7人が本棚に入れています
本棚に追加
アイの章「屍を越えて」
2018年10月9日
「朝、庭のシマトネリコにやってきては鳴いている鳥の姿を私はまだ見たことがない。きっとカーテンを開けると、鳥はすぐさま逃げてゆく。だから、毎朝その声とわずかに届く気配を布団の間から感じている。それが、今の私の朝だった。もうしばらくしたら、ハイネがやってきて「そろそろご飯にしよう」って言うだろう。そうして、カーテンを開けるとそこには出来立ての朝食が並び、二人で静かに食べる。それが、私たちの朝だ。もしかすると、こんな風景はあまりにありきたりで、近隣の家々に次々と侵入しても同じ光景なんじゃないかという錯覚に襲われる。でも、それは少しだけ違ったり(例えば、食器の趣味が違うとか。)大きく違ったり(例えば、1人暮らしだとか。)するもんだ。現に、家を飛び出す前の私の朝は違っていた。あの人の料理は、美味しいけれどご飯を食べる時間よりお祈りの時間の方が長かった。いや、そんな気がしただけかもしれない。兎にも角にも、もうあの頃の記憶は私から遠く離れてしまった。悲しいでも、嬉しいでもなく、へその緒を切られた赤子のように漠然と自由になったのだった。」
アイは、休むことなく動かした指を揉んで先ほど日記に書き込んだ文字を見つめている。相変わらず米粒のような字だな、と思いながら変わったことと変わらないことの違いに目を細めた。そして、書き終えたページに母からの手紙をしおりのように挟む。母の字も、相変わらず丸みを帯びた字だ。だけれど、その言葉たちはここ数日擦り切れるほど読んでもアイに沁みなかった。手紙は、アイの身体をいたわる文から始まり、母の近状が綴られ、最後はこの一文で締められている。
「貴方を赦します。帰ってきなさい。」
この一文を話す母の声色も想像できる。何度も、聞いてきた知性のある落ち着いた声できっと諭すように言うのだろう。アイは、静かにその手紙をどかして最後にこう付け足した。
「PS:私は赦されるために生きているんじゃない。」
その文字は、心なしかいつもの彼女の字より大きかった。
「アイ、ご飯にしよう。」
カーテンの向こうから、ハイネの声が聞こえた。アイは、「うん。」と言って日記に手紙を挟み立ちあがる。カーテンを開けると、アイの朝が始まった。
「今日は、ピザトーストとオニオンスープ。」
「おいしそう。」
お互い向き合って席に着くと、部屋に咀嚼音が響く。少しずつ、タイミングがずれて聞こえるそれは会話をせずとも「二人でいる」という実感をくれる。アイは、この時間が好きだった。だから朝は、普段は無口な彼女が一番おしゃべりになる時間でもある。
「ワンマン明日だね。」
「うわー。言葉にしちゃうと今から震えるね。」
「震えてるハイネを見るのも楽しみ。」
「ちょっと!アイ、意外とS。」
「でも、ワンマンの後も楽しみが沢山あるよ。」
「例えば?」
「ハイネの、アルバムデザイン見ることとか。」
「ああ。」
ハイネは、恥ずかしそうに頭を掻いてアイから視線を外した。その口元は、自信の滲む笑みがあった。その表情を確認して、「うまくいっているみたいで良かった。」とアイは心が温かくなった。ハイネと一番長い時間を共に過ごしているアイは、ハイネの表情を見れば大体のことが分かる。だから、その嬉しそうな表情をしまった後、ハイネの表情がさっと曇ったことも見逃さなかった。そして、彼女が何を思い出してしまったのかも想像がついた。
「あのさ…お節介だとはわかってるんだけど。」
「お母さんのこと?」
「あ、うん。まだ、その…あの団体にいるんでしょ?」
「多分。」
「よくは知らないけど、自分の娘が、一年も行方不明なのに捜索願も出さない。コンタクトを取ろうともしなかった。なのに、今さらなんで会いに来るんだろう。」
ハイネの目が、揺れていた。アイは、なるべくハイネを心配させないように言葉を選んでから言った。
