エピローグ

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エピローグ

2020年10月10日。渋谷。 ハイネが、ヒカリエとの連絡通路を通過しハチ公前に到着する頃、彼女の白いシャツはほんのりと湿っていた。彼女は、辺りを見回してから日陰に移り段差に腰かけた。2年前、几帳面に切り揃えられていた彼女の髪は、投げやりに肩にかかっていた。彼女を見知った人が目の前を過ぎたとして、ハイネだと気づく人はほとんどいないだろう。 2年前の10月10日。アイが、突然姿を消してからMAYAKASHIはしばらく時の人となった。なぜなら、アイは「丸ごと」消えてしまったので、警察やマスコミが騒ぎ立てたからだ。唯一の手掛かりは「SHIBUYA XXL」隣のビル屋上にあったアイの靴。だけれど、その下に彼女の遺体は見つからなかった。渋谷駅や渋谷の各所に取り付けられていた防犯カメラにもアイの姿は確認できず、アイと一緒に彼女の母も消息不明になった。その不可解さに、ネット上ではしばらく様々な憶測が語られ、今や「地下アイドル 神隠し 都市伝説」で検索すると多くの記事が見つかる。 だが、一連の波が過ぎ去るとMAYAKASHIは忘れられていった。アイのニュースで彼女たちのSNSに殺到した野次馬たちは、まるで初めからいなかったかのように散り散りに消えていき、その後彼女たちはひっそりと「無期限の活動中止」に入った。マイコは営業社員として事務所に残り、イザベラは地元でボイストレーナーとして働いている。ハイネはと言うと、二人のように新しい居場所を見つけられず大学を1年休学し、そのまま退学した。アイと一番近くにいた代償としてハイネは、時の流れから零れ落ちた。 「ハイネ!お待たせー。」 ハイネが振り返ると、そこには以前より落ち着いた雰囲気になったマイコがいた。ハイネは、しばらく目を泳がせた後再び地面に視線を戻す。マイコの気配が、彼女の隣に腰かける。 「イザベラは、さっき湘南新宿ラインで渋谷着いたらしい。だから、後5分くらいで来ると思う。」 マイコが言い終えると、二人の周りには森の中のような静けさが生まれた。ハイネは、ゆっくりと顔をあげて生ぬるい風を浴びる。そうして、瞳を閉じて植物のように揺れ始めた。マイコは、ちらりと横目で植物になってしまったハイネを盗み見てから同じように瞳を閉じて揺れていた。 「お待たせ―…って、なに!二人とも怖い!」 聞き覚えのある声で二人が目を開けると、そこには少しふくよかになったイザベラがいた。 「うわー。イザベラ太ったねえ。」 「ねえ、マイコ。久しぶりに会って一言目がそれ?」 「まあ、いいや。ひとまず、全員揃ったしお花買いにいこう。」 マイコがそう言って立ち上がると、ハイネも黙って腰を上げた。イザベラは、ちらちらとハイネを気にしている。おそらく、予想していた姿より深刻だったのだろう。その目は、どのように接すればいいのかわからない戸惑いで溢れていた。その様子を見たマイコがイザベラのTシャツの裾を引っ張り小声で囁いた。 「普通にして。」 「いや、でも思っていたより…。」 「ハイネは、ハイネだよ。今のハイネは止まっているだけ。」 最後、マイコは「いい?」と念を押してイザベラの耳から離れた。イザベラは、しばらく考えてから大きく頷いた。 東急百貨店本店の屋上にある花屋に到着すると、色とりどりの花とその香りに圧倒された。マイコは、店に入ってからせわしなくいったり来たりを繰り返し、イザベラは入り口付近でぼうとしている。 「渋谷最大規模の花屋って書いてあったけど、こんなにあったら選べないよ!」 「とりあえず…菊?なのかな。こういう時のお花って。」 「ちょっと!なに勝手にアイ殺してるのよ!」 「ああ…そっか。」 二人が言い争っている横で、ハイネはある花に目を留めた。ゆっくりと、その花に近づくと二人に向かって声を掛ける。 「これが、いい。」 今日初めて聞くハイネの声に二人は思わず振り返り、じっとハイネの方を見てからその指先にある花を見つめた。 「…百合?」 マイコが、呟く。 「確か…百合も仏花じゃなかったっけ?」 イザベラが、ポロリとこぼしてからマイコに足を思い切り踏まれて悲鳴を上げた。そうして、マイコは携帯を取り出し何やら調べ始める。 「百合の花言葉は、(純潔)(無垢)(威厳)。うん、いいかも。