ハイネの章「I Can」

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ハイネの章「I Can」

2018年11月3日。杉並区。 廊下の方から、跳ねるような生徒たちの声と足音が聞こえてくる。どうやら隣の教室の授業が終わったらしい。だが、一枚の壁を隔てたこの部屋は全くの別世界であった。生徒たちが、一心不乱に木炭を紙の上に滑らせている。その木炭と紙の擦れる音と、教室の端に置かれた時計の音だけがその部屋を支配している。生徒たちの視線の先には、美術の世界を覗いたことのない人からするとあられもない姿の女の裸体がある。椅子の上に片足を立てて座るその陰部は、恥ずかしげもなく解放されていた。だが、生徒たちは顔色変えずに手を動かし続ける。生徒たちの頭の中は、その手入れのされきっていない艶めかしい肌の質感を紙に写し取ることで精いっぱいなのであり、裸体の女はただのオブジェなのである。 ハイネも、その教室の隅から女をデッサンしていた。その紙には、女の輪郭が陰影によって浮かび上がっている。ハイネは、木炭を平たく持ち直し女の肌のざらつきと、その中に秘めた若さ特有の張りを描き込んでいく。そして、何度か視線を紙と女と行き来しているうちに正解を見失った。目の前の女は、目を離した隙に少しずつ変化しているように思えた。そうすると、ハイネは急に気だるくなった。女に視線をやるふりをして時計を見る。授業が終わるまで残り30分。やる気を失ったハイネは、木炭をカッターで削ったり、描かなくてもいい線を描いたりしながらその時間をやり過ごした。 授業が終わり、生徒たちが昼食を求め学食へ向かっている頃ハイネは喫煙所でタバコを吸っている。外階段の3階と2階の間にあるこの場所は人気がなく、ハイネのお気に入りの場所だった。階段の段差に腰かけ、ハイネは気まぐれに揺れる煙を見つめていた。そして、二度と同じ形を作ることのない煙の神秘さにも感動しない自分の心を静かに嘆く。 入学前の彼女は、こうではなかった。それなりの期待と野心を持って、美大の桜の下をくぐったのである。高校まで続いた「正解」のある生活から解放され、美術という「正解のない」問いに4年間挑むつもりだった。しかし、いくつかの失望が彼女を待っていた。一つ目は、結局美術にも教授たちの望む「正解」があること。次に、その正解以外で評価されるためには教授たちの想像を超える「才能」が必要だということ。そして、最後にハイネは自分の才能を信じるという盲目さが欠けていたこと。彼女は、冷静にわかってしまったのだった。自分の才能がそれほどでもないこと。よって、教授たちの「正解」を演じることがこの場所での自分の生き方なのだと。それからというもの彼女にとって大学は、社会に出るまでの長すぎる暇つぶしになった。 「ここにいたんだ。」 階段の上の方から声が降ってくる。ハイネが、振り返るとそこには顔見知りの女がいる。ハイネは、その女と何度か寝たがその関係は非常にフラットなものだった。よって、等しい距離を保ってその関係は続いている。 「タバコ切らしててさ。一本ちょうだい。」 ハイネは女にタバコを渡し、火をつけてやる。その時、女の唇に塗られたグロスが吸い口にへばり付くのを見つめていた。そのグロスに向かってハイネは話題を振る。 「デザインの課題、どんな感じ?」 「んんー、昨日できたんだけど気に入らなくてもっかいやり直してるとこ。かなり、ヤバイ。」 「へえ、偉いじゃん。」 「今回の作品は、コンペに出そうと思ってさ。」 ふとハイネは、期待で輝く女の顔を見た。その顔は、自分の才能を信じて挑み続ける人間特有の自信にあふれていた。ハイネは、居心地が悪くなる。なぜなら、彼女の作品にハイネは才能を感じたことがなかったからだ。でも、彼女には「盲目さ」がある。それだけで、ハイネよりかは将来が明るい気がした。 