「家族、だからじゃないかな。」
「家族?こんなにほったらかしてたのに?」
「それが、あの人の「普通」なんだよ。多数派がすることが「普通」だとするなら、少数派は「変わってる」。でも、少数派からすると「変わってる」が「普通」なんだ。」
「んん…頭がこんがらがってきた…。」
「今の私の家族だよってハイネの事、明日あの人に紹介するよ。」
「それは、ありがたいけどさ。」
ハイネは、耳の先まで赤くして何やらぶつぶつ言っている。そうして、再び部屋の中に二人の咀嚼音が満ちていった。
「今さら自分でも馬鹿げていると思っていたことがある。学校で、いつも私に嫌なことを言う子がいて、その子が私の首にできた汗疹を指さしてこう言った。「いつも首輪をしていないといけないから大変ね。」彼女は、私が普段している団体のネックレスのことを言っている。わかってはいるんだけれど、抗議するのも馬鹿らしかった。
夏、道がゆらゆらと見えるくらい暑くてあの人と繋いだ手は湿って今にも滑りそうだった。公園の12時の鐘が鳴ったら帰れる。それまでは、教典を抱えて歩き回らなくちゃいけない。わかってはいるのに、私は座り込んでしまった。私には、ずっと歩き回る理由がなかった。どうして、こんなことをしているのか。わからないから、馬鹿らしかった。あの人は、ひどく怒っていつも最後は泣いてしまう。私は、その度に「ごめんなさい」と言って、最後に首を傾げていた。」
スタジオに向かう30分前、いつものようにハイネはアイの髪の毛にアイロンをかけている。よほど忙しくない限り、毎日アイのヘアメイクをハイネは頼まれるわけでもなくやってやる。互いに、姉妹がいなかったのでアイは初め「ハイネは妹が欲しかったんだな。」と思っていた。しかし、時が経つにつれ、それは見事に儀式のような習慣になり二人のつながりを確かめる時間となった。ハイネは、器用にアイの髪を少しずつつまんで真っすぐにしてゆく。
「今日は、大人清楚にしようと思ってるんだけど、リクエストある?」
肩越しに、ハイネの声が跳ねる。アイは、ふと思いついて「髪の毛、上げたい。」と言った。すると、一瞬ハイネの手が止まってためらいがちな声が届く。
「首の痕は、大丈夫なの?」
「うん。今日は、動くからその方がいい。」
「わかった。おくれ毛で、隠したりしてみる。」
「隠さなくていいよ。」
後ろで頷くハイネの気配を感じた。その後、何かを振り払うかのようにハイネの指がアイの髪を一思いに持ち上げた。
「アイは、ポニーテールが似合うってずっと思ってたんだ。」
ハイネは、そう言ってはにかみながらアイに鏡を渡す。そこにはさっぱりとした自分がいてアイはその自分を気に入った。
「鏡で自分を見るのが苦手だった。あの人の選んだ信仰についていけなくて消えてしまった私の父が、この顔のどこかに溶け込んでいると思うと落ち着かなかった。会いたいと思うには、あまりに遠い昔のことでこのままきっと消えてゆく記憶なのに。
「あなたは、お父さんと目鼻立ちがそっくりよ。」
「あなたは、賢いからお母さんに似たのね。」
「あなたは、神様からもらった宝物なのよ。」
あの人がそんなことを言うたびに、私は自分が何者なのかわからなくなるのだ。」
昼過ぎ、彼女たちは三軒茶屋のリハーサルスタジオにいた。明日に迫ったワンマンライブは、彼女たちにとって夢の舞台であったキャパ1300人のライブハウス「SHIBUYA XXL」で行われる。当日のステージをなるべく再現できるよう借りたスタジオは、とてつもなく広く、そこにサポートミュージシャンが5人、当日のモニターPA、めったに顔を出さない事務所社長とスタッフたちがMAYAKASHIを取り囲んでいる。よって、彼女たちは今初めての経験を一度にしているかのような気分だった。音楽経験に長いイザベラでさえ、体中から緊張を漂わせている。その様子に、マイコが小声で喝を入れた。