それにしよう!」 そう言って店の奥へと店員を呼びに行ったマイコを見送り、イザベラはハイネの隣に移動した。 「アイに、似てるね。」 イザベラが、その真っ白な花を指で撫でると滑らかな湿りと弾力があった。その艶やかさは、この植物が切り取られた後もなお生きようとする姿を体現している。ハイネが、隣で静かに目を細めた。 大きな百合の花束を抱えた3人は、そのままラブホ街へと入ってゆく。急に空気が重さを増したその先に、「SHIBUYA XXL」はある。体育館のような四角い大きな箱は、あの頃と変わらず今でもアーティストたちの憧れの場所だった。彼女たちは、ゆっくりと会場入り口へと足を進めた。すると、そこには大小様々な花束が置かれている。その中には、飾りつけされたうちわもあり、アイの顔写真が貼られている。花束に、ポストカードや手紙が挟まれているものもある。ハイネは、静かにその花束たちに向かってお辞儀をする。 「去年も、沢山お花が置かれていたんだ。」 マイコが、ハイネの隣で優しく囁いた。 「ネットではずいぶん勝手に忘れられて傷ついたけどさ。」 「ちゃんと、私たちはまやかしなんかじゃなく存在してたんだ。」 ハイネが、一歩前に出て百合の花を置いた。そうして、あの夜4人で脱走した外階段を見つめて呟いた。 「おかえり。」 そうして、2年間彼女が必死に堰き止めていた何かが彼女の産毛を逆立たせ涙となって零れてゆく。小さく震えるハイネの背中を、イザベラの掌が支えていた。 「出しちゃえ。全部。」 マイコはそう言って、ハイネを抱きしめた。同時に、昔ハイネに抱きしめられた自分を思い出す。あの頃遥かに弱かったマイコは、今ハイネを守ろうとその腕に力を込めた。その腕の中で、ハイネは受け入れなくてはいけない事々に歯を食いしばって耐えていた。 「アイは、どういう気持ちでこの日記を書いていたのだろう。 アイは、どういう気持ちでこの場所から消えていったのだろう。 ふらっと旅に出たにしては、長すぎる。 私は、いつまでアイを待てばいいんだろう。 もしくは、帰ってきたとして「あの頃」に戻るには遅すぎる。 もう二年が経ったんだ。 もうアイにはこの日記もこの場所も必要なくなったのだと、本当は分かっている。同時に、きっとそれは彼女にとって「いいこと」なんだとも思う。ただ、私は追いつけなかっただけなんだ。この二年間を例えるならば、こんな風景だ。はじめに、怒りと寂しさが竜巻になって私の心の窓を割った。その後、壊れてしまった家の周りをおろおろと漂ううちに周りはすっかり時がたっていた。気づいた時には、焦りが屋根もなくなってしまった私の心に雨のように降り注ぐ。それは、経験したことがないくらい「最悪」だった。だから、もう消えてしまえばいいと思っていた。アイと一緒に消えてしまいたかった。 だけれど、思ったより周りの人たちは辛抱強く手を差し伸べてくれている。今はまだ、その手を力強く握り返すことはできないけれど。その手が、地下にいる私からはるかに遠い地上からちらちらと見えている。それを見上げていると「人生は決定的に欠けているんじゃないんだ」と勇気が出てきた。人生は少しだけ欠けているんだ。それは、がむしゃらに高みを目指して生きていても、死んだように何もしないで漂っていても、結局のところ人生は「足りない」という事だ。そう思えば、気長に生きればいい。マイコは「書くことから、始めよう」と言ってくれた。イザベラは、「ゆっくりでいい」と言ってくれた。高橋さんからは「小説を書かないか」とメールが届いた。もちろん、今すぐには無理だ。だから、今こうして私は日記を書いている。できることから、始めてみようと思っている。 私たちは、変わってゆくんだ。少しずつそのことを受け入れていきたい。いつも、ほんの少し足りない世界と半径30センチの世界を愛せるその日まで。」 ハイネは、ペンを置き自分の痕を眺めた。久しぶりに、書き上げた自分の文字は右に行くほど下がっていて不格好だった。それが、何だか今の自分にちょうど良く思えて弱弱しく笑った。そうして、おもむろに立ち上がり久しぶりにアイのスペースのカーテンを勢いよく開けた。すると、細かい埃が舞い上がり窓から差し込む光が埃を照らす。それは、まるで光の筋のようにハイネの周りをしばらく舞っていた。
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