「じゃ、私行くわ。」 「あ。ハイネのやってるガールズグループ?ネットでバズってるじゃん。今度、ライブ誘ってよ!」 「うん。」 そうして、ハイネはタバコとライターをポケットにしまうと階段を降り始める。一段一段、降りてゆくたびにハイネは恥ずかしい気持ちになった。ハイネにとって、6月にアイのライブ写真がネット上にアップされたことで起きた拡散という嵐は「ただの偶然」としか言いようがなかったからである。 スマートフォンが、ポケットの中で小刻みに震えた。ハイネは、その画面を確認する。そこには「高橋 マネージャー」と表示されていた。 「お疲れ!ハイネ、今から事務所に来れる?」 「いけますよ。」 「じゃあ、なるはやで!」 それだけ言うと、電話は切れていた。ハイネは、短くため息をついてスマートフォンの時計を見た。東高円寺にあるこの大学から渋谷の事務所まで、約20分。時間にするとあっという間だが、乗り換えがある分ハイネの腰は重い。彼女は、「よし。」と自分を鼓舞して駅へ向かう。 渋谷の道玄坂にある雑居ビルの3階にMAYAKASHIの所属するインディーズレーベル「ホワイトニングブラッシュ」はある。ハイネは、軋んだ音を立てるエレベーターに乗り込み埃っぽい匂いを吸い込まぬように息を止める。3階に到着すると、ハイネは勢いよく息を吐きだし事務所のエントランスへ向かう。少し黄ばみ始めた白壁に、「ホワイトニングブラッシュ」という看板が取り付けられ、その前にはどこにでもある電話子機が置かれている。ハイネは、電話子機を持ち上げ「ハイネです。」と言った。するとしばらくして、エントランス横のドアからマネージャーの高橋が現れた。 「ハイネ!突然ごめんな!」 高橋は、トレードマークのキノコカットを揺らしハイネを手招きする。ハイネは、何も言わずに彼の後に従った。 会議室には、見知らぬ男性が2人いた。ハイネに気付くと、白髪を肩までなびかせ全身黒のコムデギャルソンでまとめた男性が立ち上がり名刺を差し出す。60代だろうか、耳元のピアスが彼の自信を裏図けるように輝いた。すると、隣のもやしのような青年も立ち上がって白髪ピアスに続く。そこには、ハイネも「どこかで聞いたことのあるような」デザイン事務所の名前が印字されている。促されるままハイネが着席すると、さっそくもやし男が口を開いた。 「さて、先日我々は、高橋さんからMAYAKASHIさんのビジュアルデザインのご依頼を頂きました。我々は、広告やベテランアーテイストさんのお仕事が多いのですが、久しぶりに勢いのある若手アーティストさんのお仕事を喜んでお受けしようと思っています。それで先ほど、ハイネさんが美大生だという事を聞きまして。これは、面白いな、と。」 「面白い?」 「ええ。ここまで自力で頑張ってきたグループが、有名になったとたん我々のような大人が介入して商品として洗練されてしまうのは何だかもったいない気がして。そこで、ハイネさんがMAYAKASHIさんのビジュアルをデザインし、それを我々がお手伝いすれば、元々の魅力が損なわれず等身大のいいものになるかと思いました。」 「はあ。」 ハイネは、話の大体を理解して頷いた。しかし、ここでも彼女の心はピクリとも反応しない。すると、今まで黙っていた白髪ピアスが物静かに話し出す。 「我々は多くの大物アーティストのデザインを手掛けてきましたし、広告では海外での賞もいくつか受賞しています。“学生”のハイネさんにとっても実りある経験になると思います。」 この白髪ピアスをハイネは好きになれなかった。「学生」という言葉にイントネーションを持ってくる業界人は多い。つまり、見下しているのだ。しかも、無意識だからたちが悪い。 「…で、私は何を?」 「まずは、MAYAKASHIさんのベストアルバムのアートワークからスタートできればと考えています。」 