広島へ

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

広島へ

 終戦記念日も過ぎて、今年も8月が終わっていく。  何年か前に夫と広島へ行った。  私は高校の修学旅行で広島へ行ったので、必ず原爆資料館には寄っているはずだった。修学旅行の資料にも書いてあるし、同級生に聞いても寄ったと言う。私には不思議なことに寄った記憶がないのだ。  私は人が多いと周りが見えなくなってしまう。修学旅行で大勢で行ったのできっと展示物もよく見ることができずに、記憶から消えたか、あまりのショックでその時の事だけ忘れてしまったのかはわからない。  そこで、大人になって、もう一度きちんと、今度は心から信頼できる夫と一緒に原爆資料館を見るたびに出たのだ。  資料館はただショックなだけではなく、色々なことを教えてくれた。大人になってから来てみて良かったと思った。  それは、たいへんむごいものだった。たとえ、戦況の為に落とさなければいけなかったとしても、もうあれだけ日本を叩いた後なのだ。  原爆である必要はなかっただろう。大国であるアメリカにはもっと別の手段もあったはずだ。  ただ、科学者たちはどうしても試してみたかったのだろう。敗戦国になら何をしても良いと思ったのだろうか。ある程度の予想もついただろうに。  いや、調査をするためのアメリカ人たちも放射能に倒れたのだから予想はついていなかったのかもしれない。    原爆の話は小学校の高学年の時の担任の先生がたくさん話をしてくれた。    その頃は昭和の半ば。  小学校の時の高学年の担任の先生は共産党の先生で、田舎ではよく『赤だから、あの先生は。』などと陰口をたたかれることもあった。  子供の私たちにはよくわからなかったけど、親が良い意味で使っているのではないことは分かった。    ただ、その先生の事は生徒たちは大好きだった。自然を愛し、平和を愛し、子供を愛してくれた先生だった。そして、何より人格者だった。人の悪口など言わない先生だった。    その担任の先生は広島の原爆についてもたびたび話をしてくれた。私も原爆関連の本は小学校の図書館にあるものは網羅した。原爆投下がいかに非人道的であったのか、落とすべきものではなかったものなのかを小学生ながら感じ取ることができた。  原爆をゆるすまじの歌も教わって歌った。 詩:浅田石二/曲:木下航二  故郷(ふるさと)の街焼かれ 身寄りの骨埋めし焼け土に   今は白い花咲く ああ許すまじ原爆を  三度(みたび)許すまじ原爆をわれらの街に  大分長い歌で5番くらいまであるのだろうか。今覚えているのは一番だけだが、小学校でよくうたった。歌詞の意味を考えると涙が出てくる。  許さない。のお題で沢山小説も書いてみたが、一番先にこの「許さない」が出てこなかったのは、私が平和ボケしてしまっているからなのだろう。  すぐ隣の国で戦争が行われていると言うのに。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!