第2話 教室の女王

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第2話 教室の女王

 短い夏は過ぎて新学期が始まっていた。 左右に廊下を伸ばす玄関広間の天井ではアンドロメダ座が優雅に輝いている。本物の天空よりは控えめだがそれでも壮大な石製の星座盤が、深い青地に金の煌めきで秋の星空を表していた。  授業を区切る鐘が鳴り響けば廊下を生徒たちの足音や声が行き交って、休暇の間静かだった校舎は今や蘇生したように活気を取り戻している。  再び鐘が鳴ってしばらくした後、人通りの消えた階段をバケツ片手に降りるのはテアだった。  就業時間が減った夏季休暇を師匠との修行や〝人喰い館〟の手入れに出かけたりなどして過ごし、季節を一つ経た彼女には、宝物が一つ増えていた。 「(そろそろ行かないと)」  時間を確認したついでに、文字盤を覆うガラスをそっと撫でた。  銀の懐中時計は手に収まる大きさで、垂れた鎖は腰元のベルトに繋いである。針と数字の隙間の細やかな金の模様は星々にも見えて、テアはつい魅入ってしまう。  それは師匠から彼女への誕生日の贈り物だった。  先月の祝いの夕食――結局テアはメイジーにシェパーズパイをお願いした――の席で、渡されたそれにテアは驚いた。師匠にそんなそぶりは全く見当たらず微塵も予測していなかった。本当に開封していいものか、「おめでとう」とは言うものの無感動な贈り主に四度確認してから箱を開けた。  横に立つメイジーもつい目を見張ってしまった。銀に細かな花模様が彫られた品は主人の趣味にしては可憐で、意外どころかまたしても天変地異の前触れかと使用人には思われた。 「――エヴァンズ様、時計鍵は?」  加えて、ありふれた鍵巻式時計なら同梱されているはずの物が無いのも不可解だった。 「無い。鍵でぜんまいを巻くのではなく、純魔法で動力を補う」 「どうやって?」  魔法と聞いて思わず質問したテアに、懐中時計を手に取ったエヴァンズは裏側を見せた。銀盤の中心に濃い紫色のおおぶりな石が嵌め込まれている。 「魔法を組み込んだ物体抽出で構成された魔動具だ。この石に向けて土魔法・操作を行使し回転させることで、魔動を復活させる」 「はい」 「五回転で十日ほど持つ。方法は――」  興味深そうに頷いていた弟子は、やがて師匠の指導のもと杖を構えた。使用人は済し崩しに修行が始まってしまったのに気付いて「食事の後にしてくれればいいのに」と彼らの熱心さに内心でぼやいた。  その日から、生れて初めて持つ懐中時計はテアの宝物となった。  浴槽や暖炉などもいまだに彼女をうっとりさせる特別なものであったが、手の中に納まる、という形質には格別な愛らしさがあった。裏側の銀盤に「TWB」と自分の頭文字がわざわざ彫ってるあるのも、こそばゆいがなんだか嬉しい気がしてくる。夜寝る前に手の杖をくるくるさせ時計の動力を補充するたび、誕生日にメイジーの作ってくれた手の込んだ料理(修行を挟んだせいで少し冷めてしまったのに気付いた時は慌てて謝罪した)の暖かみも思い出せる。  だが同時に、己には分不相応な品物なのではないかという惑いもあった。  初めのうちはアイリーンからかつて貰った手紙などと一緒の引き出しに閉まい時折眺めるだけだったが、家でふと時間を確認しようとした時「懐にはございませんか?」と使用人に何度か指摘されたのがきっかけで、本来の役目通り携帯するようにした。とは言え、なるべく人前で出すのは控えている。  携帯してみれば勤務中も鐘の音に頼らず行動できて、いまや欠かすことのできない相棒となってくれていた。 「失礼します」  階段で時間を確認した後、施設管理事務室に寄って道具を持ち変えたテアが向かったのは、校長室だった。  開けた扉の先には着席するガーディリッジとエヴァンズがいる。 「いよいよですね」  校長がそう言って懐中時計を確認する。今までは気にしていなかったのにその手元をテアはつい目で追ってしまった。金色のそれはいかにも重厚だが彼の振舞いには相応に見える。 「もう一度言っておきますが、互いに歳は近くあなたの方が低階級――彼らの方は四番、とはいえ、生徒と職員。