偽の爆音と甘いジン

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偽の爆音と甘いジン

 薄灰色の棟の外壁に、男が貼りついている。  一つ上の階にある空き部屋の窓枠に、両足の甲を引っかけてぶら下がり、さかさまに。  男は――ヒイラギは窓の外から、三階の角に位置する深見(ふかみ)教授の研究室を(のぞ)き込んでいた。 「あーあ、深見センセってば学校であんな……」  もっと下まで――さかさまになっているヒイラギにとっては、上まで――視界に収めようと、ぶら下がったヒイラギの片足が窓枠から外される  かすかに、ごう、と音がして、ヒイラギの身体を包む空気の流れがわずかに強くなった。  〈風〉で浮力を調整したのだ。  梅雨が明けたばかりの日差しは、夕陽となってなお、ヒイラギの首筋をじりじりと焼いている。  薄く汗をまとった肌で風を味わい、ヒイラギは伸びをする猫のように目を細めた。  さて――地上四階と三階の間、建物の外壁に片足だけで貼りついている男を誰も見咎めないのには、二つの理由(わけ)がある。  一つめ、そもそもヒイラギを見咎めるような人の目がない。  ヒイラギの貼りついている建物は、大学の中でも特に在席人数の少ない魔法薬科(まほうやっか)学部の学部棟だ。  二つめに、先ほど今期最後の講義が終了し、明日からの夏期休暇に胸ときめかせる誰も彼もがサッサと学舎を出て行った。  だとしても普段なら、清く正しい学徒が学部棟に残りうごめいていてもおかしくはない。  だが今日は、そうではない。  今日だけは特別だ。  なんといっても今日は、十数年前、この世界に〈魔法〉が発現した記念日――人類と魔法の邂逅(かいこう)を祝し、皆が浮き足立っている。  大学から電車で数駅向こうの広い河原では、日本初の、火薬を一切使用しない、純粋な魔法の花火が打ち上げられるらしい。  その花火を見物するため、講義が終わるや否や、構内のほぼすべてと言っていいだろう人々が大学を後にした。  ヒイラギと、彼の覗き見ている深見教授以外は。 *  ヒイラギが手を突く研究室の窓ガラス越しに、バチンと雷撃の弾ける音が響く。  いよいよ時が来たことを察し、ヒイラギは深見の手元を喰い入るように見つめた。  正確には、深見のしなやかな指が捉えているものを。  それは、ごくごく小さな星の核だ。  中指と親指でもって神経質に摘み上げられた、白い()り硝子のような星の核。その核に、深見は慎重な手つきで赤や(だいだい)の〈(かみなり)〉を絡めていく。  やがて出来上がったのは、全面に無数の小さな突起を生やした、色鮮やかな球体。  それは、いわゆるところの金平糖(こんぺいとう)に似ていた。 「――ヒイラギ」  作業を終えた深見が、顔も上げずに観客の名を呼ぶ。同時に、ヒイラギと深見を(へだ)てる窓の鍵がひとりでに開いた。 「いつから気づいてたんですか?」  逆さのまま、ヒイラギは開いた窓枠に手をかける。 「隠れようともしていなかった君がそれを聞くのか」  深見は言外に「最初から」と告げた。 (まあ、そうだろうな)  そう思えど口には出さず。  逆さの身体をくるりと回転させ、ヒイラギはほどよく冷房の効いた深見の研究室に滑り込んだ。 *  深見教授。  ヒイラギ称するところの、深見センセ。  深見は、ただでさえ在席人数の少ない魔法薬科学部において、さらに数少ない教授職に就く人間だ。  そして最近新設された魔法応用系の学部の中でも、トップクラスに厳格な人物として名を馳せている。  もとは非正規の講師として化学を教えていたらしいが、噂ではその当時から学部イチの厳しさで、学生のみならず同僚上司の心肝をも寒からしめていたとか、いないとか。  