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プロローグ
人は誰しも、地上の顔と地下の顔を持っている。
その深さは人の数だけある故に、一緒に落ちてみないとわからない。
時は、2018年6月23日。渋谷。ハチ公前には、友人を待つ者、出会い系サイトで知り合った相手を待つ者、その横でハチ公と写真を撮る者。スクランブル交差点の信号が青になると雪崩のように人が動き、赤になるとまたテトリスのように人々が岸に溜まる。センター街では、偽物のブランドスニーカーを手に取る高校生、きょろきょろと辺りを見渡す男子の集団。その一歩隣のハンズ通りには、品のよさそうなマダムが百貨店から現れ、その目の前を奇妙な髪色をした女とも男とも言えない者が歩きスマホをしている。どの通りにも音が溢れ、そして、香りと熱気がスパークするこの街に、これほど多くの人間がいるというのに誰にも興味を示さない。ただ、今日も渋谷は奔放にキラキラと輝いている。
ライブハウス「ヒットマン」は、公園通り、代々木公園前の地下二階に控えめに存在している。地上が活気に満ち溢れているその端っこで、夜の訪れを待っていた。地下へつながる階段横には今夜の出演者がPOPな文体で書かれている。「フルーツポンチ」「48人の小人たち」「MAYAKASHI」とある。どの名前も、電車の中吊りや大型ビジョンで流れたりはしない。よって、彼女たちの声は地上まで届かないまま消えてゆく。
階段を降りると年季の入った出入口からは、何やらにぎやかな音楽が漏れてくる。ドアの前には「リハーサル中」のカードが貼られている。ライブフロアに入ると、一気にそこは独特な匂いになる。薄暗い照明のせいなのか、それとも多くのアーティストたちが残した汗の香りなのか。湿り気とタバコと汗、それらが長年かけて均等にその場を占領していた。半円形になった客席には、出演者たちが程よい距離を開けて立っていた。彼女たちの視線の先にはステージでリハーサルをしているアーティスト。その目には、「私たちより、かわいくない。」「私より、歌が下手だ。」と書いてある。共演者を静かに値踏みし、自分を勇気づける。対するリハーサル中のアーティスト達は「私たちは、まだ本気は出していない。」とでもいう様に控えめなダンスを踊り、早々と次の曲目へ移ってゆく。そして、「本日もよろしくお願いします!」と満面の笑顔を客席側に振りまくと舞台袖へ消えていった。
「次、MAYAKASHIさんお願いします。」
ライブハウスのスタッフに呼ばれると、4人の女の子がむくりと立ち上がりステージへと向かう。一番初めにステージに立ったのは、外国人のような容姿を持った快活な女の子だった。彼女の名前はイザベラという。イザベラは、真ん中のスタンドマイクからマイクを抜き取ると思い切り声を張り上げた。その声は、芯があり、しなやかさもあわせ持っている。何より声量が凄まじい。PA席のスタッフが慌てて音量を下げたのが見て取れた。同時に、客席にいる出演者たちが「ほう。」といった風に顔をあげ、彼女を見た。実力の差を見せつける彼女なりの挨拶が終わる頃、マイクをとったのはバッチリメイクと真っ赤なワンピースで着飾った女の子だった。彼女の名前はマイコという。グロスで艶々とした唇を尖らせて「よろしくお願いします~。」と語尾を泳がせた。リハーサルにも関わらず、女であろうとするマイコの姿を見て、出演者たちは静かに失笑する。その後、自分たちもほとんど同じである事実が彼女たちの胸をチクリと刺した。マイコの音量調整が終わると、ショートヘアの中性的な女の子がマイクを持った。彼女の名前はハイネという。気だるそうに持ったそのマイクは、彼女の華奢な体には重そうに見えた。ハイネは、どこか恥ずかしそうにハスキーな声を出したのち「大丈夫そうです。」と言った。その最低限な動作に、客席にいた女性陣は好印象を覚えた。そして、イザベラ、マイコ、ハイネの視線の先には1人の女の子が立っている。彼女の名前はアイ。透き通った雰囲気は、整形などでは決して手に入らない美しさだ。気づけば、そんな彼女の動作を会場中が無意識に目で追っている。彼女は、風のような頼りない声を鳴らした後小さく会釈をした。彼女を眺める出演者たちの目が、一瞬妬みで重くなったがすぐに諦めの色で薄まった。
「では、一曲目からワンコーラスずつ歌っていきます。」
イザベラが、そう言うとPA席のスタッフが頷きカラオケCDの再生ボタンを押した。キラキラとしたサウンドに、しっかりと効いたバスドラム。そうして、長めのイントロが終わる頃、彼女たちが「聴いてください!GARA-GARA!」と叫ぶ。だが、目の前にいる出演者たちはもう品定めを終え、誰も彼女たちの歌を聞いていなかった。
地上ではこの日、
NHKホールでaikoが観客を沸かせていることも
大型ビジョンでは未だにヒアリの注意喚起が流れていることも
地下二階で歌う彼女たちにとって、掠りさえしないどうでもいい出来事だった。
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