威厳と責任を、何かあれば彼ら生徒を守る立場であるということを、努々忘れないように」 「ハイ」 「あなたの事は先にエヴァンズ先生から生徒達へ伝え済みです。本日は座学ですね? 報告書の作成もお忘れなく」 「ハイ」 「行ってまいります」 「よろしくお願いしますよ」  教師と生徒補助員は校長室から出発した。  テアにとって、今年の誕生日は特別なものとなっていた。エヴァンズとメイジーが祝ってくれたから、宝物が増えたから。そして、己の失態から新たな責務が生まれた日だからである。  補助員として教室に入る。それを想像しただけで、テアは重圧に身が縮んでしまう思いがした。とにかく階級を上げたい、同僚になめられたくない、という志は考えてみてもぼんやりとするだけで動機には弱かった。  でも――あの星空の下で、魔法と生きると決めた自分に己の全ての魔法を授けると誓ってくれた師匠に、エヴァンズに、自分の不出来が影響するのは何であれ本意ではない、元のままなら、いるだけで師匠のお荷物になってしまうというなら、 「(やるしかない、なんとか)」  弟子なのだから。  始まりの鐘が鳴った。ついに生徒補助員として初めての授業が始まる。  テアは師匠の後に付いて、教室に足を踏み入れた。  張り詰めたような無音に包まれる。窓からの陽光を多く取り込む教室は、薄暗い廊下から別の世界が開けたようだった。五人分の視線が集中するのを感じテアの身が強張る。足が一瞬止まりかけたがそれでも動かした。胸の下あたりがきゅっと冷たくなった。 「授業の前に紹介を」  視線が教壇のエヴァンズに移る。落ち着いた声は静かな教室に良く通った。  この一室は後方半分にしか机が無く、生徒達はそこに着席している。教壇側は広く空いていて、壁際には背もたれとひじ掛け付きの堅牢そうな椅子が整列している。 「本日からこの教室に生徒補助員として着任する、テア・ウィー・ブライアント」  エヴァンズの横に立つテアに再び視線が集まる。 「よろしくおねぎゃいします」  噛んだ。威厳はもう駄目だとテアは失望した。師匠は悠然としたまま口を継ぐ。 「従前伝えた通り、彼女には主に記録係と人数調整役として君たちの実習の手助けをしてもらう。授業中は実習要領以外の魔法行使はしない」  生徒補助員を続けるための二つの条件を、テアは頭で反芻した。  一つ目は、教師でも助手でもなく〝階級二番の生徒補助員〟であり、教える立場ではないのをわきまえて行動する事。  特に、人体操作系統の魔法をエヴァンズの監督外で生徒に行使した場合は、その時点で生徒補助員職としては解任になると校長から念を押されている。  施設管理室のエプロンを身に着けたままなのも、補助員と教師との区別が明確につくよう敢えてのことだった。 「ロバート・グローストン」  エヴァンズによる紹介が始まり、端の席に座る男子生徒が立ち上がった。 「初めまして。学年長をしていますので、何かお困りの際は遠慮なく仰ってください」  補助員へ向ける真顔は誠実に引き締まっていて、清潔で整った身なりは真面目さが窺える。 『――そもそも人体操作特別学を受講できるのは優秀な者ばかりですが、グローストンは特に優秀な生徒のひとり。勉強熱心で責任感があり、大会で記録を保持する優秀なホウキ乗りでもあります。卒業後は第一領エリース研究所の研究員になる予定です。同級を仕切り後輩の見本となる学年長も、代理ですが四年連続で立派に務めてくれています』  テアはガーディリッジ校長から事前に聞いたことを振り返っていた。実際に目の当たりにする彼はいかにも真面目で賢そうで、恐れ多い印象すらあった。 「――イライザ・ベネット、――ホリー・ハウエル、――タロン・ウォーカー」  愛想の良い者もそうでもない者も次々と起立し挨拶をした。テアは校長の解説を思い出しながら上目気味で応えていた。  最後の一人が立ち上がった。 『グローストンと同じく彼女もエリースの研究員に進路を定めています。彼女は何というか――あなたも体験したかと思いますが、時に正義感が溢れすぎて言動が荒ぶるきらいがあります。