「ちょっと。イザベラの緊張がうつるから何とかしてよ。」
「しょうがないじゃん。これは、しゃっくりみたいなものでどうしようもないんだから。」
「しゃっくりなら、逆立ちしてコーラでも飲めば治るでしょ。」
「だから、例えだってば!」
鏡張りの壁の前で、小さな喧嘩を始めた二人の姿はいくら人々に背を向けていても丸見えだった。アイの隣でハイネが頭を掻いて、救済に入るべきか悩んでいる。そのハイネの袖を、アイはそっと握った。ハイネが、アイの方を振り向く。すると、アイは悪戯な笑みを口元に浮かべて首を小さく振った。
「あーもう!イザベラは、自信もちなさいよ。」
「なんで命令されないといけないんだ。」
「だって、うちらの自信はイザベラでもあるんだから。イザベラがいつもみたいに自信満々に、大声張り上げてくれないとさ。うちらなんてへなちょこ歌手じゃん。頼りにしているんだから、頼りにされなさいよ!」
マイコの声は、もう小声ではなくなっていた。イザベラは、大きく目を見開いてマイコの言葉を聞いていたが、最後には笑いが漏れた。
「…なんだよ。」
そう言って、鏡から顔を逸らしてマイコの方に向いた。その口が「サンキュ。」と動くと、ハイネとアイは顔を見合わせてほほ笑んだ。
「じゃあ、ひとまず最初の曲から合わせていこう!」
高橋さんの一声によって、スタジオ内の空気がぎゅっと凝縮される。まるで各々の集中が粒となって、この部屋の空気を支配しているようだ。アイは、体の中の空気を入れ替えてセンターに立つ。
「ワン、トゥ、スリー、フォー…。」
ドラムのカウントで曲が始まった。一曲目は「ハジマリモーメント」。アイドルとラップの融合をコンセプトにスタートしたMAYAKASHIにとって、この曲はまさに「始まり」にふさわしい曲だった。ギターのカッティングとドラムが軽やかな音を鳴らし、その後ピアノとハイネのラップで曲が始まる。Aメロのラップが、気だるく変化のない毎日の描写で語られた後、Bメロでは緩やかなメロディで「変わりたいのに出口が見えない」そんな悩ましさをマイコが歌う。そして、イザベラのダイナミックな声でサビへ続く。サビは、悩んでいた自分を吹き飛ばすかのような始まりの決意を歌われ、自分たちは「そこ(底)」から始めようという叫びで間奏へ移る。メンバーたちは、この「底」というちょっぴり自虐的な表現が好きだった。それは、作詞家が付けた言葉であろうと、まさしく彼女たちの為の言葉のように思えたからだ。
間奏に入り、4人は隣の肩に手を乗せて声を合わせて歌う。
「la la la la la…」
歌いながら、彼女たちは鏡越しに互いを見つめていた。そうして、この曲は自分たちが思うよりずっと馴染んでいることを確認し合った。アイの頭の中では、パラパラ漫画のようにMAYAKASHIとしての約一年間の出来事が流れていた。そして、それはまさしくアイにとって新しい人生の記憶だった。彼女の中に、「今、自分はここにいるのだ。」という実感が津波のように押し寄せた。そして、バンドの音が最高潮に盛り上がる頃、彼女たちは互いに手を繋ぎ今は見えない観客に向けて頭を下げる。その時、聞こえないはずの拍手が彼女たちの鼓膜をしっかりと揺らしていた。
「身長が伸びると同時に急激に世界が広がってゆく団体の子供たちにとって「正しいこと」を守るのは簡単ではなかった。味方の少ない学校の中で、心が折れて給食の時お祈りをしなかったり、厳罰が待っている嘘をついてしまったり。でも、その度に信じているのかもまだわからない神様に見張られているような気持ちになって、ただきょろきょろと辺りを見回して怯える。それが、私たちの子供時代だった。
そして、ホルモンが変化し始める思春期は特に困難を極めた。
