1923年、初夏の事 (4)

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1923年、初夏の事 (4)

 芳子は、馬の嘶きがすぐそこで聴こえたような気がして、身を固くした。殆ど風がないというのに、下笹が擦れ合う乾いた音が、ざわざわと辺りに響く。 「誰かが近くにいるわ」  何も悪いことをしているわけではないのだから、恐れる必要はない。しかし、蝶と道祖神の存在にあまりに気を遣っていたせいで、人の気配を察知できなかったことが、少しばかり芳子を焦らせていた。 「おい、君たち」  それは、まだ若い青年の声だった。  木立を透かして、馬に乗った二つの人影があった。姿勢よくこちらに駆けてくる様子は、いかにも軍人と見える。芳子は、蝶が怖がりやしないかと咄嗟に心配した。 「蝶、あれはきっと軍の方だわ」  時々父を訪ねて家を出入りする粗野な男たちを思い浮かべたのだ。  養父の浪速は、かつて陸軍通訳官を務めていた。それは幼き頃の芳子と出会う十数年前のことだが、義理の父娘を繋いだ縁は、その経歴に端を発すると言って憚りない。浪速は、時の台湾総督、乃木希典によって取り立てられ、台湾総督府官吏、更に再び陸軍通訳官として義和団の乱や、後には警察業務にも携わった。その評価により清朝に雇用されたことから、芳子の実父、粛親王と親交を結び、辛亥革命後に芳子をもらい受けたのだった。  松本に越してきてからは、陸軍時代のつてを頼って訪れる者が多く、芳子は彼らと酒を酌み交わす浪速の傍に控え、酌をさせられることがあった。 「そのようね」  しかし蝶は、芳子の心配を他所にあっけらかんとして頷いた。彼女の頭の上で、白いレェスのリボンがひらりと靡き、弾む。その様子がやけに鮮やかに目についたので、芳子はしばらく振り返った形のままで固まってしまった。 「先日の雨の折に、軍の若い方にうちの軒先を貸しましたの」 「ーーそうなの?」  やや間ができてしまったものの、上出来な返しだと言えよう。それほど、芳子は驚いていた。同時に、蝶は何か嘘を吐いているのではないかと、疑念が煙のように脳裏に立ち込めていた。  御殿湯の女将……蝶の母親は、彼女を荒々しい男の目から遠ざけて育てた。身近には躾けの行き届いた大人しい身内の男しかおらず、既に許婚がありそうなものを、未だ決まった相手もないのはそのせいで、珠のような娘に相応しい男を探すのに、厳しいまでの条件をつけている。蝶には年の離れた弟があるので、彼女を女将にするのを諦めて、御贔屓の華族の子息にでもどうにかもらってもらうしか方法がないと思われるくらいだ。最も、女将はそれを願っているのかも知れないが。  そんなだから、女将が、よりによって客でもない軍人を招き入れたなど、考えられないのだ。ついでに言うと、芳子が邸宅の門前に馬で乗り付けるのでさえ、今も良くは思われていない。そういえば、先日の雨の日というと、芳子は浪速に客人の世話を言い付けられ、蝶を迎えに行けなかったのだった。  邪推が深まるばかりだが、どう問いただせば良いのか、そもそも何をはっきりさせたいのかが分からなかった。ともかく、芳子は前方に向き直り、現れた人物の警戒にかかった。  一人は、制帽を真っ直ぐに被った生真面目そうな青年だった。日に焼けてはいるものの何処か青白い肌と上品そうな顔立ちのせいで、雑誌で見かける美青年の挿絵のような印象を与える。対照的に、もう一人はごく普通としか言いようがなかった。目の光がやや薄く、一文字のしっかりした眉の下で沈んで見えるのにはっとさせられるくらいで、その他は取り立てて語る特徴もない。それでも、彼の纏う何かが、隣の美青年を凌駕しているのだけは分かった。芳子は眉を顰め、ざわざわと泡立つ鳥肌をさすった。これは恐れなのか、別の予感なのか。判別はつかなかった。  先頭を駆けてきた挿絵の青年の方が口を開いた。 