若くして辣腕を振るっていた深見だったが、魔法が発現した直後、なぜか薬学系の単位を取り直して、一足跳びに教授にまで上り詰めた。  急な路線変更と奇妙な出世には、人事政治の陰あり。魔法の使える教授を早急に、かつ各分野まんべんなく増やしたい国と、彼の直属の上司だった人物からの大変に強いがあったとか、なかったとか。  いくつもの「とか、なんとか」を織り込んだ白衣を身にまとい、深見は付け焼き刃の魔法薬科を驚異のスピードでモノにしてみせた。  歳の頃は五十前後に見えるが、その噂と魔法が発現した時期とを(かんが)みれば、もう少し年嵩(としかさ)であってしかるべき。  本当のところは誰も知らなかった。 「いや、それにしても、あの深見センセがねえ  年若いヒイラギは、そんな深見に臆する様子をちらりとも見せない。  からかいを含んだ視線が、深見の机の上を撫でた。 「私がどうした。用があるなら手短に願うよ」  深見の手が、星の乗せられた実験用の平皿を、さりげなく本の山の影へと押し込む。  その仕草は、ヒイラギにとある確信を抱かせた。 「用はあったんですけど、ちょっと忘れちゃいました。衝撃的なモンを見ちゃったんで」 「衝撃的? 君が窓の外にぶら下がっていたことよりもか」  深見の表情は変わらない。  白の混じった豊かな髪も、文字通り毛ほども動かず、それがいっそうヒイラギの笑いを誘った 「それ――その星、よりにもよって職場で作っちゃダメでしょう」   ヒイラギの指が星に伸びる。  深見がさっと平皿を引いたので、ヒイラギは仕方なく、隣に置かれていたトールグラスを手に取った。  硝子の透明なグラスは、皮膚に貼りつくほどに冷えている。 「横領、いけないんだ」 「言いがかりはやめてもらおうか。材料は自前だ」 「じゃあ器具は?」  深見が静かに口をつぐむ。  それでも星を手放さない深見に歩み寄り、ヒイラギは満面の笑みを浮かべた。 「星の核をそれだけの大きさに育てるの、普通の釜じゃ無理ですよね? ああ、そういえば、一週間前から三番の釜がずっと使用中になってましたっけ――みんなが不思がってたから、あれ、俺が深見センセに許可取って実験してることになってるんですけど、知ってました?」 「……何が言いたい」  深見の目は、ヒイラギから一瞬たりとも逸らされない。  秘密を暴かれそうになって緊張しているのか、あるいは――。 「ゼミの教授を(かば)った可愛い生徒に、ご褒美があってもいいと思いませんか?」 「悪いが単位はやらんぞ」 「そんなの必要ないですよ。俺って結構優秀なんで。――ていうか深見センセがいちばんよーくご存じのはずでしょ? そんなことも忘れちゃうくらい焦ってるんですか?」  焦っている。その言葉に、深見がぎくりと肩を揺らした。  しばしの沈黙。そして、 「わかった、わかった……一杯だけだからな」  絞り出すようにそう言って、深見は冷えたグラスをもう一つ取り出した。 「やった! 俺ウォッカがいいです!」 「そんな味気ない酒はない」  ぴしゃりと切り捨て、深見が指を鳴らす。  書棚の本がいくつか浮き上がり、その後ろに隠されていた青い瓶が姿を表した。  瓶は滑るように深見の元へと引き寄せられ、冷えたグラスの横に優雅に着地する。  本は、いつの間にか書棚に戻っていた。  魔法で物を動かすとき、深見は無闇に音を立てない。  それは深見の流儀であると同時に、彼が優秀な〈風〉の、そして修得が難しいとされる〈重力〉の操り手であることを意味していた。 「ジンだ。嫌なら水でも飲んでろ」 「ええ……」 「には香り高い酒を使うものだ。私の作った星を入れるのだから、なおさらな」  グラスに冷えたジンと炭酸水を満たしながら、深見はどこか誇らしげに片頬を引き上げる。 「あんなとこに酒隠してるなんて……もしかして、ちょくちょくココで飲んでます?」 