第3話 理由の詰問

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第3話 理由の詰問

「終了。次の組を」  教壇からエヴァンズの号令がかかる。  テアが杖を下ろすと、気を失い椅子に全身を預けていたウォーカーがはっと目を見開いた。 「今、何かを掴めそうだった気がする……!」 「おめでとう早く退いてあたしの番なんだから」 「ごめん」と言う彼をひっつかむように追い出してベネットが椅子に身をねじこんだ。一寸すら惜しんで挑む表情は真剣そのもので、テアが口を挟む間もない。  その真剣さは、この教室においてベネット一人だけのものではなかった。 「試しに腕部の稼働範囲と有効時間の図式を作ってみたんだ」 「それならこの定理も参考になるかも」 「待ってくれメモを――駄目だまた杖を取ろうとする癖が……」 「よくあるわ」  バケツ片手に石畳を歩くテアの視界の先に、グローストンとハウエルの姿が映った。低い石垣に腰かけた二人は本を手に熱心に話し合っていた。  離れた所の紫色のエプロンに気付くと二人は会話を止めた。互いに会釈をしてテアはそそくさと立ち去る。  その姿が建物の影に消えるまで目で追った後、生徒二人はすぐに勉強会を再開した。  鐘の音の余韻が廊下に響いている。テアは勤務の合間の修行のため、師匠の研究室へ向かっていた。角を曲がればもう目的地だ。 「理解が深まりました。ありがとうございましたエヴァンズ先生」  油断していたテアは跳び上がりかけた。研究室の前で二人の人物が立ち話をしていた。  質疑応答を終えて、エヴァンズは扉を開けフィッツレイモンドはケープを翻す。  教科書を片手に廊下を歩む彼女はすぐにテアに気付いた。 「ごきげんよう」  歩みを止めることなく挨拶をして、颯爽と追い越して行った。 「なるほど興味深い」  珍しい動物を目撃してしまったようなまばたきを二、三度してから、ガーディリッジは報告書から顔を上げた。 「――ええ。良く書けていると思います、初めてにしては。率直で懸命さが伝わる。まずは長めの伸びしろを込みにしてC評価といたしましょう」  校長がついと指を振ると、光の粒が散って紙面に「C」の赤字が記される。  卓を挟んで対面するテアは緊張の面持ちでそれを見ていた。隣にはエヴァンズも着席している。  生徒補助員の着任からひと月が経ち、初めての報告会が校長室で行われていた。 「生徒達の方は熱心に取り組めているようですね?」 「はい」 「よろしい。試験結果に反映される日も近いでしょう」  冷静に応えたエヴァンズに、校長は初めて満足気な表情をした。弟子も概ね師匠と同意だったが、正直なところ彼女にとって生徒達は『熱心すぎ』て呆気にとられる程だった。  教室の中でも外でも彼らの勤勉さを目の当たりにするなかで、それでも補助員への行使が未だ誰も成功しない状況が続いているのが、テアを益々いたたまれない気持ちにさせていた。 「例え頼まれても手加減なんてしないように、ブライアントさん。お友達同士の自習会ではないんですからね」 「ハィ」  心の内を読み取ったかのように校長が釘を刺すので、手加減でも何でもして早く『不足無き敵』役から下りたいのが本音の補助員は背筋を伸ばした。 「難度の調整が必要ならばエヴァンズ先生が責任をもって管理監督します。特別学群は一般の授業と違って、全員一律の合格点というのはありません。修了時の生徒それぞれの到達地点を以て合格とするものです。各生徒の特色を見定めながらその力を最大限まで伸ばしてあげる……教師の職務はなかなかに繊細です。あなたは生徒補助員として、生徒の良き助け・良き糧となるように力を尽くしてください」 「はい……」 「報告書に関しては、まあ、まずは数をこなしていくことですな。書くことは地道な鍛錬を要するものですから――魔法としてだけの意味ではなく。自分の中にあるものを形にして外に出すというのは案外難しい。でしょう?」 「はい」  テアは頷いた。考えて相応しい言葉を探し正しく記す作業は苦悶を感じるほどだった。添削をしてくれる師匠がそれをすらすらとこなしていくのは、魔動筆記の行使を除いてもそれ自体が魔法のように思えていた。 