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第21章 揺れる心
白岡は、ここにきて最終のクライマックス展開に迷いが生じ、急にペンが遅くなっていた。
こうなると作家というものは厄介ゾーンに入る。
迷いの答えを探すために最初から何度も内容を洗い直してみたり、プロット(あらすじ)の組み立てを変えてみたりと……まぁまぁ編集者も振り回される。
この日も急ブレーキの掛かった白岡の為にヒントになるような提案をしたり、書き起こしてある章ごとに整理して打ち出してみたりしたが 、なかなかピンとはこなかったらしい。
結局この日は、殆ど進まずに一週間の時間を置くこととなった。
「 なんか……嫌な予感がするんですけど、遥子さんはどう見てます?」
バイクを降りた時に約束したランチを取るために、二人は土門の提案したカレー専門店に居た。
ランチのはずが、白岡の所で思わぬ時間を強いられ、すでに三時を回っていた。
話題はもっぱら白岡の突然の急ブレーキに及んだ。
「 そうねぇ…… 私もちょっとそんな予感がしてるかなぁ…… 」
「 ベテランの遥子さんが感じてるんなら、ヤバいかもですねぇ。何か対策とかあります?もしもの時の為に用意しておく物とか 」
遥子は思わずフフッと笑う。
「 なんか、考えることがいっぱしの編集者みたいになってきたわね?」
土門はちょっとおどけながらニッコリ笑った。
「 そりゃぁね、これでも一応、伝説の編集者のアシスタントなんで!」
「 伝説なんかじゃないわよ!」
遥子が軽くたしなめると、そこへ頼んでいたカレーが運ばれてきた。
初めての店だったので、素直に土門のお勧めに従って遥子はチキンカレーにした。
普通のチキンカレーと違って、ルーの上にローストされたチキンが細長くカットされて並んでいる。
「いただきます」をしてから、チキンをスプーンでカットしてルーとライスを口に運ぶと、複雑なスパイスと芳しい香りが口に広がった。
「 美味しい!」
目を丸くしながらカレーを眺めて遥子は素直に感嘆した。
そんな遥子に土門は嬉しそうに笑った。
「 でしょ!ここはルーにも鶏のミンチと玉ねぎが細かく煮込まれていて、キーマ程わからないけど舌に微妙に残る感じが絶妙なんです。」
土門の説明に、遥子は確かめるように二口目を運び、なるほど、と何回も頷いた。
「 お勧めしてくれただけあるわね、本当に絶妙だわ。タウン誌の取材か何かで知ったの?」
遥子に遅れまいと、カレーをパクつきながら、土門は親指を立てた。
「 ご名答!以前、この辺りを特集したときに口コミで取材に来ました。良かった、味覚が一緒で!」
「 味覚が一緒って、大袈裟ね?」
遥子が苦笑いすると、土門はスプーンをカチンと置いてムキになった。
「 そこは大事ですよ!長く一緒に居るには味覚や好みは似ている方がいい 」
長く一緒に居る……というフレーズに何故か感情が反応した。
口に運びかけたスプーンが一瞬止まり、カレーがブラウスの襟元に垂れてしまった。
「 あっ…… 」
慌てて遥子がおしぼりで拭き取ろうとすると、土門が止めた。
「 駄目です!そのまま!」
土門の動きは素早かった。
横に置いていた斜め掛けショルダーから小さなポーチを取り出すと遥子の座る左側に滑り込むように座った。
「 はい、こっち向いて 」
「 え?い、いいわよ!自分で出来るから…… 」
「 いいから、言うこと聞く!」
戸惑う遥子に有無を言わさずに、土門は体の向きを自分に向かせると、ポーチの中から小さな金属製のヘラのような物を取り出し襟元のカレーを慎重にこそげ取った。
その後紙ナプキンを襟元の下に当て、染みの上から小さいボトルに入った透明の液体を浸み込ませると乾いたガーゼでトントンと叩く。
その手際の良さに感心しながらも、自分の襟元に真剣な顔を近づけている距離感に戸惑い、体を寄せているが為に密着している彼の脚を意識した。
「 ーーはい!オッケーです!これで染みにならなくて済む 」
すぐ真横でニッコリ微笑まれ、思わず頬が上気した。
「 ……あ、ありがとう…… 」
あっという間に向かいの席に戻った土門を目で追いながら、もごもごと呟いた。
「 これ、便利でしょ?」
「 ……何でも持ち歩いているのね。器用ね…… 」
「 僕も、便利でしょ?」
ちょっと意味有り気に笑った後、種明かしを始めた。
「 カメアシの頃に学んだんです。モデルさんて撮影の合間に食べ物を摘まんだりするし、ルージュが服に付いたりとかのアクシデントが多かったんで、染み抜きなんかも見習いの時はやらされたんでね 」
遥子はなるほど、と頷いた。
土門とは、かれこれ二ヶ月半程仕事や行動を共にしているが、呑み込みも早く基本的に何をさせても器用な印象が強い。
おそらく、カメラマンとしてもいずれ成功しただろう。
「 貴方なら、カメラマンでも成功したような気がするわ 」
遥子は思ったままを口にした。
「 それは、僕には編集の仕事は向いてないということですか?」
「 え?…… 」
才能が豊富だと、褒めたつもりの言葉だったのだが、予想外の不機嫌な返しに遥子は慌てた。
「 違う違う!褒めたのよ?器用だし才能も豊富だから、何にでもなれたんじゃない?ってことよ 」