「四時間前から夏季休暇がスタートした。私の就業時刻も終わっている――今の私はプライベート、つまりここは今、研究室ではなく私の私室と言っても過言ではない」 「それはさすがに過言でしょう」 「なるほど。ヒイラギくん、お帰りはあちらだ」 「プライベート万歳! 誰にも言いません!」 「物分かりがよくて大変結構」  飛び上がったヒイラギに、薄く笑った深見がグラスと星を差し出す。 「あざっす! ねえセンセ、星、せーので入れましょうよ」 「子どものようなことを……と、言いたいところだが」  深見は窓を開け、冷房を二度下げた。 「いいだろう。一度に打ち上げたほうが美しいからな」  星を携えた深見の指が、グラスの上にゆったりと(かざ)される。  ヒイラギもそれを真似、星を摘まんでグラスの上で構えた。 「いくぞ。五、四、三――」  やけにかしこまり、艶やかに掠れた深見の声が、淡々と刻を削っていく。 「二、一……ゼロ」  最後はヒイラギも共に声を上げ、星をジンソーダに落とした。  星は細かな炭酸の泡をまといながら、下へ下へと沈んでいく。  星を覆うまろい棘のひとつが、グラスの底へ触れるかどうか、というところで―― 「あっ、センセ!」 「静かに。……きたぞ」  グラスに軽い衝撃が走る。  星がはじけて、水面ぎりぎりまで打ち上がった。  はじけた星は赤や橙のシロップを水中にまき散らしながら、ふわりとジンの中に溶けていく。  その姿は、まるで小さな打ち上げ花火のようだった。 「……ていうか、センセもとか飲むんですね」  一瞬のショーの後、ヒイラギの呟きが静かな研究室に響く。 「なんだ、悪いか?」 「悪いっていうか……センセは、魔法が発現しちゃったことを祝う側だとは思わなかったから」  ――俺と同じで、と、ヒイラギは続けた。 「ねえセンセ。また化学をやりたいって思うことある? 俺やセンセに、魔法が発現する前みたいに」  深見は答えず、ほの甘いジンを(すす)る。  そして、 「この『才能』を、どうにかして他のやつに渡してやりたいと思ったことはあるよ」  それだけ呟いて、窓の外を見た。  深見の横顔が、ぱっと照らされる。  続いて、ドンと腹の底を揺るがす鈍い音が。 「始まったな」  打ち上げ花火だ。  日本初の、火薬を一切使用しない純粋な魔法の花火――。  火薬を使っていないなら発生しないはずの爆発音までわざわざ魔法で再現するだなんて、どうしようもなく滑稽だとヒイラギは思った。 「ねえセンセ、俺、明日からも来ていい?」 「確かに『今ここは私の私室だ』と言ったが、明日からもここに寝泊りするつもりはないぞ」 「じゃあ自宅教えてください」 「教えると思うか?」 「けち」  深見はそしらぬ顔でグラスを傾ける。  ヒイラギは窓枠にもたれ掛かり、わざとらしくため息をつきながらグラスを揺らした。 「課題のことで聞きたいことあっただけなのに。あーあ、純粋な学生の知的好奇心がこうして殺されていくんだ」  深見も、大きく溜息をつく。  胸の奥から湧き上がる諦念の息だ。 「……木曜と、土曜の午後はここにいる」 「やった!」  ヒイラギがグラスを掲げると、そこに深見のグラスが軽くぶつけられる。  魔法の花火に煌々(こうこう)と照らされた、学部いち厳格な教授のしかめっ面に、ヒイラギは思わず吹き出した。  馬鹿みたいに明るい花火と、偽の爆音。  なにもかもわからないまま、人はなんとか魔法と付き合っていくことを決めたばかりだ。  夏季休暇も、まだ始まったばかり。  でも、きっと、おそらく――今年の夏は少しだけ、何かがようになる。  そんな予感が、甘いジンとともにヒイラギの腹に落ちた。
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