「『椅子に座ってる』というのはどういう状況なのか? それの何がどう『良かった』のか? よく見つめよく考え、よく言葉を選ばなければ伝えたいことは伝わらない。階級七番であるエヴァンズ先生は第一領エリース研究所への定期的な論文提出の義務がありますから書き慣れてらっしゃる。よく勉強させてもらうといいでしょう。そのうち四番も、機が熟せば一発楽勝で――」 「失礼。授業があるので移動します」 「オット、もうそんな時間ですかな」  終わりの見えない話を冷静な声が絶った。丸々とした目で懐中時計を見るガーディリッジと悠然と立ち上がるエヴァンズに、戸惑いながらテアも席を立った。  修行が行われていた研究室で、向かいの師匠へテアはおずおずと口を開いた。 「あの、階級試験っていうのは――」  本を閉じたエヴァンズが顔を上げる。 「急いで受けた方が良いんでしょうか? それとも、もっと修行が進んでから受けた方が……?」  そう訊ねるテアは、深い理解は及ばないものの、階級二番という己の状態が師匠まで巻き込んだ諸々のきっかけになっている事だけは察していた。  ならば校長の言う四番なりせめて三番を一刻も早く受験すべきなのか、しかし現時点で様々な困難がある――例えば、報告書の一文にすら時間がかかる――自分にそれが可能なのか、気がかりでいた。  最低限の読み書きは義務教育のなかで習ったとはいえ、学校を卒業して以降はまとまった文章といえばベイカー氏が読み終わった新聞を油拭きに再利用する際かいつまんで読む程度だった。  付き合ってくれる師匠に魔法の事なら何でも質問出来ても「BEHAVIOR」か「BEHAVIA」なのかを今更訊くのはためらわれる。魔法ですらなく、文章作りですらもなく、その手前の幼稚な誤字脱字に惑わされる自分が情けなかった。 「どちらでも問題無い」  弟子の問いにエヴァンズが悠然と答える。 「修行が進めば自ずと試験範囲を網羅できるが、直近で受験するのならそれに合わせて対策をする。三番なら補足すれば実技の合格は遠くない」 「(お?)」  師匠の言葉でわずかに光明が差した気がした。 「加えて筆記問題と、提示された主題に沿った小論文は」「論文?」  テアは思わず話を遮った。 「――字をたくさん書くやつ?」  エヴァンズの右手が軽く動いた。背後で音がしてテアが振り返ると、本が棚からごっそり抜けて光を散らし飛んできた。  身をすくめるテアを追い越して整然と卓に着地し、かと思うと乾いた音をさせて次々に頁が開く。 「前回の題『火純素と土純素の三変定理について』の参考文献。例題。試験と同程度の論文。こちらの方は四番」  身をすくめたまま紙面の密度を確認した弟子は、師匠を見た。無言の見つめ合いにエヴァンズが付け加える。 「三番は手動筆記も可」  弟子はもう一度紙面に目を落としてから「きがじゅくしてからでもいいですか」と、弱弱しく訊ねた。  楽し気な悲鳴を上げて、外にいた子供たちが校舎へ駆け込んだ。急な雨が石畳にまだら模様を描いていた。  魔法で互いにケープを乾かし合う生徒達から目を離し、テアは廊下の窓から灰色の空を覗く。 「(石鹸の補充をしたら、雨漏りの箇所の確認に――)」 「こんにちは」  不意の挨拶に、テアは目を丸くして背の高い相手を見上げた。  正面まで来て立ち止まったのは学年長のグローストンだった。 「ハイ。あ、こんにちは……」 「これを」  差し出す手に何か光る物があり、テアが覗き込む。 「教室の床の溝に入り込んでるのを見つけたんです。もしかしたらあなたの物かもと」  それは以前落とした銀色のペン先と同じ物だった。探したが見つからず諦めていた。  別の人の落とし物かも――ともよぎったが、人体操作特別学の専用教室で付けペンを用いているのは自分だけなのをテアは思い出して、ついでに情けない気持ちになった。 「きっとそうです。すみません、ありがとうございます」 「そうですか。良かったです」  ぎこちなく受け取った補助員に、グローストンはやや固い笑顔を垣間見せた。 「――……あの、ブライアントさんは」 「はい」  彼生来の真面目な顔つきでグローストンが訊ねる。 