もやし男が、ファイルから資料を抜き取りハイネの前に広げた。 「ハイネさんと我々が協力して制作するのは、まずアルバムジャケットのデザイン、次に、ミュージックビデオ、そして、ツアーグッズの三点です。」 「大学の課題もあるので、時間が足りないかもしれないです。」 資料に目を落としながら、ハイネの声色が重くなる。すると、白髪ピアスがにこりと笑って言った。 「ご安心ください。まだハイネさんの技量もわかっていないので、ひとまずジャケットのデザインからやってみましょう。難しそうなら、我々がアシストさせていただきます。」 ハイネは、もうやることで決まったかのようなこの会話の退路を探して高橋さんを見た。しかし、彼の口元は涎が零れてしまいそうなほど緩んでいる。 「わかりました。とりあえずやってみます。」 そう言った自分の声が他人のようにハイネの鼓膜を揺らした。それから、白髪ピアスともやし男、高橋さんの三人で話し合いは進んで行く。ハイネは、そこにいないかのように控えめに頷きながら心の中では「どうでもいい。」という気持ちが分厚い膜を張っていた。打ち合わせの終わり、明日までにラフ画を描いてこの場所に集まることが決まった。 学芸大学駅のホームに降り立つと、辺りは大分暗くなっていた。ハイネが、改札を出て商店街の方に曲がると、いたるところから食べ物の匂いが漏れ出している。その匂いは、いつも暖かく、そして、どことなくハイネを寂しくさせる。ハイネは、歩きながらLINEを開き無料通話ボタンを押した。コール音が数回鳴ってから電話が取られる。 「もしもし。」 「アイ、冷蔵庫の中見てくれる?」 「わかった。」 アイの服と携帯が擦れる音の後、冷蔵庫のドアが開かれた音がした。 「人参2本、ナスも2本で、後はキノコ何種類か少しずつある。」 「味噌はまだある?」 「半分くらいある。」 「わかった。じゃ、今夜はニンジンのしりしりとなすの炒め物と味噌汁でどう?」 「いいね。」 「ひき肉だけ買って、15分くらいで帰る。」 そう言って、ハイネは電話を切った。先ほどまで凝り固まっていた彼女の心はアイとの会話によって少しほぐれていた。商店街の肉屋でひき肉を200グラム買うと、彼女の足取りは早くなる。ナチュラルローソン横の信号が青になる前に彼女は走って渡ってしまった。 世田谷区の閑静な住宅街で育ったハイネだが、意外とこの街に思い入れは薄い。建築士として海外で働く両親は、家を空けがちであったし、3つ上の兄は全寮制の高等学校に進学したのでハイネは早い段階で半分自立した生活を送ってきた。もちろん、家族との仲は良好だった。両親に反抗したこともない。クリスマスや、年末年始は家族全員で過ごしたし、一年に一回は家族で海外旅行に行く。そう言った意味では、一般的な標準をクリアした家族だとハイネは思っている。しかし、たとえそのような行事を家族で過ごしても、気遣い合っても、そこには「営み」が欠けていた。だから、彼女にとって世田谷は地元であれど、故郷と呼べるほど親しみを感じない。そんな彼女の生活ががらりと変わったのは、約一年前MAYAKASHIが結成されアイが同居するようになってからの事である。 「ただいま。」 両親によって設計された自宅は、平屋で玄関ドアを開けるとそこには巨大なワンルームになっておりスペースごとに取り付けられたカーテンを閉めない限りその部屋の様子を一望することができる。一面に張り巡らされたガラス窓の向こうには大きなシマトネリコが植えられた庭がある。天井が高く取られた設計は、両親曰く「解放感を重視した。」とのことだが、この巨大で天井の高いワンルームに1人でいるとハイネは体育館にぽつんと佇む自分の姿を想像してしまう。しかし、今のハイネはそんなことを想像する必要がなかった。 「おかえり。」 ソファから頭だけひょっこりと出したアイが振り返る。 「ご飯あと30分待てる?」 