いをしていた。川に流れた花弁が、天の川のように空へ昇ったならば、きっと虹になるだろうと芳子は思った。 「――虹は美しいけれど残酷だわ」  それは、なぜか胸を冷たい風が吹き抜けるような響きの言葉だった。蝶はしばしば不意に、このように不思議なざわめきを芳子に与えるようなことを言うのだった。 「どういうこと?」  胸騒ぎのした芳子は、何か訳の分からぬ予感を疑いながら、慎重に問うた。蝶は、狼狽えている芳子を面白がるようにこちらを見やったが、揶揄いを口にすることはなく、静かに答えた。 「あの美しさは、跡形もなく消える。花は枯れてしまっても種を残すし、地面に落ちた花弁すら趣を感じさせるわ。けれど、虹は何事もなかったかのように消え失せてしまうから」 「――天の羽衣を纏った天女や、かぐや姫を思わせるわね」  芳子は、昔話の美女たちの姿に蝶を重ね合わせながら、遠くを見やって言った。得体のしれぬ胸騒ぎは、常に芳子の中にあるもので、急に湧き上がってきたものではなかった。そのことに気付くと、少し落ち着くような心地がした。そう、蝶とはそういう少女なのだ。
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