「好きな食べ物って何ですか?」 「エ?」  唐突な質問にテアは固まった。  真意を考えて目を泳がせ、再び相手の表情を窺ったが、ただ真顔で回答を待っている。 「な、なんでも……」 「何でも?」 「あ、シェパーズパイとか……」 「そうですか。僕も好きです」 「はい」 「シトロヴィア・ケーキはどうですか?」 「ああ、はい」 「初めて作ったのは何歳の時でしたか? 僕は十歳で」 「えっと、十七」 「十七? つい最近に?」 「はい、去年に」 「そうなんですね」  グローストンは少し間を空けてから、再度口を開いた。 「では、また。授業で」 「はい」  遠ざかっていく後ろ姿をテアは不思議な気持ちで見送った。 「(……? なんだったんだろう……)」  多少急な世間話だった気がしたが、受け取ったペン先を有難く子袋にしまうと歩き出した。  その次は、薄曇りの日の午後のことだった。  ゴミ箱を抱え集積所に向かうテアは実習棟を出ようとしていた。出入り口付近には実習用の長丈の上着を着た自立飛行教室の生徒達がたむろしていた。  その中に、彼もいた。 「今日はよく冷えますね」  挨拶をしてわざわざ足を止めたグローストンに、呼び止められたテアは「ハイ、ええ……」と相槌を打った。また落とし物をした覚えがあるか自問したが、特には思い浮かばない。 「ブライアントさんは寒いのと暑いの、どちらが得意ですか?」 「どちらかというと……寒いの、です」 「へえ、ご出身はどちらなんですか?」 「――」  また始まった世間話に応じていたテアは、その質問で顔色を変えた。 「どうかしましたか?」  ウィンフィールド。賭け魔法。ベイカー家。生家。他の、様々な事。それらがものすごい速度でよぎった。 「……――あの……」  動揺してグローストンを窺えば、眉間の縦皺がうっすらと姿を現している。 「わ、わたし――」 「ロバート?」  呼びかける声と靴音がして、通路の角から飛行服姿の生徒が現れた。生徒は目当ての同級生と、補助員が一緒にいるのを見ると驚いた表情をした。 「――先生が呼んでいるんだけれど」  その時テアが垣間見たグローストンは、眉根を強く寄せ、呼びかけた相手を無言で非難しているように見えた。  彼はテアに顔を向けると「すみません、失礼します」と言い、足早に同級生を追い越して行った。  学年長が去って、残された二人は改めて視線を交わした。最初の瞬間テアは彼女だと認識出来なかった。見慣れた制服の青色ではなかったから。 「何か問題でも?」  そう問いかける飛行服の彼女はフィッツレイモンドだった。  上着の赤橙色は活発な印象で、腰をベルトで締めた長丈がその身をよりすらりと見せている。普段なら優雅に垂れる髪は後頭部できっちりと巻かれ精悍な印象だ。  ぼうっと顔を向けていたテアは、急に我に返ると目を白黒させた。 「いえ、何でも」  短くそう言うと方向転換し足早に出口へ向かった。  渡り廊下の奥へと小さくなっていく紫色のエプロン姿を、残されたフィッツレイモンドが見つめていた。 「関節にだけ集中しないよう、行使の際は全体を捉え――」  いつものように各自着席して向かい合い、人体操作の練習が行われていた。エヴァンズはハウエルの横について指導をしている。 「立ち上がれ」 「!」  その時補助員と組んで行使側にいたのはフィッツレイモンドだった。いつものように空振りが続いたその何度目か、宙で小粒の光が散った。椅子に腰かけていたテアは見えない力に起こされて立ち上がった。 「わっ」  魔法の強制力はすぐに尽きて頑丈な椅子がテアを受け止めた。咄嗟に彼女を支えようと手を伸ばし前のめりになったフィッツレイモンドとして、互いを見合った。 「今のは自分で立ち上がったんじゃなく?」 「はい――成功したんですフィッツレイモンドさんの魔法が」 「そう」  補助員が口にした「成功」という言葉に周囲の生徒の視線が交錯した。グローストンは行使の途中にも関わらず眉間に縦皺を作り振り返って見た。  フィッツレイモンドはわずかな反応を見せただけで、すぐに姿勢を正して座した。 