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「来年は、また嵐山に行こう。この子を背負っていくのは、なかなかしんどそうだけれど」
君のお腹に手をあて、僕はぼつぼつと旅行の話を始めた。川下りとトロッコ電車、なじみの旅館、風と踊る紅葉、夕日にあかあかと燃える、遠くの山並み。二人の前に広がる夢を、しかし、不意に大きな水音が横切った。ささやかな暗がりは荒々しい波に揉まれ、なす術なくがたがたと震えている。暫くして波が落ち着いてしまうと、照り返しを乱すものはそれきり何も現れず、黄昏どきの共同墓地は静けさに包まれた。
「また来るよ。今度は、お正月になるかな」
僕はバスに足をかけたけれども、君は袖を離してくれない。振り替えた僕に、さらに念を押すのだから。
「必ず、必ず戻ってくる?」
必ず。そう。僕は確かに戻って来た。運命を引き寄せる逆らいようのない力を、君の瞳が持っていたから。
「約束だよ、絶対」
後ろから抱き疲れて、荷物をまとめる手が止まった。窓に映った僕らの影は、一緒に山々を見つめている。朝日の中、静かに熱を放つ山並みを。
「うん。絶対に、連れて来よう」
君の腕に、僕は優しく手を添えた。温かい。10月の早朝は、どうしてか、こんなにも。
「実はね、名前だけは、もう考えてあるんだ」
君はどこか自慢げに、すました顔で笑って見せた。いつもならもったいぶって、中々答えを教えない。分かっているけど、僕は仕方なく聞き返した。
「名前か。なんてつけるんだい」
でも、この時だけは、伝えずにいられなかった。君がこっそり囁いた、ヒントよりも小さな名前を、僕は決して忘れない。僕にだけ教えたかった、二人だけの秘密の名前を、僕だけは、決して忘れない。
「祈莉」
遠い夕日を見つめ、僕は小さく呟いた。
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