「うん、味噌汁は作っておいた。」 「さんきゅ。」 ハイネは、ひき肉を冷蔵庫にしまい、手を洗いうがいをする。そして、冷蔵庫からニンジンを取り出し包丁で細切りにしてゆく。その手際の良さには、彼女の長い自立した生活が透けて見える。フライパンの上でニンジンを炒めながらアイに話しかける。 「今日は何してたの?」 「イザベラの個別レッスンとマイコのお手伝い。」 「うわ、濃い一日だ。」 ワンマンライブが決まってから、イザベラは張り切ってメンバーの歌唱力向上の為に個別レッスンを始めた。しかし、イザベラの歌唱力は誰もが認めるものだが、そのレッスンの熱血ぶりにメンバーたちは置いてきぼりにされていた。マイコはイザベラのいないところで彼女の文句を言っているし、ハイネはそれを黙って聞いてやる。マイコはというと、連日テレビ局への売り込みと会食を繰り返し、2キロ太った。よって、ハイネとアイの時間のある時は彼女の代わりにテレビ局へ売り込みに行っている。 「でも、いい一日だったよ。」 そういったアイの顔は満足そうだった。ハイネは、自分だけ蚊帳の外にいるような感覚になる。深い共感と、惜しみない情熱というものをハイネはこのグループに注げなかった。だからいつしか彼女は、MAYAKASHIとは3人のグループで自分はサポートメンバーという感覚で活動していた。ハイネは、感情的になる自分も、夢に溺れる自分も見たくなかった。 食事が終わると、アイが食器を洗い始めた。ハイネはと言うと、スケッチブックを開き何やら描き込んでいる。今日、新たに宿題となったジャケットデザインのラフ画だった。水道が止まる音がすると後ろからアイの声が降ってくる。 「それ、なに。」 「次のアルバムジャケ写のラフ画。」 「じょうず。」 「こんなの落書きだよ。」 「おしゃれ。」 「今流行ってるもの詰め込んだだけだよ。」 アイが、小さく息を吸う音がした。流石に否定しすぎたかな、とハイネが振り返るとアイは「おやすみ。」と言ってアイのスペースのカーテンを閉めた。ハイネは、カーテンに向かって「おやすみ。」と言って頭を掻く。そうして、もう一度ラフ画を見る。だが、それはやっぱり浅はかで正解以上を期待しないハイネそのもののような出来だった。 2018年11月4日。渋谷。 ホワイトニングブラッシュの会議室では、長い沈黙が生まれていた。ハイネのラフ画を前にデザイン事務所の男たちは黙り込んでいる。ハイネは、急に胃が固くなるのを感じた。彼女は、大学の教授たち以外の前で自分の作品を発表したことがない。よって、彼らの顔色を覗き込んではその不透明な表情に不安が募った。しばらくして、白髪ピアスが口を開いた。 「ハイネさんは、この作品を通して何を伝えたいと思いますか?」 予想外の質問に、ハイネの心臓が震えた。 「えっと、グループの力強さとフレッシュさです。」 「それが、伝わってきますか?」 口元に穏やかな笑みを残したまま、白髪ピアスはラフ画をハイネの方に向ける。その目は、笑っていない。 「…まだ、たたき台の段階なので未熟だと思います。」 当たり障りのない返しを、ハイネは絞り出した。しかし、ハイネの逃げ道は白髪ピアスに簡単に塞がれる。 「これは、平均的な技術があれば誰でもできる作品だと私は思いました。つまり、あなたである必要のない作品です。」 「はぁ。」 「おそらくこの淡い色使いは最近流行りのK-POPからの引用で、ざらついたビンテージ感のあるフィルターは洋楽気取りだ。メンバーの顔の一部しか見せない演出も、雰囲気はいいですが果たしてMAYAKASHIのフレッシュさを訴えられるでしょうか?」 「私がこういうと、あなたは次にきっとMAYAKASHIの顔を出して何やら躍動感のある素材を作り、また誰かの作品の真似をしたものを私たちに見せるでしょう。これでいいでしょ?とでも言いたげな作品です。」 