団体で年の近い男の子たちが、勃起を経験するようになって「セックス」がいよいよ現実的なものになってくる時。彼らは、隠れて捨てられたエロ本を見ている。見つかったら、こっぴどく叩かれるのに見てしまう。でも、それくらいならまだ可愛いものだ。現に、団体の男の子に「僕の顔の上に、和式トイレでするみたいに座れ。」と言われたことは今でもよく覚えている。教典の並ぶ集会場の個室で、彼は床に寝そべってそう言ったのだ。私は、まだホルモンが変化する前でそれがどういうことなのかわかっていなかった。だから、言われたとおりに彼の顔の上に座った。パンツの布一枚隔てたその下で、彼が何度か息を吸い、吐き出した。生ぬるい熱がいともたやすく布を破り、私の体内へ入ってくる。しばらくして、私の股間から顔を離すと彼はまるで酒に酔ったかのように頬を染めて満足そうに去っていった。私は、急激に冷め始めた股間を気にしてスカートの裾を握っていた。
それを、多くの人はどう思うだろう。「悪魔の子」の仕業だと怒るだろうか。でも、私にはそうは思えないのだ。自分の意思を押さえつけられて育った私たちは、時々「悪魔の子供」にならなくては大人になれなかったのだから。だから、私は彼を嫌ってはいないし恨んでもいない。」
激しいダンスナンバー、穏やかなバラード、ラップバトル。休むことなく、緩急をつけながら曲目は進み、ようやくすべての曲を歌い終えた時、彼女たちは体力のほとんどを失っていることに気付いた。むせかえる熱気の中で、イザベラの呼吸がマイクを通してスタジオに響く。
「本番も…よろしくお願いします!!」
振り返ってそう叫ぶと、その場にいた人々が思い思いに手を上げて叫んだ。それは、まるで学生時代の体育祭のような無垢な熱気だった。アイは、「これが、チームなのだ。」と思った。何もかも捨てて、初めて手にした彼女の楽園はここにあった。
リハーサルを終えた4人は、スタジオの休憩スペースにいた。ハイネの書き込んでいるノートには、何やら長いセリフが並んでいる。これは、いわゆるMC表だ。何も決めずにMCをこなせるアーティストもいるが、それは人数が多くなると難しくなる。さらに、全員がバラバラな個性を持っているとなるとなおさらだ。よって、彼女たちはこの一年で多くの失敗と改良を経てMCの大枠を事前に決めておくスタイルに落ち着いた。とはいってもこの作業、なかなかに時間のかかることは彼女たち全員が覚悟していた。
「それにしても…やっぱワンマンのMCは長いな…。」
イザベラが、遠くに視線をやり呟いた。
「そりゃ、いつもの30分のライブとは違うよね。約、4倍だし。」
珍しく、マイコもイザベラに同調する。ハイネは、しばらく腕組して考えた後口を開いた。
「あのさ、2時間のライブだからってMCの回数増やさなくてもいいんじゃないかな。本当に言いたいことを小分けにして言うより、ちゃんと効果的なところで時間を多めに取って話せばいい。」
「そうだね。」
「じゃあ、みんなが本当に言いたいことを書きだしてそれを最後の曲の前で話そうか。」
「マイコは何言いたい?」
ハイネからの唐突な質問にマイコは黙り込んでしまった。隣でイザベラは「どんなアーティストになりたいですか?」と散々抽象的な質問をぶつけられた苦い思い出が蘇り、思わず助け船を出す。
「恰好付けたことは言わなくていいよ。だって、私たちのワンマンなんだから。敵はいない。」
イザベラの援護で、勇気が出たのかマイコがぼそぼそと話し始めた。
「ひとまず、感謝の言葉は言いたい。あと、嫌われちゃうかもしれないけど私がどんなにダメ人間だったか。でも、みんなのおかげでそれなりに人間らしくなってきた話をしたい。」
「う~ん。男の話はさすがにNGだよ。マイコの場合、キリないし。」
ハイネの突っ込みに、メンバーたちは笑った。その笑いで、マイコはすらすらと言葉が滑り出てゆく。