いえ、いずれも彼女が元凶というわけではないのですが……良くも悪くも目立つ存在ですが、とはいえ彼女は我が校の歴史に名を残す優秀な魔法使いとなるでしょう。文武両道、そのいずれもトップクラス、過去最高も見込める成績での主席卒業の最有力でもある』 「オルラ・フィッツレイモンド」  尊敬する教師による紹介に伴い「よろしくお願いいたします」と述べる表情に笑顔は無くとも、華を彷彿とさせる優美さは佇まいから失せない。  視線は堂々と真っすぐにテアへ向けられていた。しかしテアはすぐに目を伏せてしまった。  紹介が終わると補助員は後ろの端の席に座り、音を立てないように筆記用具を机に並べた。校長の指示で事前に支給品を受け取りに行った事務室で、小さい子が手習いに用いるスレートペンシルでも、小さくなって引き出しの隅に転がる鉛筆でもなく、新品のペン先が詰まった小箱と草花模様の金具が艶やかなペン軸を支給されている。  テアの視界には、整然と並ぶ後頭部と教壇の師匠の姿が映っていた。  淀みなく進行する講義を着席する生徒達が傾聴している。 「――行使後に低下を抑えるには二つの方法がある。一つは――」  重要な点を書き留めようとして五人が一斉に手を動かした。彼らの統率された動きに驚いたテアは一瞬固まってから、慌ててインク壺にペン先を浸した。  紙面を金属のペン先がカリカリと鳴らす。その音に、生徒のうちの一人が軽く振り返った。把握した生徒はすぐに顔を前に戻したが、何かと思ったテアが注意深く様子を見てみると、五人の手元には杖もペンも無い。  彼らの指先が無音で躍ればごく小さな光が舞って頁に文字が記されていた。魔動筆記だ。 『最終学年である彼らは脱杖の時期で、杖なしで魔法を行使するよう指導』されているのだとテアは校長から聞いていた。  まだ基本的に杖を頼り筆記も手動しか出来ない己と彼らの差は明確だったが、授業中において、テアが困惑するほどの隔たりを感じていたのは別の点だった。  エヴァンズはいつもの調子を崩すことなく悠然と講義をしていた。生徒達は十分経っても、二十分経っても、きちんと椅子に座りお行儀よくそれを聞いて、書き留める点があれば熱心に筆記した。居眠りする様子も無い。  それは、かつて幼いテアが通っていた学校の様子とはまるで違っていた。  ウィンフィールドの彼女の母校は他の地域のものと似たり寄ったりの一般的な環境だったので、過密気味な教室で施される義務の教育にうんざりした生徒が隙あらば私語を挟み時には教師を茶化して授業を停滞させたし、教師は彼らを制御するために威圧的で手には仕置き棒――それは布団叩きの転用で代わりに悪童の尻などを叩く――を装備していた。口を閉じていられる子供も体が騒がしかったり背筋が曲がっていれば木板を縛り付けられてお行儀良くされる。もちろん、物覚えが悪ければマヌケ帽子を見せしめに被らされるし、居眠りが見つかれば叱責され周囲の笑いの種となる。  幼いテアにはそれらが恐ろしくて、いつも縮こまって手元のスレート板や練習帳に文字を書いていた。  しかし、リーブラのこの教室で終始授業に交じった雑音は、補助員が走らせるペン先の音ただ一つだけだった。 「――以上、本日はここまで」  エヴァンズが本を閉じた直後鳴り響いた終業の鐘で、テアは時間の経過を自覚した。 「(うそ、もう? あっという間――)」  生徒達は手際よく机上を片付け退出していく。テアは荷物がまとまりきらないまま席を立って、エヴァンズの後に付いて彼の研究室に向かった。  師弟が取り組むべきことは授業後にもあった。それは、生徒補助員を続けるための二つ目の条件である『授業報告書』の作成であった。  週に一度の授業のたびにこの簡易的な報告書をエヴァンズの指導下で作成し、それをもとにガーディリッジ校長が生徒補助員としてのテアを評価する。規程以下の評価が続けばこの場合も解任となってしまう。  壁際に本棚が並ぶ研究室の机で、テアは覚え書きを頼りに本日の授業と生徒達の様子を仕様書に記し始めた。 「(…………なんか違うな……?)」  書く手は何度も止まった。授業中の生徒達の様子を『彼らは椅子に座っていた。良かった。』と記せば、何か違和感がある。だがどうすれば違和が解けるのか釈然としない。  