鋭い言葉の束に、ハイネは圧倒される。それと同時に、小さな反抗心も芽生える。 「貴重なご意見ありがとうございます。では、具体的なアドバイスをいただけますか。」 挑発的なハイネの言葉に、白髪ピアスの隣に控えたもやし男が応える。 「時間がないので単刀直入に言いますが、まだあなたはアドバイスを受ける舞台にたどり着いていない。勝負をしていないのです。私たちが、今日感じた事はあなたがこのグループへの愛情が薄そうなこと。だから、この作品は死んでいるようにも見える。作品は作者の鏡です。つまり、あなたが本気で向き合わない限り、我々がアドバイスしたとしても、あなたは今のご自分と同じような中途半端なものを作り続けるだけです。」 淡々とそう言った彼の言葉は、ハイネの心を確かに傷つけた。そして、傷ついたことにハイネは驚いていた。 「厳しいことを言ってしまいましたが、あなたがこれからも、芸術と関わる世界に身を置くつもりなら、乗り越えなければならないことです。だから、言いました。次回のラフ画は、私たちのメールアドレスに送ってください。メールでやり取りしましょう。」 もやし男の提案に、白髪ピアスが被せる。 「もし、やりたくないようでしたら送らなくても構いません。強制はしません。期日は…今夜、日付が変わるまでにしましょう。それまでにご連絡がなければ、私たちからアイデアを提案する方向で動きますので。」 ハイネは、二人の顔が見れなかった。きっと穏やかな表情で話す彼らを見たら、自分の怒りが彼らに気付かれてしまう気がした。だから、彼女はその手をぎゅっと握って耐えた。 ハイネは、大学の喫煙所にいた。大学には特に用事もなかったが、真っすぐ家に帰る気分になれなかった。彼女は、校舎の間から覗く夕日を眺めながらタバコを吸い続けた。今、彼女の頭の中は白髪ピアスともやし男に対する罵倒の嵐だった。 「頼まれたから作ったのに、あの態度は何なんだ。」 「あなた達はよっぽど素晴らしい作品を作れるんでしょうね。ひと昔前のご隠居なんて、もう錆びたブリキ人形じゃないか。」 「そもそも器用なデザイナーの方が需要あるじゃないか。私は、アーティストじゃない。」 「あなたの為に言っている、みたいなノリも気に食わない。そんなこと言ってくれって頼んでない。偽善者で、薄汚い大人のやり口だ。」 罵れば罵るほど、ハイネは怒りの蛇口の閉め方が分からなくなった。勢いよくほとばしるその汚い言葉は、彼女をますます惨めにする。 「死ね。」 そう呟いて、ハイネはまだ半分ほど残るタバコを足元で踏みつけた。こんな感情的な自分が恥ずかしく、早く自分の心が落ち着くことだけを願った。ハイネは、スマートフォンを取り出し顔見知りの女に「会いたい。」とラインを打つ。すると、すぐに既読がついた。「今、どこ?」の文字が「フォンッ」という間抜けな音と共に表示される。「喫煙所。」とハイネが打ち込む。そして、「今行く。」という返事が届くころにはハイネは少し穏やかな気持ちになれた。 「珍しいね。ハイネから呼び出すなんて。」 振り返ると、繋ぎ姿の顔見知りの女が立っている。ハイネは黙って彼女のスペースを開けた。女が座ると、ハイネの肩とぶつかる。そこからジワリと伝わる体温がハイネを落ち着かせた。 「なんかあったな。これは。」 女は楽しそうにハイネの顔を覗き込んでタバコの火をつける。 ハイネは、全然愉快じゃないとでもいうような顔を作ってから女にもたれかかった。 「気分が良くないんだよ。」 そう言って、ハイネは今日の出来事を話した。その間、女は黙って聞いていた。だから、ハイネはまるで独り言のように自分の感情を吐き出した。それは、とても幼稚な悪口であったし、不格好な文章だったが、そんな姿をこの女に見られても構わないと思った。ハイネの話が終わると女は悪戯そうに笑う。 「へえ。ハイネにもそんなことあるんだ。」 「無いと思ってた?」 