「自分の価値が欲しかったんだよね。男の人に執着してたのも多分そのせい。何人もの男をキープしてる私ってすごくない?って。それで、プライドを保ってたのかも。ほら、イザベラみたいにすんごく歌がうまいわけでもないし、ハイネみたいにクールにはなれないし、アイみたいに綺麗な顔でもない。だから、「SNSで何人フォロワーがいるか」とか「何人彼氏がいるか」とか、小粒なエピソードの数で勝負するしかなかったんだよね。」
「だけど、なんかさっき思ったんだけど自分の価値ってちゃんとここにあったんだなあ。って気がしたよ。なんだかんだ、私がいなくなったら君たちもファンもみんな困るでしょ?」
「すごい強気だね。」
イザベラが、吹き出す。だがその後、思い直したように神妙に頷いた。マイコが誇らしげな表情になって、話し続ける。
「本当、最初はそんなつもりなかったし、それこそ目立ちたかったから始めた活動だったけどいつの間にか自分の人生の中で一番誇らしい選択になってた。「私、すごいじゃん!」って自分で自分を褒められるようになったら、なんか今まで追い求めていた実体のない価値が、どうでもよくなっちゃった。」
「大人の階段を上ったんだね。」
ハイネが、マイコの頭をポンポンと撫でた。すると、マイコの目にじわじわと涙が溜まってゆく。そして、その涙を隠すようにマイコは「えへへ。」とおどけた。
「何人も彼氏…のところだけ省いたら、最高にいい話だからマイコはそれで行こう。」
「ハイネは、どうなの?」
ノートにメモを書き込んでいるハイネにマイコが言った。
「あー。私はさ、マイコみたいにかっこいい話なんかないよ。」
「うわ、ずるい。言ってみないとわかんないじゃん!」
マイコのさらなる追及に、ハイネは「お手上げ」のポーズを取ってからしぶしぶ話し始める。
「私もこんなことになるなんて思ってなかったから、大学在学中のサークル活動程度に最初は思ってた。当たり前に学校を出て、就職して、結婚はしないだろうけど税金をちゃんと納めて、老後は年金でつつましく生きる予定だった。普通でよかったし、有名になりたいわけでもなかったんだよね。」
「でも、今考えると矛盾してるなって。だって、「それならMAYAKASHIにどうしてなったの?」と言われると言葉に詰まるよ。マイコは、誇らしい選択だって言ってたけれど私はまだ「誤算」の竜巻に飲み込まれちゃった気持ちの方が強い。」
ハイネの後ろ向きな発言に、イザベラが眉をしかめた。マイコが、イザベラの腕に手を置き無言でなだめる。
「だけど、自分の計画通りに生きていたとしたら、こんなに面白いことも起きなかったと思うんだ。人生って「予想外」の連続で出来てたんだって学んだよ。だって、予想ができる毎日なんてどうやって「今日」と「明日」の見分けをつけるの?そう考えたら、この「誤算」は私のこの1年をちゃんと人生の一部にしてくれたと思う。月並みな言い方だけど「出会ってくれてありがとう。」って、メンバーにもファンのみんなにも言いたい。」
ハイネは、気恥ずかしそうに深呼吸をしてイザベラの方を見た。
「じゃ、次はイザベラ。」
「…意外とこれ、緊張するね。」
イザベラが、背筋を伸ばしてから話し始める。
「私も、二人の話を聞いていて思ったけど言いたいことは「感謝」かな。むしろ、みんなには「謝罪」したい。」
「え!隠れてソロデビュー決めたとかじゃないでしょうね?!」
突然、マイコが鬼の形相で立ち上がりわめいた。慌てて、イザベラが訂正する。
「違うよ!そうじゃなくて…」
「じゃあ、何よ!白状しなさい!」
「まあまあ、マイコ落ち着いて。」
ハイネに両肩を押さえつけられる形で、マイコはしぶしぶ席に座った。イザベラは、ハラハラと波打つ心臓を撫でてから話を続ける。
「私が、謝罪したいのは私がこのグループに入った動機の事なんだ。その話まで少し長くなるけれど、聞いて欲しい。」