「良かっ――」  相手方の初めての成功に湧き上がるものがあったテアは、しかし何かに気付くと途中で口を閉ざした。気まずそうに座り直す。 「……?」  妙なそぶりをし無言で俯く相手を、フィッツレイモンドは訝しい思いで見つめた。 「はーあ。やっぱり一番はオルラかぁ」 「すごい。さすがね」 「それでエヴァンズ先生、純素割合なんですけど――」  感嘆するベネットと笑顔を見せたハウエルは、早々に自分たちの練習に取り組み直している。 「……大丈夫? ロバート」  おずおずと問いかけるウォーカーに、我に返ったグローストンは補助員組に向けていた顔を戻した。 「ああ、大丈、――」  杖を取って構えようとした。しかし、かつて腰に下げていた杖袋は今は無いことに気付く。  眉根を深く寄せてから、気を取り直して学年長は「大丈夫」と答え直した。 「先生、ホウキ何本って言ってた?」「三本」「きのこ生えてるなんて最悪!」  湿度のある冷たい風が実習棟の入り口にまで吹き込んだ。飛行服の生徒達が行き交う廊下の端で、テアはいつものようにゴミ箱を運んでいる。 「ねぇロバート! これどうしたらいいの?」 「倉庫へ、壁にぶつけないよう気を付けて」  聞こえてきた声にテアは少し緊張して、通路の奥にいる集団へ視線を向けた。グローストンの暗い茶色の頭が見えた。 「吸収剤はどうする?」 「飛行場に置いといていい低学年の授業が次にあるから。ミリーは先週掃除をせずに帰っただろうジャニスと交代しろ」 「学年長、備品表のサインを」  テアが窺うグローストンは的確に集団を動かしいかにも頼もし気だった。 「――ああ」  その彼の表情がふいに『学年長』と呼ばれ一瞬神経質に強張ったのを、注意深く見ていれば気付いたかもしれなかったが、テアはそれより早く視線を前に戻して実習棟を出た。  早くゴミ捨てを終えて、空いた時間で自主鍛錬をしたいから――だけではなかった。 「ブライアントさん」  渡り廊下から中央棟へ入って、もう大丈夫だろうと歩む速度を緩めてしまっていた。  意識しすぎなのかもしれないが、出来れば気付かれて声をかけられる前に去ってしまいたかった。なのに―― 「(どうして……)」  冷たい空気が沈む廊下でテアが振り返った先に、わざわざ彼女を追ってきたグローストンがいた。 「どうして出身がどこか言えなかったんですか」  歩み寄ってきた彼は世間話すら挟まずに問い質し始めた。後ずさりして壁を背にしたテアは、ゴミ箱を抱えて身を固くする。 「あの……」 「人体操作が使えるのに階級二番に甘んじている理由は?」  ウィンフィールドでは魔法は良くないものだったから、賭け魔法の場にいたから、ずっと竈の火しか許されなかったから、 「他の魔法は本当に使えないんですか、それとも、使えないふりなんですか?」  自分で自分の記憶に魔法をかけてしまったから、記憶も魔力も歪だから、ルブの光への拒絶反応が、祖母が、父が、全てを説明するには長い長い時間が―― 「あなたは奇妙だ。僕たちは、全員真剣なんです。七年間ここで魔法の力を磨いてきた。補助員として授業に参加するならば、あなたは僕たちに公明正大であるべきです。生徒のくだらない噂話に任せたままなのは無責任だ」  声音はかろうじて淡々としているが言葉尻に苛立ちが燻っている。眉間の皺は切り刻むように深刻でテアを責めた。 「なぜ答えないんですか。やましい事が無ければ答えられるはずだ」 「それは……」 「エヴァンズ先生に命令されてるんですか?」 「いいえ、いいえエヴァンズ先生は何も」 「なら質問に答えてください」  テアは言葉を詰まらせた。話していいのか分からない、少なくとも嬉々として話したいことでは微塵もない。  しかし彼に――学年長として誰からも認められ頼られて、恐れ多いと感じさせるほど正しい彼に、拒否を貫く気概も無い。 「(――答えなきゃ、答え――)」 「僕は、今年こそ主席を取らなければいけないんです。絶対に。階級二番のあなたなんかに――」 「ロバート・グローストン」  凛とした声が届いた。二人が顔を向けると、間も無く靴音が鳴った。 「ッなん――」  驚きと怒りの混じった表情でグローストンは何かを言いかけたが、彼女が到達する前に身を翻した。