授業内容についても、修業と被る部分はあってもそれを文章にまとめるのは話し言葉とは違う難解さがあった。  苦戦の最中はっとして机の下で懐中時計を見ると、驚くことに持ち時間の半分が過ぎてしまっていた。本来ならこの時間は修業に充てられるはずでテアは遅筆ぶりに焦った。 「――――できました」  急いで空欄を埋めると、机を挟んで正面に座る師匠へ声をかけた。別の作業をしていたエヴァンズは本から顔を上げると、弟子からの提出物を受け取った。紙面に目を通していく。 「(やっぱり変かな? もっといっぱい書いた方が?)」  落ち着かぬまま見つめていると、ふと黒い瞳がこちらを向いた。エヴァンズが静かに報告書を机上に置き該当箇所に指をさす。 「ここは、eの後にrが付く」  表情を変えない師匠の一方で弟子の顔が赤くなる。テアは情けなさで頭を抱えて机に伏せたかった。心配すべきは文章ではなく文字の段階だったのだ。  誤字脱字の指摘はいくつか続いて、結局この日の空き時間のほとんどが報告書に費やされた。  校舎の裏の空き地で、テアの前に素焼きの皿が重なって塔を連ねていた。  昨晩は、宙の十二宮のうち天秤宮を太陽が通るこの時期を祝って屋外で夜間行事が催された。天秤を模した木組みを燃やし煙を天に上げ、学徒たちはその周囲で夜空を見上げ、星と星とを結び、悠久の光に思いを馳せる――という場に施設管理補助員には出動要請が無かったので、昨晩は自室の窓から星を見て通常通り就寝した。  今は曇り空の下、生徒達が火を持ち運ぶのに使った大量の小皿を風魔法で煤を掃いつつ箱詰めしている。  窓掃除騒動の後も、テアの施設管理業務は特段変わりなく続いていた。件の新人は騒動の後「なんか勘違いさせちゃったみたいで悪かったね」と軽やかに彼女へ謝罪した。テアは謝罪より、彼を横目で見るスミス室長の冷めた顔の方が気にかかって曖昧な了解をしたのだった。  素焼き特有の軽い音が鳴って、最後の皿を重ね終わったテアは一息ついて周囲に目を向けた。  夏が過ぎて草木の伸びも盛りも過ぎている。小さな花や変わった形の葉を見つけるのは夏の草むしりの間彼女のささやかな楽しみで、肌を刺すような日差しも今となっては少し恋しく思えた。 「(――あれ?)」  束の間草地を眺めていてテアはふとあるものに気付いた。離れた所の木の陰に、花の群れがあった。おそらく雑草の類と思えたが、誰かが植えたかのように規則的に咲いていた。 「(なんだっけ、たしか――)」 「こんにちは」  足音と女性の声に目を丸くして振り返る。 「――こんにちは」  返答したテアは、身長差のある二つの制服姿にすぐ名前を当てはめた。植物園から出てきた際に補助員を見つけはるばる歩み寄ってきたのは、人体操作特別学教室の生徒だった。  背の低い方は女子生徒、手の込んだまとめ髪に揺れる水色のリボンが印象的なベネット。彼女の後に着いてきた男子生徒は、学年長のグローストン。 「お仕事中にすみません」  テアの前に並ぶとグローストンが口を開いた。 「授業の時はお話しする機会が無くて残念だったので、姿を見かけて、つい」 「あ、はい」  彼が話す間、ベネットは補助員の成りを上から下までまじまじと見ていた。テアははっとしてエプロンを汚している煤を手で払った。 「エヴァンズ先生のお弟子さんへ不躾になってはいけないと思って、むやみに声をかけるのは控えていたんですが……やっとお近付きになれて嬉しいです」 「あたし達去年から気になってたんだもんねぇ、本当は」 「ああ」  テアは緊張の面持ちで二人を交互に見ていた。グローストンは少し固い表情だが礼儀正しい。ベネットは前回は気付かなかったが、近くにいると何か甘い良い香りがする。 「ブライアントさんて、魔法階級が低いから助手になれなくて補助員やってるって本当なんですか?」  出し抜けの質問にテアもグローストンも驚いてベネットを見た。 「失礼だろ急に」  グローストンは眉間に縦皺を作ったが、対する質問主は素知らぬ顔でいる。 「――ベネットがすみません、いつも口が軽率なんです。生徒の間でそういう噂があっただけで、侮辱する意図は――あの、違うんですよね?」 「あ、本当です。