第4章  過去の痛み

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第4章  過去の痛み

「 辛いですか?」 長谷部は遥子の心の言葉を見透かしたかのように言った。 「 誰かに……例えば砂原に、江上先生に、とことん責められた方が楽ですか?その方が自分を赦す理由が出来ますか?」 核心を突いたその言葉に遥子はハッと目を見開いた。 「 貴女は、貴女自身を赦せないでいる。あの時の貴女を赦せないでいる。なぜなら、誰も貴女を責めなかったから。違いますか?」 遥子は鳩尾辺りに鈍い痛みと衝撃を受けたような錯覚に陥った。 長谷部は、遥子の様子を伺いながら、何かを決心したように口を開く。 「 私は、あの当時、第三者でしたから、第三者の目線であらためて言わせてもらいます。よろしいですか?」 遥子は、弱々しくコクンと頷いた。 「 確かに、あの時起こった事は悲劇だったかもしれませんが、その切っ掛けとなった原因は、各々が各々にあると考えていたと思いますよ。江上先生は、あそこまで貴女を追い込んだのは自らのせいだと思い、砂原も貴女にあんな事をさせたのは自分の存在のせいだと思っていた。だから、誰も貴女を責めようがなかった。」 長谷部の意見は、言葉の上では理解出来た。 「 あの後、砂原は1度はこの業界を辞めようとしたが、なんとか自力で踏ん張って編集者に戻ったんですよ。江上先生も、貴方との約束を果たすために、うちとの連載も、貴女とタッグを組んでいた連載も、きちんと終わらせましたよ。」 「……ですか……」 そうですか、と言ったつもりが声がかすれて言葉にならない。 「 時田さんも、そろそろ御自分を赦してあげてはどうですか?もう充分でしょう?貴女を赦せるのは、貴女だけだと思いますよ 」 長谷部の語り掛けるような優しい声に、遥子は零れそうになる涙を瞬きで抑え込んだ。 自分が傷つけてしまった大切な人達が、それぞれに歩みを進めていることは知っていた。 一旦はその関係を自分が無理やり壊した美月と江上も、長い時間をかけて共に歩むことを選択したことも知っていた。 ある意味、2人が結婚したことは遥子を安堵させた。 もうそこには、恨みも悲しみも復讐心もなかった。 「 独立……頑張ってみてはどうですか?」 長谷部が励ますようにそう言った。 「……独立…?」 「 一年前、時田さんが冬影社をお辞めになった時は、きっと独立されるんだろうと業界裏での噂を聞きました 」 「 あの時は……ただただ、全てから逃げ出したかっただけです 」 「 では、今度は逆にその時の皆の噂に乗っかるというのは、どうですか?」 長谷部の気軽さを感じさせる言葉に、遥子は思わず苦笑した。 「……乗っかるだなんて、独立の理由には安易過ぎます」 「 切っ掛けなんて、そこらじゅうに落ちてますよ。何かを始める理由なんて、なんでもいいじゃないですか。始める理由が要るのなら道端に転がってる石だって構わないんじゃないかなぁ 」 冗談なのか本気なのかわからないような呑気な言葉だったが、なぜか遥子はクスッと笑った。 笑いながらも、その眼からは涙が零れ落ちた。 遥子は泣き笑いしながら、側に置いてあった紙ナプキンで涙を押さえた。 「 すみません……泣いたりして…… 」 長谷部は優しく微笑む。 「 大丈夫ですよ、誰にも言ったりしませんから。」 そして遥子の涙が落ち着くのを待って、上着の内ポケットから名刺を出すと、そっと遥子の前に滑らせた。 「 すみません、独立したらどうかなど、軽はずみな事を言いました。でも、本心でもあります。もし、私がお手伝い出来ることがあればいつでも連絡して下さい 」 遥子が名刺を手に取り眺めていると、長谷部が続けた。 「 私は、あのバイタリティー溢れる編集者としての時田さんを尊敬していました。経験年数では私の方がずっと上のはずなのに、貴女に脱帽していたんですよ。叶うことなら、あの頃の貴女にもう一度会いたいと思っています 」 遥子は、″もう一度″という言葉に固く目を閉じ、口元を引き締めるとキチンと顔をあげて長谷部を見た。 そして深々と頭を下げた。 「 ありがとうございます。そんな風に以前の私のことを覚えていて下さって……そして、今のこんな私に声を掛けて下さって……」 遥子は顔を上げると、控え目に微笑んだ。 「 もう少し自分と向き合って答えが出たら、道端の石ころを拾ってみるかもしれません 」 長谷部は、黙って微笑んだ。 私だけの時間が止まっている。 私を赦せるのは私だけだと言う。 あんなにも醜く苦しかった自分と、私かは向き合えるのだろうか…… ずっと思い出すことすら拒否してきた ″あの頃 ”に。
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