第4話 鳥の夜空は羊と眠る

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第4話 鳥の夜空は羊と眠る

 静かな闘技場のようだ――と、後から入室してきた三人は思った。  実習中は椅子が並べられる前半分の空間で、この休み時間において一足先に教室入りしていた学年長と女王が対峙していた。 「――彼女、君に助けでも求めたのか?」 「私が問い詰めたの。あなたがしてるみたいにね」  様子見しながら着席した同級生たちは「またか」と「珍しい」という相反する感想を抱いていた。ただでさえ目立つ二人の派手な舌戦は低学年時から有名で、しかし何故か冷戦に入りここ数年は久しかった。 「だったら君には関係無いだろ。いつものおせっかいな守護者気取りか?」 「助言をあなたに贈らせて。ブライアントさんを観察したくて付きまとってるのなら、止めておきなさい。芸が無いわ」 「何?」 「私がとっくにやったから」 「ンフッ」  噴き出したウォーカーは集まった視線に「ごめん」と泣きそうな顔をした。一瞬眉間の皺を深刻にしたグローストンが、気を取り直して口を開いた。 「観察なんて個人的なのじゃない。この教室の生徒を代表して真相を暴こうとしてる。彼女の不可解さはみんな気にしてることだろう」  観客席はおおむね肯定として無言だった。 「真相って?」 「人体操作はあれほど秀でてて、どうしてまだ二番? 年齢の割に未熟? 急にエヴァンズ先生の弟子に? やましくないならどうして答えられない」 「普通に考えて。親しくもない相手に個人的な情報を強要するのは無礼じゃなくて?」 「もし彼女に隠したい『不正』があるのなら損害を被るのは僕らなんだぞ。ここまでの努力を無駄にしたいのか? 僕らがこの教室で受ける評価が真っ当か不当か、はっきりさせるべきだ」 「だとしたら評価を下すエヴァンズ先生に直接訊ねるべきだった。より立場の弱い彼女だけを問い詰めたのは何故。あなたが生来の卑怯者だから? いいえ。エヴァンズ先生と相対する気概は無かったから、自分が正しい行いをしてる自信があなたに無かったからでしょう」  毅然とするフィッツレイモンドに学年長は口ごもった。 「――一体どうしたのよ。あなた、そんな風じゃなかった」 「そんなって? 君が僕の何を知ってる?」 「さあ。知らないのかも。言いたい事を我慢してると眉間の皺が四本に育つことしか」  咄嗟に眉間に手をやってしまった口惜しさでグローストンが睨んだ。舌戦が大概フィッツレイモンド有利で進むのを観客は承知している。 「私に言いたい事が有るならはっきり言ったら?」 「……そんなの無い。今の問題は、僕らがあの師弟の何らかの企みに利用されてるのかどう――」  泥水の一撃が彼の頬を含めた左半身を強く打った。  観客は戦慄した。  相手の行使動作に対し、咄嗟に無い杖を探してしまった学年長は反応が遅れ防ぐことは叶わなかった。棒立ちする彼の髪や裾から茶色い雫がぽたぽたと落ちる。 「企みに、私たち生徒を利用? あの師弟――エヴァンズ先生、が?」  平手打ち代わりの腕の振りで魔法を放った女王の、重い声が教室を支配する。  グローストンが最悪の轍を踏んだのを誰もが理解した。  フィッツレイモンドが彼の教師を時に理性を見失うほど敬愛しているのを教室内で知らない者はいなかった。傍観に限界を見たハウエルが席から立ち上がった。少し前にベネットから小声で「先生を」と言いつけられたウォーカーの姿は既に無い。 「感嘆するわ、よくもそんな発想が出来るものね。あなたこそあの師弟の何を知ってるというの、エヴァンズ先生の何を? 生徒として見てきた彼はどんな人だった? エヴァンズ先生が弟子と組んで生徒を不当に扱うような教師だと、信用ならない卑劣で俗悪な人物だとでも!? よくも、自分の先生をよくもそんな風に言えたものね!」  そこまで言ってない――と彼女以外の全員が思ったが口にする猶予はない。女王の威厳は失せて、ただ有り余る怒りが全身から発せられていた。 「企みってどんなのよ聞かせてみなさいよ」 「……た」「口をきかないで不愉快だわ!」 「――そろそろ、落ち着いて二人とも。ね?」  ハウエルは二人から距離をとりつつ、猛獣を扱うが如くに語りかけた。 「オルラ、ね? もうすぐ授業が始まるし、いったん休憩するのはどう?」  「そうよ。最後の年の授業でやらかすなんて、それこそあたし達全員の評価が下がっちゃうかもよ」  ベネットの非難にグローストンの目が向いた。