「ここは入らずの森だと聞く。そのような所に女子二人きりで、興味本位に立ち入るのは危険ですよ」  芝居の台詞を言うような、朗々とした喋りだ。育ちの良さが滲んだ明るい声は、湿っぽい森の中でかなり異質に感じられる。 「ご心配には及びませんわ」  芳子が口を開こうとするより早く、蝶が凛とした澄まし声を上げた。彼女は馬を降りたいと意思を示す。そう言われては従わないわけにはいかず、芳子は悶々としながら、鞍から重い腰を上げた。  抱き下ろされた小柄な乙女が地に足を着け、それからすっと背を伸ばすのを見た挿絵の青年は、おや、と言って相貌を崩した。 「なんとも可愛い方ですね」 「北条、貴様はそんなに信心深い奴だったのか」  もう一人は揶揄い口調で言ったが、彼の薄い色の瞳は、何か含みのある視線を同輩に向けていた。その気持ちは芳子もよく分かる。挿絵の青年は明らかに、蝶に対して特別な眼差しを向けていたのだ。そういう経験のない芳子でさえ、ああこれがそうなのかと察しがついたほどだ。当人らは無自覚のようなのが歯痒く、腹立たしい。ここに居合わせたことを思い切り後悔せずにはいられなかった。 「俺の地元でも、そういう場所があったのさ。むやみに近付くものではないからね」  挿絵の青年は猫に話しかけるようにそう言った。しかしながら、芳子の苦々しい心中は、どこかしら態度に滲み出てしまっていたのだろう。彼は馬を降り、目を糸にように細めると、さらに言葉を継いだ。 「俺たちは二人とも、松本第五十連隊の者ですよ。俺は北条」  もう一人は名乗るつもりがなかったためか、そのまま馬上で、連れが優しい声で喋るのを呆れたように眺めている。北条という男に比べると、蝶の色香にあてられる気配のない、このつれない人物が好ましくさえ思うのが不思議だった。 「山家だ」  ぶっきらぼうな声がそう名乗った。  目が合って初めて、芳子は、自分が彼の青年をじっと眺めていたことに気が付いた。 「まったく、こいつは女子供に優しくすることを知らなくてね」  北条が肩をすくめて言うと、蝶はころころと笑った。 「其の徐かなること林の如く、ですわね」  その昔、武田信玄が軍旗に用いたという孫子の句をさっと引用し、雄々しい軍人の好みそうな会話をするあたり、この蝶という娘は機転が効くし、やはり天来の人誑しといえよう。北条の感心したような顔を見るにつけ、芳子は、ますます彼に反感を覚えた。 「それならば俺は、侵し掠めること火の如く、と在りたいものだ」  快活に笑う北条に同意を求められ、山家の方は、いかにも仕方なくといった風情で頷いた。  芳子は、断然同意できなかった。火の如くというのは、戦場での振舞いのことを言っているのではなかろう。蝶の心に押し入り、奪うことを宣言しているのだ。このような軟派な男に、蝶に触れさせてなるものかと、自然に拳に力が入る。  そんな芳子の内心など露知らずーーというより、もはやこちらに目をやることもせず、北条は蝶の方に歩み寄り、きざに襟を正しながら言った。 「赴任してきたばかりなのだが、つい先日、この辺りを冒険して、良い場所を見つけた。お嬢さん、貴女と雨宿りをしたあの日ですよ。宜しければ、貴女たちをご案内させて頂けませんか?」 「ええ、ぜひ」  蝶は待ち兼ねたとばかりに了承した。やっぱりそうだったのかと、芳子は唇を噛んだ。御殿湯の軒先を貸したのは嘘だ。あの日、芳子が迎えに行かなかった日に何かがあったのだ。 「この森のおかげで、あまり立ち入る者がないようです。かといって、畏怖するような気配もないので、静かで落ち着ける所ですよ」  しんと静まり返った一帯には、穏やかな風が吹き抜けるばかりだった。肌がざわつくような妙な心地を抱えながら、芳子は、この美しい友が少女から女へと蛹を脱ぎつつあるのを知った。
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