黒いジャケットと紫のスカート

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安田聡子 31歳 フリーランス 「さとちゃん、黒いジャケットも持ってないの?」 昨年、結婚を機に退社し、今はお腹の中に新しい命もいる私の幼馴染兼親友のともちゃんが言う。 「だって、持ってても使わないもの」 「それ、持ってないから使わないだけだよ。現に今、黒いジャケットを私から借りようとしてるのはどこの誰よ」 こういう時のともちゃんは、お母さんみたいになる。私は、彼女の膨らんだお腹を見て、心の中でそこにいるはずの命に念ずる。「あんたの母ちゃん、手ごわいよ」それと同時に、もうすぐともちゃんを独り占めできなくなると思うとその膨らみが憎らしくもなる。そんな私の気持ちを知らないともちゃんは、手際よく黒いジャケットを紙袋に入れて渡してくれた。 「ありがとう。クリーニングして返すわ」 「それ家で洗濯できる素材だから、クリーニング出さないでいいよ。そのまま持ってきて。お礼は…帝国ホテルのアフタヌーンティーで」 「利子、すごいな」 「とにかく、さとちゃんは黒いジャケットを買いなさい。あと、白いシャツとひざ丈の黒いスカートもね。持ってて損はないから」 「はい、はい」 「返事は一回!」 そのやり取りが、芝居じみていて二人顔を見合わせて笑った。そうして、次の約束をしてからともちゃんのマンションを出る。もう空はすっかりオレンジ色だ。電線にとまるカラスの下を歩きながら「さて、今夜は何を食べようか」と思う。「ううん、もう何か作るのは面倒だから、馴染のバーで適当に食べよう」誰かの為に生きない自由を、私はこうして謳歌している。たまに、誰もいない家に帰る寂しさを感じたりするけれど、それはまだ天秤にかけるほど膨らんではいなかった。腕時計を見ると、バーの開店時間まで1時間ほど時間がある。さて、どうしようか。すると、私の頭にとある企みが浮かんだ。「黒いジャケットと、白いシャツと、ひざ丈の黒いスカート」この3つを持っていないといつまでも大人になれないみたいに言ったともちゃんに、ちょっと反発してやろうと思ったのだ。確か、近くにUNIQLOがあったはずだ。私は、グーグルマップを起動して、UNIQLOに向かった。 店内に入り、レディースフロアに出ると、難なく白いシャツを見つけられた。有名なデザイナーとコラボしたものらしく、ラックに取り付けられたモデルの写真は、いかにも仕事が出来そうな洗練された雰囲気だ。果たして、自分が着てこんな風に着こなせるのかは自信がないがとりあえずカゴに入れる。ジャケットは、ともちゃんから借りたものがあるので次回にするとしてひざ丈の黒いスカートを探す。せっかちな私は、店員を捕まえて場所を聞いた。案内された場所には、裾がフレアしているデザインの物や、ウエストがゴムになっている物、Aラインのすっきりとした物、はたまた、少しスリットの入ったセクシーな物も置いてある。なるほど、これだけの種類があるという事は、ともちゃんの言う通り「持っておいて損はない」なのかもしれない。自分の年齢も考えて一番無難なAラインのスカートをカゴに入れ、フィッティングルームへ移動する。店員に、案内されるがまま個室に入り服を脱いでいく。膝がばっくりと空いたデザインのデニムを降ろし、タイダイ染めのお気に入りのTシャツを脱ぐと、そこにはひょろりとした私の肢体が鏡に映っている。自慢ではないが、高校から体型の変わっていない自分は、服を脱ぐと子供みたいに見える。それが、嫌だったころもあったなあ、なんて思いながら、まずは白いシャツに腕を通した。少し、袖が長かったのでまくってみる。うん、想像通りな仕上がり。次に、Aラインのスカートを履く。すると、強い既視感を感じた。恐る恐る、ともちゃんの黒いジャケットを紙袋から取り出して羽織る。すると、そこには母親そっくりな自分がいた。古風で、面白みに欠けて、真面目だった私の母。そんな母が、私は少し苦手だった。だから、鏡に映る母そっくりな自分を見て動揺してしまう。そして、母のことを想うと決まって、ともちゃんのお母さんのことも思い出す。ともちゃんのお母さんは、私の母親とは真逆な人だった。中学の授業参観、周りのお母さんたちは地味なスーツを着ているのに、ともちゃんのお母さんは鮮やかな紫色のロングスカートで教室に現れたのだ。鈴みたいに広がるボリューミーなそのスカートを揺らしてともちゃんの席の隣で立っていた。ともちゃんは、ものすごく嫌そうな顔をしていたっけ。でも、私は羨ましかったのだ。誰かと同じではなく、自分の好きなものを選ぶことのできるともちゃんのお母さんが羨ましかった。その時だったっけ。「私は、好きなもので生きて行こう」と誓ったのは。 「お客様、いかがですか?」 カーテンの向こうから聞こえる店員の声で、私は現在へ引き戻された。そして、慌てて声を出す。 「今脱ぎます」 白いシャツと黒いスカートを脱ぎカゴに入れ、黒いジャケットは紙袋に戻す。そして、タイダイのTシャツを着て、デニムを履くといつもの私がいてホッとした。カーテンを開け、店員に「戻しで」と言ってカゴを返す。店を出て、「今頃、ともちゃんは夕ご飯を作ってるんだろうな」と思いつつ電話を掛ける。5回ほどコール音が鳴った後、案の定留守番電話のアナウンスに切り替わった。ピー、と音が鳴る。 「ともちゃん、忙しい時にごめん。さっきは、ジャケットありがとう。大した話じゃないんだけどさ」 中学生のともちゃんの嫌そうな顔が蘇る。紫のスカートと、嫌そうなともちゃん。 「私には、紫のスカートが必要なんだよ。黒いジャケットじゃなくて」 あのスカートは、今どこにあるのだろう。ともちゃんのお母さんは、まだあのスカートを履いているんだろうか。 「白いシャツでも、ひざ丈の黒いスカートでもなくてさ。」 いつか、もっと年を重ねて白いシャツを着るようになっても、黒いジャケットを買う日が来ても、私の心の中でいつまでも、あの鮮やかな紫色のスカートが揺れていて欲しいと思う。本当に好きなものを、忘れないように。 43befabf-92c7-4743-a0a6-ff4c9cff6404
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