「ハイネっていつも低体温じゃん。」 「そういう自分でいたかったんだけどなあ。」 「出た。完璧主義。」 「そうかなあ。」 「おまけに意外とプライド高いよね。」 「ひどい。」 女の横顔がますます楽しそうになる。だが、ハイネは不思議と彼女に指摘されるのは嫌じゃなかった。昼間はあんなに腹が立ったのに、今、腹が立たないのはなぜなのか。ハイネは、ふとそんなことを思った。 「なんで、私たちうまくいってるか知ってる?」 吸い終えたタバコを、放り捨てて女が言う。 「え。お互い楽だからじゃないの?」 「違うなあ。」 「なぞなぞかよ。」 ハイネは、女にもたれかかるのをやめて新しいタバコに火をつける。 「多分、ハイネは私のことを自分より下だって思っているから楽なんだよ。だから、私を大切にしなくてもいいし、私に傷つけられることもない。」 「で、私がハイネを好きなこともちゃんと分かっていて。優しくしてくれるって思うから、こうやって甘える。」 ハイネは口の中が酸っぱくなるのを感じた。言葉にしたことがなかっただけで、それはハイネの気持ちを言い当てていた。女は話し続ける。 「私からしたら、そんなチームと仕事できるなんてほんと羨ましいし、嫉妬する。」 「じゃあ…その人たち、紹介しようか?」 この不穏な会話を終わらせたくて言ったハイネの一言で、女の顔が土色に変わった。まずい、と思ったがもう遅かった。 「ムカつく。」 女はそう吐き捨てて、去ってゆく。ハイネには、その背中を呼び止める勇気がなかった。 自宅に戻ったハイネは、女のトークページを開いては閉じと繰り返している。ただ「ごめん。」と送れば済むようにも思えなかった。ハイネは、わざとらしくため息をつく。すると、テレビを見ているアイがちらりと振り返る。しかし、何故かハイネはアイには甘えられなかった。女の言葉に当てはめると「アイは自分より上」だと思っている自分に気付く。ハイネは、ますます重くなった肩を落とす。「何でもないよ。」とアイに言って、ハイネはまた画面に目線を戻す。すると、フォンッとスマートフォンが鳴った。不意を突かれたハイネは思わず立ち上がる。 「ハイネ。今日は、言いすぎたかも。ごめん。」 そう表示された画面をじっと見つめてハイネは「負けた。」と思うと同時にホッとする。 「ううん。私こそ、ごめん。そっちの気持ち考えられてなかった。」 間入れずに返事が届く。 「その人たちの言っていることは間違ってないってハイネはちゃんとわかってると思う。だから、腹が立ったんだよ。」 「おせっかいかもしれないけど、そのデザインチームについて調べたからURL送っておくね。何かの役に立つかも。」 「PS、ファイト!!!」 ハイネは次々と届くメッセージをただ見つめていた。送られてきたURLを開くと、社名が彫り込まれた壁の前でにこやかに笑う白髪ピアスともやし男が現れた。ふつふつ、とハイネの中で何かが燃え上がる。それは、彼女の人生で初めての「闘志」だった。 ハイネは、時計を見る。「19時55分」。タイムリミットまで、あと、約4時間。ハイネは、勢いよくカバンからスケッチブックと絵の具を取り出し作業に取り掛かった。 「絶対に、見返してやる。」 そう言葉に出してみると、ハイネは体の隅々まで血が行き渡るのを感じる。そして、紙に鮮やかな色を思うがままに走らせた。赤、サワーグリーン、黄色、紫…夢中に駆け巡るその色たちは、MAYAKASHIの姿に近づいてゆく。その4色は、交じり合うほど一つの塊のようになり、ハイネは自分がこの中にいるのだと実感する。 「誰の真似もしない。」 「正解じゃなくてもいい。」 「あいつらの想像を超えてやる。」 ぶつぶつと呟くハイネの声に背を向けて、アイがゆっくりほほ笑んだ。
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