だが、土門は少し考えるようにしながら首を傾けた。
「 遥子さんは、いつ頃冬影社を辞めたんですか?」
「 ………なぜ?」
突然の会話の変化に一瞬戸惑った。
「 だって、遥子さん程の優秀な編集者が辞めるってことは、独立を考えてでしょう?なら、独立するまでどのくらいの時間がかかったのかなぁ?って。」
「 いずれ独立しようと考えているの?」
土門はブンブンと頭を降った。
「 まさか!まだ始めたばかりですよ!この先何年修行を積めばいいんだか……」
「 そんなにかからないと思うわよ、君なら。」
「 何言ってるんですか!」
土門は驚いたように笑った。
「 独立には、絶対的な実績が要るのは遥子さんが一番知ってるじゃないですか。どんなに能力高めても独立は成り立たないでしょ?」
「 まぁ……コネはあった方がいいのは間違いないけどね 」
彼は、何を聞きたくてこの会話を始めたのだろうと訝しげに顔を傾けた。
「 で、退社してから独立までどのくらいかかったんですか?」
遥子は敢えてカレーを口に運ぶことに注意を払いながら、土門を見ずに答える。
「 そうねぇ……一年半位かしら。経営の勉強もしないといけなかったしね。」
実際には、半年で事務所を立ち上げたのだが。
「 やっぱり、こういう仕事を突き詰めると独立を考えるものですか?」
「さぁ……人それぞれなんじゃない?むしろ、独立を考える人の方が少ない気はするけど。」
遥子はカレーを綺麗に食べ終わると紙ナプキンで口を押え拭く。
「 遅ればせながら、遥子さんが育てたという作家、江上龍也の処女作品読みました。……良い本でした。」
「 ………そう。」
遥子は相変わらず土門を見ずに、水の入ったグラスを手に取りゴクリと飲んだ。
土門が真っ直ぐこちらを見ているのは視線でわかった。
「 七年もペアを組んだ、自分が発掘して育て上げた作家とペアを解消した原因も、独立の為ですか?」
「 ねぇ!」
とうとう遥子は痺れを切らした。
「私は一体、何の取り調べを受けているの?」
ようやく土門を正面から睨みつけた。
「 事務所に入って三カ月の貴方が、年明けにでも独立を考えているんでなければ、この話は意味を成さないわ。」
「 意味は、ありますよ。」
土門の目が少しだけ細められた。
「 亡霊の正体……江上龍也、ですよね?」
ゆっくりとした動作で、遥子は再びグラスから水を飲んだ。
そして、もう一度土門を見た。
白岡に爆弾を落とされた日から、いずれこの件については話さなければならない日が来るだろうとは頭の隅で考えていた。
遥子は覚悟を決めて、口を開く。
「 そもそも、貴方が言う “ 亡霊 ” って何?貴方の顔が実は江上龍也に似ているという点なら、否定はしないわ。他人の空似レベルなのも認める。だけど、そこに意味はないわ。とても似ている、それ以上でもそれ以下でも無い。」
土門は、軽く目を閉じると小さく溜息をついた。
遥子の答えが余りに予想通りだったからだ。
彼女がそうやすやすと自分の過去を話すはずがないのもわかっていた。
「 ………すみませんでした、今する話ではありませんでした。こんなカレー屋ではね。」
突然、丁寧に頭を下げる土門に遥子はちょっと面喰った。
だが、すぐに顔を上げた土門の眼差しはとても強いものだった。
「 前にもはっきり言いましたが、あの時の事も、僕の気持ちも、亡霊の正体の事も、無かったことにする気はありませんから。いつか、必ず、僕と話して下さい。」
きっぱりとした迷いのない彼の言葉は、何故か遥子の心に響き、揺さぶられた。
即座に否定しようとしたのに、まったく言葉が出てこなかった。
そして、その遥子に関しての話題は、その日事務所に帰ってからも二度と土門の口に上がることは無かった。
皆が帰った後も、遥子は白岡の迷いの点を探りながら、妙案はないかと原稿のデータを読み返していた。
何点か、思いついた事をワードにまとめると、取り敢えずパソコンを閉めた。
回転椅子をくるんとデスクに背を向けて窓の外を眺める。
『いつか、必ず、僕と話して下さい……』
土門が最後に言った言葉が甦る。
彼の真っ直ぐな気持ちは、さすがに届いている。
嬉しくないと言えば、嘘になる。
そもそも、こんな風に誰かに想われたり、こんな風に個人的に距離を詰められるのも何年振りだろうか?
亡霊呼ばわりされている江上とだって、慎重に距離を置きながら勝手に片想いをしていただけだ。
かれこれ、十年近く恋愛関係とは無縁な日々を送ってきたんではないだろうか?
女盛りを仕事に捧げ、勢いで事務所まで立ち上げた。
遥子はクククと自嘲する。
恋愛………この、心が揺れるような気持ちは、恋なのだろうか?
昔好きだった男にそっくりだという理由で遠ざけてはきたが、似ていようがいまいが、土門駿平という年下の男の存在が自分の中で大きくなっていることは、もう無視は出来ないという自覚はある。
だが……。
彼が真っ直ぐに想いを寄せてくれている女が、実は、犯罪者のようなことが出来てしまう残酷な女だと知れたら……
遥子は両手で髪を後ろへかきあげ、固く目を閉じた。
もう二度と、何かを失うのも、傷つくのもご免なのよ!
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