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第8章 罪と罰 ①
結局は、七年もの長い片思いに破れただけのことなのだ。
恋人関係になることもない、ましてや男女の関係になったこともない、ただ一方的に愛していただけの七年間だったのだ。
だが、彼を救う為に心血を注いだ月日だった。
思い返せば、絶望して酔いつぶれていた彼を救いたいと思った時から、この片思いは始まっていたのかもしれない。
あの後、すぐに江上の担当を降り、後輩の編集者に無理やり押し付けた。
体調不良を理由に仕事も休みがちになり、酒と眠剤に頼らなければ眠れなくなった。
七年間の江上との日々を振り返っては酔って泣き、江上と美月のこれから始まるであろう幸福な時間を考えると、激しい痛みのような憎悪に襲われた。
その焼けるような憎悪は、日に日に遥子の心までも蝕んでいき……
こんなに尽くしてきた自分が、こんな惨めな思いをして、あの二人だけが幸せになるなど、許せるはずがないと思うようになっていった。
どんな手を使ってでも二人の関係を、二人の幸せを壊したいとも。
それはとても危険な思考だったが、遥子の失恋も、心の状態も、誰一人知る者がいない現状では止めてくれる者もいなかった。
どうすれば二人を引き離せるか、どうすればこの惨めな思いを江上に思い知らせることが出来るか……もはやその妬けつくような感情は、二人への復讐にすり替わってしまっていた。
おそらくは、その時の遥子は心の病に侵されたが故の別人格だったのだろう。
遥子は七年前に本人から聞いた江上のドーピング事件の詳細を、記憶を頼りに思い起こした。
当時の、由希子というマネージャーが彼を陥れるために使用した違反薬物を調べ上げ、探し集め、手に入れた。
江上がドーピング事件をきっかけとして、薬の一切を受け付けなくなっていたことは遥子が誰よりも知っていた。
それこそ市販の風邪薬、頭痛薬ですら遠ざけていた。
一種の精神的トラウマだったのだろう、ビタミン剤ですらその体調に変調をきたす様な体になってしまっていた。
それらの事情全てを知った上で、遥子はその薬を使って二人に復讐する計画を立てたのだ。
完璧な仮面を被り、それらの薬を手に、遥子は江上ではなく、美月に会いに行った。
まず、彼女にそれまでの失礼を丁寧に詫びた。
そして江上とのパートナーとしての関係を解消し、自らの彼への想いを諦め、全ての舞台から降りることを決心したことを告げた。
そして、江上の事は美月に託すと告げた。
素直で心優しい美月は、遥子の突然の告白に当然動揺し、戸惑い、到底受け入れられる状態ではなかった。
むしろ美月も悩んでいた。
自分の江上への押し殺している想いが実は、江上と遥子二人の気まずさになってしまっているのではないかと。
自分の存在自体が遥子を苦しめてしまっているのではないかと。
遥子は、内心「その通りよ」と苦々しく呟きながらも、ニッコリ微笑んで美月を説得にかかった。
江上が本当に必要としているのは、私ではなく貴女なのだと。
それがはっきりとわかったから、こうして二人で話をする決心がついたのだと。
美月だから、彼を任せられるのだと。
これからは、貴女が江上に寄り添い、彼を守っていってほしいと。
純粋な美月は、遥子の発した“ 守る ”という言葉に敏感に反応した。
それこそが、遥子の最大の狙いだった。
遥子は、出会った当時の江上の体調や精神状態、立ち直った今も尚続く体調不良の原因を、有ること無いことを並べ立て、丁寧に説明をした。
そして、長年に渡り、密かにその体調管理をしてきたのも、自分だったのだという噓をでっち上げた。
江上を純粋に想い、彼の為ならどんなことも厭わないであろう美月を信じ込ませることは、難しいことではなかった。
遥子は、かつて江上に地獄を見せた数種類の薬の入ったポーチを美月に渡した。
そして、各々のピルケースの使用方法を丁寧に説明する。
徹夜明けには、この粉末ビタミン剤をスープなどで。
偏頭痛を起こしたら、この薬をコーヒーで。
書き続けることからくる目の疲れや肩凝りには、この錠剤を細かく砕いてミキサーで作るジュースなどで。
当然ながら、どれも真っ赤な嘘だった。
こんな子供だましの様な作り話で騙せるのか?
色々なことを疑ってかかる人間なら、すぐにばれるような嘘だ。
だが、遥子には確信があった。
美月なら、疑わないであろうと。
なぜなら、彼女は私に負い目があるからだ。
自分が江上を奪ってしまったのではないか?と。
自分のせいで私を深く傷つけてしまったんではないか?と。
だから、この告白を疑わないと確信が持てたのだ。
迷いながら、戸惑いながら、遥子から渡されたポーチを鞄に大切にしまい、すまなさそうな、どこか泣きそうな顔でペコリと頭を下げて去っていく美月の背中を、能面のような無表情な顔で見送る遥子だった。
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