第1章  過去からの一歩

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第1章  過去からの一歩

私は、犯罪者だ。 私はかつて人を破滅させようとした。 最愛だったはずの男を陥れて全てを奪い去り、表舞台から無き者とすることを本気で考えた。 だが、周りの人間があまりにも優しく寛大過ぎたが故に(ゆる)されただけで……私は、表沙汰にはならなかった犯罪者なのだ。 「 次の方、どうぞ御入りください 」 まだ借りて間もない雑居ビルの小さな事務所のパイプ椅子に座り、組立式の長テーブルの前で時田遥子(ときたようこ)は履歴書を手に声を掛けた。 本日3人目の面接である。 遥子は10年間大手出版社の文芸部で編集者として勤め、文芸部のリーダーにまで出世した32歳。 だが、1年前に全てを捨てて突然辞めた。 いつかは独立したいという目標を抱いてはいたが、実際に辞めた理由はそんな前途洋々な理由ではなかった。 この業界からきっぱり足を洗うつもりだった。 作品を制作する側の立場にも係わらず、あるまじき事をやらかしたが故だった。 そのあるまじき事は、ごく一部の人達しか知らない事実で、会社の上司も知らず、同僚達にすら知らされることは無かった。 それもこれも、全ては優しすぎる人達が自分を赦したから。 その赦しが正解なのか不正解なのかはいまだにわからないが、自分が自分を赦せていないことは今も尚変わらない。 3人目の面接も呆気なく終わり、これといった手応えも印象も残らなかった。 遥子は、優秀な編集者を探していた。 一度は絶望し、生きる目的も失い、この業界から足を洗うつもりのはずだった。 だが、結局この仕事以外何も出来ない、何者にもなれないのだという現実をある人に気付かされ、その人に背中を押してもらい、独立することを決心したのは、僅か五ヶ月前の冬の終わりだった。 長年のキャリアのお陰でツテもコネも十二分にあった。 遥子が独立をすることを聞きつけた出版社や担当した作家、ライターなどからは仕事の依頼を約束されてもいた。 「 岩橋さん、今日はこれで最後だったかしら?」 面接の間、隣でメモを取ってくれていた赤いフレームの眼鏡をかけた女性に声をかけた。 「 はい、今日は先程の方で終わりです。次は、三日後の10時から2名の方が来られる予定です 」 やや無表情な顔で事務的に答えてくれた女性がこの事務所最初の採用者、岩橋素子(いわはしもとこ)である。 歳は30歳、営業部長の秘書経験があり、おまけに数字に強い経理肌の女性だ。 結婚願望の無いバツイチというのも魅力的だった。 1番最初に探した人材は、自分のスケジュール管理と経理が出来る人だったから、速攻採用となった。 そして、いずれはライターにも挑戦しながら編集もこなすとなると、全てには手が回らなくなるのは容易に予測がついた。 従って、後二人採用を予定している。 そこそこの歴があるベテランの校閲に秀でた編集者と、カメラを扱えるフットワークの軽い自分とペアを組める人材。 「 今日は、この辺で終わりにしましょう。私はこのあと昔の知人にベテラン編集者の紹介をお願いしに行く予定があるから 」 岩橋は履歴書をファイルに纏めながら頷いた。 「 かしこまりました。ですが、私は明日から順次届く机とデスクトップ、書庫棚などの配達時間の確認と先日お伺いしたそれぞれの配置図を作成したいので、もう少し残って構わないでしょうか?もちろん、社長は予定通りお出かけ下さい 」 遥子は頷きながらもちょっと苦笑いを浮かべる。 「 了解。でも、配置図は今日中に仕上げなくていいからね。少なくとも五時までには戸締りをして上がってちょうだい。それと…… 」 「 それと、なんでしょう?」 「 ″ 社長 ” はやめてくれないかな。うちは株式でも有限でもないし、小さな立ち上げ間もない個人事務所だから。」 「 では、なんとお呼びすれば?」 困惑気味の岩橋に遥子はいたずらっぽく笑う。 「 そうねぇ……呼び方は岩橋さんに任せるわ。何か考えておいて?貴女が出した案に他の採用予定者達も従わせるから!」 大きめのショルダーバッグを肩に掛けながら遥子はポカンと口を開いた秘書にウインクを投げると事務所を後にした。
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