「今まで、私の青春は音楽に捧げて来たよ。10代と、20代。この二つは、全て音楽で成功するっていう夢の為にほっぽり出した。自信もあったんだ。「絶対、私は音楽で成功するだろう。」ってね。」
「だけど、一番音楽が楽しかったのってやっぱり音楽を始めた頃で。続ければ続けるほど、生活は苦しくて、続けても続けても、出口が見えなくて。そのうち、自分の意地の為に音楽をするようになってしまってた。こんなに続けたのに辞めるなんてもったいない、とかいろんな理由をつけてさ。同時に、決定的に諦められる出来事が降ってこないか、とも思ってた。それか、決定的に報われるとか、ね。どちらにせよ、すごく他人任せだった。」
「そんな他人任せの行きついた先が、MAYAKASHIだったんだ。これでダメなら諦めよう。これでうまくいかなくてもその時は実家に帰ればいいんだ。とにかく、このグループに私の音楽人生の決着をつけてもらおう。それで私はこのグループに入った。今までさんざん偉そうにしてきたけど、本当は駄目アーティストだった。本当に、ごめん。」
イザベラは深々と頭を下げてから顔をあげると、アイと目が合った。すると、イザベラは全てを見透かされているような気がした。だが、アイの深く澄んだその瞳にはどこまでも公平な深さがあった。これからイザベラがしようとしている事を、全て赦そうとするその深さが彼女の心を穏やかにした。
「で、決着はつきそうなの?」
まだ、噴火の予感を残した声でマイコが言った。イザベラは、その言葉に顔全体でほほ笑んだ。
「うん、つきそう。」
「そっか。なら、私たちは…よかったよ。」
マイコが頷いている。その隣でハイネが、ノートにメモを書き込んでから呟いた。
「こうしてみると、もうこのノートは私たちのほとんどを知っているね。」
「本当だ。ワンマン終わったら燃やさないと。」
「じゃあ…アイの言葉を書いて仕上げようか。」
そうして、ハイネ、マイコ、イザベラの視線がアイに向けられる。アイは、いつもと変わらず落ち着いた小さな声で話し始める。すると、彼女の言葉を聞き逃すまいと3人はアイの方へ身を乗り出した。
「私は…大人になれないって思っていた。失敗も、罪も犯さない「善良な子ども」のまま年老いてゆくんだと思っていた。まるで、小さな小屋の中で、餌だけ毎朝与えられて死ねないまま、最後は小屋の中で痛みもなく死んでいくニワトリみたいに。それでも十分幸せなんだと思うよ。実際、大多数の人が想像しているような景色よりもちゃんとあの中にも愛があってそれなりに温かい場所だった。でも、それだとちゃんと「人間」になれない気がしたんだ。それが嫌だった。」
初めて聞くアイの「嫌」という言葉が3人の胸に刺さった。
「だから、小屋の外に出てみようって。持っている僅かなお金で行けるところまで行ってみようって思った。その後のことは、その時考えよう。そんなことは生まれて初めてだった。それは、もう一つの自分の人生が始まるような…心躍る体験だったんだ。」
「きっと、ものすごい災難に見舞われるだろうって覚悟したよ。だって、今まで守ってきたルールを全部壊してしまうんだから。だけど沢山の人と出会って、みんなが災難から私を守ってくれた。そうしたら、今度は私が災難からみんなを守りたいって思い始めた。それって、ちょっと「大人」になれたってことだよね?」
3人が、大きく頷いた。
「本当に、みんな強い人たちだと思う。近くにいてくれたメンバーもそうだし、ステージから見えるお客さんも。実はみんな強いんだ。だから、みんながこの場所を旅立つときには「みんなが目的地にたどり着けますように。」って、真剣に祈ろうと思う。それしか私にはできないから。」
そう言い終わると、アイは恥ずかしそうに首元を撫でた。彼女の掌の下で、赤い汗疹の痕がじんわりとほのかに熱を持っていた。
「じゃあ、明日。」
そこでイザベラは、言葉を区切った。