大股で去る彼をテアは訳がわからぬまま見送る。  補助員を追った学年長を追ってきたフィッツレイモンドが、テアの前で足を止めた。 「彼に、何か困らされてでもいるんですか?」  学年長が去った方向に視線を残して問う彼女は、前回と同じ飛行服姿で、ホウキを手に携えている。 「エっ、と」  テアは思わずゴミ箱を抱きしめ直してから、混乱する中で「(とにかく去らなきゃ、今すぐ)」と思い立った。 「いいえ、何も――」  方向転換したテアの眼前に、ホウキの柄が飛び出して壁に音を立てた。 「あなた、やっぱり奇妙だわ。生徒補助員が始まった日からずっと」  逃亡者の進路を右手のホウキで塞ぎ、フィッツレイモンドは冷ややかに言った。 「ど、どど、どれが?」 「眼鏡でも服装でもありません。態度です、私への。補助員に就任なさってから初対面より初対面じみてるみたい。一つの教室で二人に白々しい態度を取られるのは、さすがに気に障るわ」 「(二人?)」 「もし私が何か無礼を働いてしまったのが理由なら、謝罪の機会を頂けたら有難いのですけれど」 「そんな無礼なんて」 「でしたらその妙な態度は何? 私を避けるのはどうして」 「それは、その」 「理由は?」 「理由――」  テアは必死に目を泳がせるが、目の前の鮮烈な圧に呆気なくひっ捕らえられてしまう。思わず上ずった声が出る。 「こっ、これ以上――」 「これ以上? 何よ?」 「きら――」 「キラ?」  痛いほどの視線は心拍にとどめを射さんばかりで、焦りと混乱の濁流に押し流される。ゴミ箱はすがりついても筏にはならない。  成す術の無くなったテアは、最後の力を振り絞るようにして、声を発した。 「嫌われないようにしなきゃって……思って……」  数々の不可解があった。  フィッツレイモンドはそのうち「まず〝これ以上〟の〝これ〟って、どこの地点のことよ」と内心で疑問符を浮かべた。そして去年の出来事に思い至ってから、改めて口を開いた。 「……嫌われない為にやたら避けたら、逆効果じゃないかしら」 「えッ」 「生徒補助員に就任なさってからだったのは私の気のせい?」 「――いえ。ガーディリッジ校長から生徒さん達について説明を受けて、あなたは特別に優秀な方だと聞いて。本当にそうで」 「ありがとう光栄だわ。それで?」 「そ、その、私とは本当に全然違うから、私のようなのと口をきくのは、それだけで嫌になるかも思って、だから、何というか……」 「私は目を合わせ軽い会話を交わすだけで相手を憎み嫌悪する猛獣だから、関われば酷い怪我を負わされるとでも?」 「そんな、そんなことは全然。あなたをそんな風には」 「だったら私に嫌われないように振舞う必要なんて――」  どこにあるっていうの、と続けようとしてやむを得ず口を閉じた。ゴミ箱を抱いて縮こまる相手を、これ以上詰めても酷でしかないように思えた。 「(存外ややこしい人ね?)」  ひとつ溜息を挟んでから続ける。 「あの時は――ミラーの時は、私も少々感情的になって過ぎたことを言いました。今のあなたへは、好きも嫌いもあり得ません」 「……そうなんですか?」 「ええ。そもそも無用な干渉です。私たちは立場が違う。学校のいち生徒と職員なんですから。オトモダチでもあるまいし、そうでしょう?」 「――はい」  テアは頷いた。上目遣いで窺っても相手は毅然としたままでいる。ゴミ箱を抱きしめていた腕の力が少し緩んだ。  相手の表情に残る戸惑いを掃うように、フィッツレイモンドが話題を切り変える。 「それで。ロ……グローストンに、付きまとわれてるの?」 「その、付きまとわれてるというか――最近よく質問を」 「どんな?」 「好きな食べ物とか、出身とか、を」 「ふぅん」  フィッツレイモンドは何かについて考える風だった。沈黙に、テアはおずおずと口を開いた。 「あの、さっき言ってた『二人に避けられてる』というのは――もしかして」 「ええ。さっきの彼の退散ぶり、名前を言い当てられた妖精みたいだったでしょう」 「……喧嘩か、何かを?」 「喧嘩くらい入学した日から数えきれないわ。理由は何度も聞いたけど、ここにシワを作ってむっつりするだけ」  眉間を指す手が降りる。