眉根を寄せる顔は泥で汚れ、その赤らみが羞恥によるものなのか怒りによるものかは判然としない。 「もうやめなよロバート。あんた、学年長なんだしさぁ」  その言葉尻と、ウォーカーに連れられたテアが教室の扉に辿り着いたのは、ほぼ同時だった。 「僕は学年長〝代理〟だ、代理だよ!! 悪かったな!!」  廊下に突き抜ける程の怒声にハウエルもフィッツレイモンドさえも目を見張った。固まるベネットは叱られて泣き出す寸前の子供のようだった。  怒鳴った反動で荒い呼吸をするグローストンは、扉口に目が行って息が止まった。そこには光景に立ち尽くすテアがいた。  我に返った身は激情が急に引いて、足元が掬われる錯覚がした。 「(――こんな、よりによって――)」  これまでどの相手にどれほど感情が昂っても、声を荒げるのを彼の理性は許しはしなかった。それが無様に砕ける瞬間を、晒してしまった、級友たちの前で。よりにもよって不信感を向ける補助員の前で。  後悔と羞恥が襲い掛かる。滴る水の冷たさより早く指先が凍えていく。教室中の全ての視線が学年長ひとりに突き刺さっていた。 「(――見ないでくれ!)」  耐え難い不安は、行き場の無いグローストンを追い詰めた。 「修理は来月くらいだってさ」 「でも胞子ってそんなに飛ぶぅ?」  間延びした会話が廊下からした。ホウキを携える飛行服姿の生徒二人が、テアの背後を通りがかった。  それを察知した瞬間グローストンは右手を振り上げた。 「ぅわ!?」  廊下の生徒が悲鳴を上げる。その手を離れ飛んできたホウキを掴むと、グローストンは大股で窓辺に向かった。 「ロバート!」  逃走の意に気付いたフィッツレイモンドが声を上げたが、彼の突き進む先の窓が光を散らして全開になる。  グローストンは躊躇うことなく三階から跳躍した。 「――だめっそんな!!」  そう叫んだテアは〝飛び降り〟の現場に腰をぬかした。彼女の意外な大声に残された生徒達の意識が向いた隙に、ホウキ乗りはみるみる高度を上げ小さくなる。 「彼は記録保持者なのよ! 二度と降りてこな――」  窓の向こうを見たフィッツレイモンドは、しかし 「うそ、どうして」  と呟き立ち尽くした。ホウキに乗る彼の軌道がどれほど安定した優れたものであるかを、教室やクラブで互いに切磋琢磨してきた彼女は誰よりも理解していた。  それが、目で追うのがやっとの乱暴さで左右に走り斜めに降下し、かと思えば跳ねて上昇し――暴力的な軌道は操縦者を振り払った。落下していくグローストンに地面が迫り、墜落したホウキが鈍い音を立てて無惨に弾けた。  テアには、それは低い所でぷっかりと浮かぶ大きな羊のように見えた。  丸みがあってクリーム色の塊は、落下物を受け止めて拒まずに軽くたわんだ。  そのままゆったりとした速度で地面に到着すると、その中央には、仰向けの学年長の姿があった。 「あぁ……」「ロバート!」「動いてる!」「ひとから盗ったホウキで飛び出すバカいる!? あれイカれてるから修理に出すんだったのに!」  生徒達が窓辺に殺到する中で、立ち尽くすフィッツレイモンドとへたりこむテアは扉口に立つ黒い装いを見ていた。 「立てるか?」  反射で「はい」と答えたテアが、差し出された手を震えながら掴む。  落下する教え子を魔法で受け止めた教師は、次に己の弟子を引き上げると教室に靴音を響かせた。 「エヴァンズ先生、私……」  教室を横切る彼にフィッツレイモンドがいつもよりか細い声をかける。黒く凪いだ瞳が向く。 「君達はここで待機を」 「――はい」  いつもと変わらぬ悠然とした振るまいに、気を取り直したフィッツレイモンドが「みんな、そこを空けて」と呼びかけると振り返った生徒達が端に寄った。エヴァンズは立ち止まることなく開いた窓の枠に足をかけ更に宙へと踏み出した。  歩みに合わせて石板が光と共に現れては消え、三階の窓と地面を繋ぐ階段に代わった。教師が無駄のない足取りで芝を踏み学年長へ近づくのを、再び窓辺に集結した生徒達が見守る。  空飛ぶホウキと飛び降りの区別が曖昧だった生徒補助員は、衝撃の余韻で壁に掴まりやっと立っている状態だった。しかしはっとして「(わたし生徒じゃない。待機じゃない、補助員なんだから)」と気付くと、よろけた足取りで廊下に備え付けの一般的な階段へ向かった。  教師の手に支えられながら、グローストンはクリーム色の衝撃吸収材から降りて地面に足を着けた。