「悔いのないように。」
マイコが机の中心に手を差し出した。続けて、マイコの手に、3人が手を重ねる。それは、一つの小さな花のように地下のスタジオに咲いていた。
2018年10月10日
「エンディングにふさわしい今日を生きていたい。そんな風に感じた。エンドロールを引き延ばすような今日じゃなくて、毎日がラストステージ。そういう気持ちで生きたいと思った。だから、もうこの日記は必要ないように思う。ここには、私の今日までの過去しかないから。
今さら、思った。なぜ私は今まで書き残したいと思っていたんだろう。この米粒のような文字で。若かったのだろうか。寂しかったのだろうか。誰かに知ってほしかったのだろうか。全部違うような気もするし、全部正解のようにも思える。
だから、考察は先延ばしにしよう。それがわかる時にはきっと大人になれているだろうから。」
アイとハイネが「SHIBUYA XXL」に到着した頃、会場前には長蛇の列ができていた。彼女たちのライブグッズの購入を待つその列は、車が通過するたびにまるで生き物のように避け、そして、車がいなくなるとまた道路を埋めた。二人は彼らに気付かれないように下を向いて会場の裏口へ向かう。だが、二人は後ろ髪を惹かれるようにちらちらと振り返っては自分たちの挙動を笑った。
「もうちょっと、見ていたい気持ちになるね。」
「本当にあの人たち全部お客さんなのかな。」
「多分ね。」
ハイネは小声で囁くと、裏口のドアを開けながら再び振り返る。アイもまた、敷居を跨ぐときに振り返り、その景色を目に焼き付けた。
会場に入ると、そこは巨大な箱のように思えた。その大きなスペースで、会場スタッフたちが慌ただしく準備をしている。アイとハイネは目を閉じて数時間後の景色を透かしてみた。巻きあがる熱気。届いてくる声は、皆彼女たちを求めている。SEが流れるとキラキラと照明が回った。そうして、彼女たちがステージに現れると張り裂けんばかりの歓声が巻き起こり、1300人の視線は光り輝くステージへと注がれる。
「ああ!二人とも!そこ危ないからこっちこっち!」
妄想で、すっかりぼうとしていた二人の横にはいつの間にか高橋が立っていた。その前髪の隙間からは、汗が光っている。彼は、付いてくるよう指でジェスチャーした後二人に背を向けて駆けてゆく。二人は慌てて彼の背中を追った。
舞台袖から続く階段を登りきると、そこは沢山のドアがある廊下へと出た。先ほどの慌ただしい様子から一転して、廊下は静かで落ち着いていた。高橋は、慣れた手つきで「MAYAKASHI メンバー様」と張り紙のされたドアを開け放つ。すると、そこにはイザベラとマイコの姿があった。
「外にいるお客さんたち見た?!」
マイコが、はしゃいだ声で駆け寄った。ハイネが頷くと後ろからイザベラが叫んだ。
「あれ全部私たちのお客さんだとしたらすごくない?!」
「だからー!!全部私たちのライブ見に来た人だってば!!」
「本当なのかな…現実なのかな…夢なんじゃないかな。」
「ちょっと、ハイネ!!このネガティブお化けになんか言ってやって!!」
マイコが声を張り上げた。その聞き覚えのあるやり取りを聞いて、ハイネとアイは顔を見合わせて笑った。すると、背筋を伸ばした高橋が口を開く。
「とりあえず、みんな揃ったね。この後、16時からリハーサルやるから。それまでこの場所で待機!リハーサルの後、メイクさんが来てくれるからメイクして18時開場。あっ!それから、勝手に出歩いちゃだめだよ!何か、欲しいものがあったら僕に言って。コンビニで買ってくるので。」
「あっ、そういえば、お花も沢山届いてるよ。会場入り口に飾ってあるんだけど、今は危険なので終演後見にいこう!じゃあ、後でね!」
そう叫んで高橋はドアの向こうへ消えていった。残された4人は、広すぎる控室でしばらく自分の居場所を探してもじもじとしていた。ようやくそれぞれの定位置が決まった頃、スタッフからリハーサル開始の知らせが来た。