フィッツレイモンドの目が遠くを向く。 「中学年くらいまでは、私達こんな風ではなかったのだけれど」  呟くように言った後、取り直すようにホウキを壁から離した。 「お仕事中にうちの長が失礼したわ。私も。それではまた、授業で」 「あ、はい、また……」  歯切れ良く暇を告げると、赤橙色のホウキ乗りは体の向きを変えた。靴音が鳴って遠ざかる。  テアは廊下に一人になると、思わず壁に寄り掛かって身を預けた。それからはっとして懐中時計を取り出して覗く。  自主鍛錬の確保は既に難しくなりつつあった。ため息を追うようにして、鐘の音が鳴った。 「ブライアントさーん、お掃除中?」  幼さの残る声が足元からする。階段を上るテアに二段飛ばしで並んだのは低学年の男子生徒で、そのすぐ後ろをアイリーンが追ってきた。 「こんにちは。ううん、これから授業へ」 「人体操作のやつ? 俺にもかけてみてよ」 「だめよ、軽率!」  アイリーンが友人を睨んだ。場を取りなすようにテアが答える。 「ごめんなさい。エヴァンズ先生の許可が無いと出来ないから……」 「じゃあ悪い管理員に人体操作で土掘りやらせてついにモグラにしちゃった時も許可があったの?」 「は」 「違う、それは間違ったウワサよ。人体操作をかけたのは女王。悪い管理員を気絶させたの。ブライアントさんはその人を土に埋めてオークの木の養分にしてやったんだから」 「え」 「なんだ、そうなの?」  無垢な視線をよこす二人に訊ねたい事は溢れる程あったが、ひとまずテアは特に気にかかるひとつを選び取った。 「あの、女王っていうのは、誰のこと?」 「高学年のオルラ・フィッツレイモンドのことです」 「知らないの? みんなそう言ってるのに」  話からそうではないかとテアは推察していた。加えて、噂とは本当に手に負えない恐ろしいものだと思い知った。 「うちで何でも一番の女王様だから。強くて頼りになって、怒らせたら首をはねられた方がマシなくらい怖い目にあうって。でもアイリーンは女王様よりも、ブライアントさんのお手振りをもらった方がとってもハッピー!」  そう言って駆けだした友人を、アイリーンが「余計なこと言わないで!」と顔を赤くして追いかけていった。  あの二人にはよくある掛け合いを見送って、ひとりになったテアはフィッツレイモンドとグローストンの事を思い出していた。「喧嘩くらい数えきれない」との証言に元から特に仲が悪いのかとも考えたが、アイリーン達のように幼い頃から一緒に過ごしていれば単純な解釈では済まない気がする。  何より「私達そんな風じゃなかったのだけれど」と呟くフィッツレイモンドは、テアには少し寂しそうに見えて胸がざわついた。 「(グローストンさんが避けるようになったのは、どうして……)」  どうして、とその彼に重ねて詰め寄られて以来、初めて顔を合わせることになる授業へ向かう足取りは重い。階段を上り切り、エヴァンズとの待ち合わせ場所である研究室が近付く。  問い詰めてきた時のグローストンを思い出すと尻込みしそうになるが、同時に、彼の真剣さはあまりに切実なようにも見えて、まるで、 「(なんだか、追い詰められてるみたいな、何かに)」  はっきり掴めないものの、フィッツレイモンドへのざわめきに似た何かをテアは感じていた。 「(せめて、今度また聞かれたらウワサは色々と違うって否定しなきゃ。ちゃんと――)」 「あ! ブ、ブライアントさん!」 「はぃッ」  相手の動揺ぶりにテアも動揺して答えた。角で鉢合わせた小柄な男子生徒はウォーカーだった。 「エヴァンズ先生は一緒に?」 「え、いいえ。私もこれから」 「研究室にいないんですけど」 「だったら、まだ前の授業に――」 「ああどうしよう」  彼が狼狽える理由をテアが尋ねようとした時、その腕を掴まれた。 「――来て。来て!」 「えっ? えっ?」  混乱する補助員に構わずウォーカーは引く腕に体重をかける。 「何とかしてくださいあの二人――ブライアントさんのせいでも、あるんだから!」
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