ゆるやかな凹凸のある低反発の塊は、エヴァンズの軽い腕の振りで光と共に跡形もなく消えた。  落下事故の際の吸収材抽出はグローストン自身――またはフィッツレイモンドも、飛行教室に入った初年度から繰り返し訓練されている。それでも出来なかった。 「どうかしてました」  風でざわめいていた周囲の草木が静かになる。自分の足で立つ彼は乱れた装いもそのままにして、夢の中のような呆けた感覚の中にいた。その表情からは険しさも強張りも、落下の衝撃のついでに削げ落ちている。 「どうかしてました。本当に……」  繰り返すうちに夢から醒めた自覚を得て、同時に不甲斐なさと後悔がこみあげた。最早堪えきれぬそれは、口から溢れ出るととめどなかった。 「最後の今年こそ絶対に……一位の成績を取って本物の学年長になりたかった。オルラが学年長を辞退してから、二位の僕がずっと代理を、でも本当は一位のオルラが相応しいってみんな知ってます……僕も。だから本物になる為に、もう限界だって思うくらいまで勉強し続けて、でも、結果は……。焦ってました。オルラの顔を見るのも悔しくて。ブラアイアントさんが授業に参加するようになってからは、もっと」  宙を見てとつとつと話していたグローストンは、エヴァンズに顔を向けた。 「その……僕はブライアントさんの人体操作の腕前が、あまりにも見事で、勝ち目が無いからって、彼女に不正があるんじゃないかと疑ってたんです。エヴァンズ先生のお弟子さんなんだから、当然なのに……」 「テアの腕前が見事なのは、彼女が勤勉で、修得の為に力を注いだからだ」  生徒の懺悔に教師は凪いだ様子でいる。その無感動ぶりにグローストンは一度まばたきをした。その時ふと、低学年の頃の自分には、その真っ黒な目が角度によっては睨んでるようにも見えて怖かったのを思い出した。 「(でもこのひとはそういう先生だ。ずっと。何にでも理知的で冷たいようで、でもふいに純真すぎるくらいの事を言うからびっくりさせられる)」  そう顧みて、頷いて目を伏せた。 「……当然だったんです、僕が一位になれないのなんて」  その時校舎の方向からテアが石畳を超えてやってきた。草木のざわめきが足音を消して、教師と教え子はまだ補助員に気付いていない。  その耳にグローストンの声が届くと彼女は足を止めた。 「動作の癖が抜けないだけって言って、誤魔化しながらやってたけど、実のところは魔法を使うのに杖が手に無いのは――すごく不安で。ずっと不安でしょうがなくって。学年長が脱杖も出来ないなんて、みんな出来ることなのに、可笑しいですよね」 「金曜日は?」  突然の質問に顔を上げたグローストンは、脈絡が解らず口を「え?」の形に開けた。 「――金曜日に何が?」 「金曜日に補講を設けられる」 「補講って」 「行使動作の杖からの移行について」 「それは――今更エヴァンズ先生に教えてもらうようなことじゃ……」 「不安感で強く杖を求めるのは脱杖の過程で過誤があった際に生じる典型的な強迫衝動だ。見直して修正点を見つける。今のうちに正せば制御出来る」 「――……」  教師を見つめていたグローストンは、やがて振り絞って言葉を継いだ。 「誰にも言えなかったんです。がっかりされたくなくて。だって、こんなの。情けないじゃないですか」 「不安の中でも奮闘し続けた君は情けなくない」  エヴァンズはずっと凪いだままで、教え子は俯いたまま、一度頷いた。  強く吹いた風に二人の視線が誘われて、くすんだ紫色のエプロン姿が離れた所に佇むのに気付いた。その背後には彼女が道中手配した医務員がホウキで出動してくるのも見えて、教師とその教え子はゆっくりと歩き出した。  終業の鐘に生徒達は手際よく机上を片付けていく。荷物を抱えたテアはエヴァンズの後ろについて廊下に出た。 「ブライアントさん」  立ち止まり振り返ると、いままで共に授業に参加していたグローストンが扉口に立っている。 「少しお時間いいですか」  テアは少し迷ってから、師匠に「先に、研究室に戻ってもらっててもいいですか」と訊ねた。 「ああ」  エヴァンズがひとり離れてゆき、補助員と生徒は廊下で向き合った。テアが見上げるグローストンは真剣な顔だが、目もとにかつての険しさは無い。 「そこの君にも立ち会ってほしいから、隠れて聞かなくてもいい」  グローストンが生真面目に呼びかけると、少し間を空けて教室からフィッツレイモンドが顔を覗かせた。