それは……」  テアはそう答えて、グローストンの眉間の縦皺が再び現れたのに気付いて目がいった。ベネットは横の彼に「ほらね!」と言ってから再び問いかけた。 「ちなみに何番なんですか?」 「――に、二番です」 「フフ」  生徒二人は曖昧に笑って応えた。  テアが困惑して黙っていると、気付いた二人から笑顔が消えた。 「――え? 冗談ではなくて本当に、二番?」  グローストンの眉間の深刻な皺にテアが怯えたその時、後方の校舎から鐘の音が響いてきた。 「行かなきゃ」 そう声をかけるベネットに、我に返った様子で「ああ、うん」と頷いてからグローストンはテアに顔を向けた。 「……お仕事中失礼しました」  ケープが翻って、早足で遠ざかっていく。  彼らが去り際に向けた視線は――かつて同じ答えを聞いた同僚が、大げさなほど目を丸くしてから「ふぅん」と言った際の、言外に何かを表す視線をテアに思い出させた。  教壇に立つエヴァンズの手の動きで、壁際の椅子にルブの光が散る。六脚は滑るように移動して教室の前半分の空間に並んだ。  五人の生徒は机を離れ、二脚ずつ向かい合っている椅子にそれぞれ座る。最後の空席にテアが恐る恐る座った。  今回の授業は座学だけではなく、二人で組み互いに腕部への操作を行使する実習が含まれている。  生徒補助員として二度目の授業だが、前回感じた教室に入る時の居心地悪さは変わりなく、テアは今回も身を強張らせていた。 「左腕、次いで右腕の挙手動作を、各3分ずつ」  教師の手前の教卓には、ガラスを木柱が囲む砂時計が小さな神殿の如く鎮座している。  エヴァンズの指示を聞くと補助員は彼から預かっている紙束をめくった。生徒達のこれまでの実習記録が表に記されている。  ――最高記録は対ベネット(右手)のフィッツレイモンド十八秒、次いで対ウォーカー(左手)のグローストン十五秒。飛びぬけての最低記録はウォーカーによる一秒(『誤差かも!』と書き添え有り)。 「僕からですが、問題無いですか」 「ア、ハイ」  向かい合うグローストンの声でテアは紙束を閉じた。その拍子に紙束が膝から床に滑り落ちた。  乾いた落下音に視線が集まり、慌てて拾いあげ椅子に座り直す。眼鏡がずり落ちたままの顔を上げると、グローストンと目が合った。 「大丈夫ですか」 「――はい、大丈夫です……」  グローストンの眉間に浅くだが皺が出現しているのを見て、テアは声を小さくした。皿の掃除中の会話以来顔を合わせるのはこれが初めてだった。よりによって初めて組む相手が彼なのは気まずい思いがしていた。 「始め」  落ち着いた掛け声と共に教師が指を軽く振ると、教卓に置かれた砂時計も光を散らして回転した。 「「「右腕よ上がれ」」」  ガラスの狭間を砂が落ち始めると同時に、二人組の片方がそれぞれ魔法を行使する。 「今ちょっと動いた!?」 「ちょっと腕痒くってあたしが動いちゃった。ていうかルブが光ってなかったでしょ」  ぬか喜びしたウォーカーはベネットの返答を聞いて肩を落とす。 「――上がれ」 「かかったわ。……二……三……四……」  何度かの空振りの後成功を報せる光が散って、フィッツレイモンドは挙手の姿勢のままとなった。ハウエルが集中して魔法を行使し続ける。だがその最中で上がっていた腕が肘置きへ戻ってしまった。 「八秒よ」 「ありがとう。もう一度やるね」  皆それぞれに実習を進めていく。その彼らの内で、一向に静かな組がただ一つあった。 「……」 「……」 「……?」  テアは相手の顔を窺う。 「……右腕よ、上がれ」  グローストンはいま一度よく集中し直して、構えた手を振った。だが対象の手は椅子の肘置きに置かれたまま微動だにしなかった。 「(おかしい、なんだ?)」  何度か繰り返してみても、ルブの光はまたたかない。唱えながら眉間につい力が入った。  妙な感覚だった。  少しの手応えもなく――というより、とにかく掴みどころがない、こんなのはおかしい。対象によって有効時間の差はあっても、全く効かないなんてのはあり得ない。タロンにもホリーにもイライザにも、オルラにだって行使出来る、出来てた。なのに―― 「交代」  焦ってきたところに教師の号令がかかった。  