前日の準備のおかげで、リハーサルは慌ただしくも順調に終わり、控室に戻った時には、みんなうっすらと汗をかきそれぞれの休憩時間を始めていた。そんな空気の中、マイコはくるりとメンバーたちの方へ向き直った。その顔は、まるで最初からそうすることを決めていたかのような自信と悪戯心がにじみ出ている。
「…脱走しない?ここを逃したらもうチャンスないよ。もう一度みたくないの?道に溢れたお客さんたち。あと、入り口に並べられたまだ見ぬ美しい花たちを!」
「だめだよ!もうメイクさん来ちゃうし、ここから出ないでって言われたじゃん!」
イザベラが、慌てて首を振った。だが、マイコは諦めない。
「開場したら、見られないよ!」
最後の方は、政治家の演説のような力強さがあった。3人は互いの顔を見た。その顔には、確かに「見たい。」と書かれている。ハイネが体勢を低くして言った。
「でも、ばれないように脱走しなくちゃいけないよ。裏口から出るとしても会場スタッフがいるし、逆の出口はステージだ。運よく外に出られても、お客さんたちがいるんだから大混乱。マイコ、何かいい案でもあるの?」
すると、マイコも体勢を低くして何か重大な秘密を明かすかのように囁いた。
「実は私、いい場所知っているんだ。」
「どこ。」
「会場スタッフもいなくて、お客さん達をばれない場所から見渡せる秘密の外階段。昔、セフレだったバンドマンに教えてもらった。」
ハイネとマイコは、ためらうことなくドアの方へ向かってゆく。アイもおもむろに立ち上がり、未だおろおろとしているイザベラに声を掛けた。
「イザベラ、行こう。」
3人に見つめられてようやく「まったく…。」と言いながら、イザベラもドアの前に立った。
「旅の始まりだよ。」
マイコは、にやりと笑ってそう言うとドアをゆっくり開けた。
秘密の外階段は、確かに彼女たちにとって素晴らしい眺めだった。会場入り口をやや斜めから見下ろすその場所は、スタッフたちや客たちのちょうど死角にあり、誰にも邪魔されずに堪能することができる。しばらく彼女たちは、その客の中から見知った顔を探してみたり、入り口に飾られた花々に順位をつけたりしてはしゃいでいた。そうしてすっかり気分の良くなったマイコは、バンドマンとこの場所でどんなセックスをしたかなどを話し始める。イザベラがもううんざりと言った様子で叫んだ。
「セックスの話はいいよ!どんな気持ちでこの場所に居ればいいのさ。」
「えー。だってさ、久しぶりに来たからテンション上がっちゃって。」
「まあ…そのバンドマンに感謝しないとね。」
ハイネはそう呟いて、タバコの煙越しに空を見上げた。ビルの間から窮屈そうに顔を覗かせたその空には、うっすらと星が見えた。
「渋谷でも星、見えるんだね。」
「そう言われれば、初めて見たかも。」
「なんか、渋谷って慌ただしくて足元ばっかり見ちゃうもんね。」
4人は、外階段の段差に腰かけて同じ空を見上げる。そうして、同時に脱走という旅を終えて勇気が込み上げてくる。それは、勇者になったかのような高揚感だった。
「そろそろ、帰ろう。」
ハイネが、吸い終えたタバコを捨てて言った。
「旅の終わりはいつも、物寂しいものだ。」
続いて、マイコが芝居がかったセリフを言う。
「違うよ。今からが本番で、これは予行演習だったんだ。」
イザベラが恥ずかしそうに鼻を掻いた。彼女たちは、来た道を戻ってゆく。最後に、アイは空に向かって手を伸ばした。そうして一番強く輝く星を掌に閉じ込めて大切そうに握っていた。
10月10日開場15分前の17時45分。
「MAYAKASHI」のワンマンライブは突然の中止を発表する。
そして、19時のニュース。
「人気アイドル、行方不明か」とアナウンサーが台本を読み上げた。
最初のコメントを投稿しよう!