テアは振り返ってエヴァンズに顔を向ける。 「あの……」 「君も行使を。許可する」 「はい」  念のため今一度確認を取った生徒補助員は、正面を向き座り直すと杖を取り出した。 「始め」  教室内で唯一杖に頼る補助員は、ひとつ緊張の息をついてから唱えた。 「右腕よ、上がれ」  グローストンはそれが失敗したのだと思った。成功の光が輝いたにも関わらず。  何故なら己の腕は、己の意思とはあまりにも関係無いままで、気付けば天に向かいすらりと伸びて他人事のようにそこにあったから。  動かそうにも自由にならない右腕を呆然と見上げ、次いで補助員を見た。  そこにいた彼女は、これまで受けていた印象とは違いがあった。魔法に集中し、杖の先を見つめる瞳は真っ直ぐで、凪いでいた。  時間が経つにつれて他の組も違和に気付いた。視線だけがざわめいて行き交う。 「終了。次の組を」  エヴァンズの声で初めてテアは杖を下した。教室内で彼女の人体操作だけは、砂時計の砂が落ち切るまで一度も途切れることがなかった。 「あの、大丈夫でしたか……?」  上目遣いのテアに問われてグローストンは我に返った。肘掛に下りた右腕は自由を取り戻していた。 「――はい、大丈夫、です。ありがとうございました……」 「ありがとうございました」  成功したにもかかわらず、補助員は背を丸め恐縮した様子で席を立った。  一通りの練習の後は時計を用いて経過時間の記録が行われた。グローストンはいつもの通り教室の同級生全員に十数秒間の行使を成功させた。  だが、終ぞ生徒補助員に対してだけは、教室の生徒全員がルブを光らせることが出来なかった。そして生徒全員が制限時間いっぱいの行使を、補助員から受けた。  その結果はテアにとっては師匠から聞いていた通りだった。  ****** 「現時点では、君は教室の生徒からの人体操作を全く受けず、無効にする可能性が高い」  それは校長から生徒補助員の話を受けた後、夏期休暇も終盤の師弟の居間での会話だった。 「え」と呟いたテアが「どうして?」と続ける前にエヴァンズが口を継いだ。 「彼らは教育課程を経て人体操作を扱えるようになった養成の人体操作属性、一方で君は幼年の内に自ずと扱うようになった生来の人体操作属性だ。同じ属性であっても両者の間では、基本的に生来の者の抵抗力が強く、差が出来やすい。一方で生来同士の場合は、筋が似通うので行使が比較的容易く抵抗しにくい」 「――私がエヴァンズ先生に人体操作をかけられるのも、その、生来同士だから?」 「その通り」  夏季休暇で時間が取れたお陰で修行は進んでいた。師匠から魔法を受けたりあるいは師匠へ魔法をかけたりして、弟子は人体操作の行使を安定させつつある。  考えてテアはふと引っかかるものがあった。 「でも、ウィリアムさんは……?」 「ウィリアムは人体操作属性ではないが、抵抗法に関してはそれを覆すほどの鍛錬を積み技を習得した。生来であっても慣れが無ければ完全に抗われておかしくない。にも関わらずあの一瞬の間、彼の動きを止めた君の魔法が見事だった」  無感動なまま黒い瞳が正面から褒めるので、テアは流れ弾を受けたように動揺した。 「それほどの抵抗法をまだ生徒達は得ていない。君の魔法は十全に効力を発揮する」 「あ、あの、でも、ということは、私に魔法がかからないなら、私が授業に入っても、生徒さんの練習の役には立たないんでしょうか……」 「いや」  ****** 「現時点では及ばずとも、鍛錬を積み相手の抵抗を上回る展望は全員にある。加えて生来の者からの十全な行使を受けることは想像と経験を補強し、自分が行使をする際の重要な参考になる」  教師は弟子にしたのと同じ内容を教壇から説明した。それを後方の席に戻った生徒全員が黙って聞いている。  その背後に座るテアは、一瞬、彼らの間に何か張り詰めるようなものが走るのを感じていた。  最後に座学で本日の講義内容をまとめ、補助員の初めての実習は終了した。  手際よく机上を片付ける生徒達の様子は前回と同じで、テアは慌ただしく席を立った。緊張は教室を出てもすぐには収まらず、こうしてエヴァンズの後ろに付いて廊下を歩くうちにやっと遠ざかりつつある。  まとまりきっていない荷物が腕から落ちないかとテアは目を向けた。その中のペン軸が視界に入った時だった。 「(あれっ、ペン先が無い、落とした?)」  テアは歩きながら周囲を見渡し、それから師匠の背中に声を掛けた。 「――エヴァンズ先生。すみません。教室に忘れ物をしたかもしれないので、先に研究室に戻ってもらっててもいいですか?」 「ああ」 「すぐ、すぐに行きます」  テアは速足で廊下を戻り始めた。急いで机上を片付けた際に心当たりがあった。  階段を降り生徒達の横をすり抜け、半開きの扉を目前とした時だった。 「二番って聞いてたのにあんなのあり!?」  直前で立ち止まったテアに教室内の光景は見えていない。しかし、漏れ聞こえた声だけでその主が誰かを理解した。 「本当なの?」 「本人から聞いたもの。ロバートがもじもじしてたからあたしが挨拶したの。ねぇ一緒に聞いたでしょ」 「ああ。もじもじはしてないだろ」 「全員行使できないなんて、あんなの無理だよ。最後の年についてないなぁなんで僕たちだけ……」 「評価に響くのかな」 「ここまで七年よ。あたし達は脱落せず最高学年のエヴァンズ教室に残れた。なのに、こんなにあっさりと年下の――しかも二番なんて低学年レベルよ? なんかバカみたいじゃないの」  ベネットの発言は相変わらず口の過ぎるものではあるが、遠からずその場の生徒達の代弁であった。  各系統を履修する中で才を発現させ、見出された者だけが特別学の教室に所属することが出来る。優れた魔法使いの教え子であり、優れた特別な成績を修める彼らは、生徒の間でも一目置かれる存在であった。  しかし、同じ世代のさえない階級二番ごときの補助員の魔法が師に「十全な行使」と称えられ、実際全く歯が立たないというこの異常事態は、彼らのこれまでの日々を揺るがしていた。 「……二番は嘘とか? 謙遜?」 「でも確かに筆記すら手動みたいだったし、脱杖もまだ」 「なんだか筋が通らないね」 「――何か仕掛けがあるんじゃないか?」 「仕掛けって?」 「まだわからないけど」  とっくに移動したと思っていた人体操作教室の生徒達の声が耳に流れてくるままにして、テアは硬直していた。  自分の事が話されていると心当たりが胸を打つたびに脈が跳ね、恐ろしくて教室を覗く気にはなれない。一方で、年下ではなく同い年くらいだし学年長が疑う「仕掛け」なんて本当にわけが分からないし、彼らの話の混沌ぶりに目が回って倒れそうだった。 「敵わなくて当然と言えば当然だわ。なんせ、あのエヴァンズ先生のお弟子なんですから」  それまでの会話中、一度も発せられてなかった声が凛と響いた。 「でもさぁ、なんか……」 「でも。私たちだってあのエヴァンズ先生の選ばれし教え子。そうでしょう?」  聞いていたテアは、それまでざわめいていた空気が急に静まるのを感じた。  生徒四人は黙ってフィッツレイモンドを見つめた。 「エヴァンズ先生は全員に展望があると仰った。私達が七年かけて積み上げてきたものがブライアントさんによって無い物にされるわけではないわ。積み上げてきたからこそ彼の弟子といま相対するのを認められた。リーブラで学べる最後の年に、人体操作の才をより伸ばす為の他にない機会を得たのよ。彼の教え子として」  静まってしかしはっきりと意を表す声は堂々たるもので、騎士たちを鼓舞する女王の如き頼もしさがあった。  立ち上がった女王はその腕にしっかりと教科書を抱えた。 「魔動筆記が出来る出来ないの議論なんかしているよりも、有益な事を、出来るわ。私達の誰もが」 「――敵に不足は無い、ってワケね」  それは、五人の魔法使いの開戦の合図となった。  フィッツレイモンドが先んじて歩き出す。靴音に、テアは急に魔法が解けた心地がして踵を返した。 「――?」  廊下に出た女王は足を止めた。  その視線は廊下の曲がり角に向けられていた。一瞬だけ見えた人影に、くすんだ紫色があったような気がしていた。  かすかな足音は遠ざかって、ほどなく階段の奥へ吸い込まれて消えた。
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