何やら含みのある表情をしていたが彼には無言で、補助員に向けて「迷惑ならきっぱりと断るべきです」と言った。 「あ、いえ、迷惑とかではないですので……」 「そう」  壁際に立った女王がグローストンと目を合わすことは無い。グローストンは改めてテアへ向けて口を開いた。 「先日は、本当にご迷惑をおかけしました」 「いえ、そんな。とんでもないです」  落下事故の後、人体操作特別学は自習となった。グローストンは念のため医務室に一泊したが、日頃の睡眠不足を補う熟睡をしただけで寮に戻された。  学校へことの報告をエヴァンズとする中で、テアはグローストンがホウキ乗りとしての幾つもの禁(無許可の教室からの飛行、他人のホウキの奪取、など)を破ってしまったこと、反省を促す為しばらく生徒指導室通いが義務になることを知り、彼を慮っていた。  しかし、事故から三日後のこの振替授業で再会したグローストンは、久しぶりに良く眠れた朝のような、思いのほかすっきりとした表情を見せている。 「それと、あなたに何度も不躾な質問をし――」 「土に埋めてはないんですッ」 「土に?」「埋めた?」  テアの唐突な発言を、グローストンに加えてフィッツレイモンドも怪訝な様子で繰り返した。 「ウワサなんですけど、あの、きっと皆さんが私について聞いている、それは色々と違って本当は――」 「いいえ。あなたに答えさせたいんじゃありません。そうではないんです」  今こそちゃんと否定しなければと沸き立った補助員にも、グローストンは生真面目に応じた。 「そもそも有象無象のウワサごとき、真に受けてる方が浅はかで救いようが無いわ」  そう牽制する女王は学年長ではなく明後日の方向を見て他人ぶっている。 「……。あなたはやっぱり不思議なひとだと今でも思っています。ブライアントさん」 「はい……」 「でも僕ら――僕にとって、エヴァンズ先生は尊敬できる、信頼できる先生です。あなたはその弟子。今はそれで充分ですし、これから授業であなたと接する中で知っていく事以上に、僕が知るべき事はひとつも無い……すみませんでした」  実直で、それは彼の心からの謝罪だと解った。どうすれば受け止めきれるのかわからなかったが、テアはかろうじて「はい」とだけ答えた。 「それと、オルラ。何年も不愉快な態度を取ってすまなかった」  珍しく呼ばれた名前に、女王はつい視線を授けてしまった。 「でもやっぱり、僕は君に勝って卒業するのをあきらめたくない。学年長として本物か代理かじゃない。君の同級で……不足無き『ライバル』でいるのは僕の誇りだから。最後まで戦いぬいてみせる。正々堂々と」  グローストンの正直さに、テアは胸の内をざわめかせてフィッツレイモンドを窺った。 「――そう。光栄だわ」  怒りも、取り繕った冷淡さもそこには無く、静かな肯定があった。 「私も、あなたに突然魔法を浴びせたこと、謝罪します」 「いや、いいんだ。僕が悪かったから……」 「あなたから教わったことがあるの。私」 「君が、僕からだって? 冗談だろ」  グローストンに僅かな笑顔が滲む。  テアは二人に修復の兆しを感じて、胸のざわめきが止んだ。 「本当よ」  フィッツレイモンドの強いまなざしが学年長を見上げる。 「私は『ライバル』とか、他の誰かと競う為に勉強していないから。そういう視線は新鮮で勉強になります、ロバート・アレクサンダー・グローストンさん。他人に勝つだの負けるだのそんなのに拘ってるから人間が小さいのよあなたは」  不穏を察知してテアは目を左右に疾走させた。穏やかな女王の声音は徐々に剣幕が加わって、グローストンの表情から笑顔が失われる。 「小さすぎてその『ライバル』? とかおっしゃる存在? 目にちっとも入らなくて今まで微塵も気付きませんでしたわ、ロバート・アレクサンダー・グローストンさん。あなたのその肥大した自意識は一体どちらから? 何様でいらっしゃるのかしら? 今だってご師弟の貴重な時間をあなたの自己満足の決意表明で一分は浪費してるわ。エヴァンズ先生の貴重なお時間を何だと思ってるの? 前回の授業不履行だって通常であれば断じて許されないけれど、それは特別の別としてもそれだけでは飽き足らずエヴァンズ先生に補講をしていただいたらしいわね、特別の個別の! 私と同じいち生徒の分際で悠々としたご身分だけれど、エヴァンズ先生の深い思いやりあってのことですから仕方がないわねでも私だって質問はいつも時間内に収まるようにもっと訊きたくても気を付けていつもしてるのに、ハァ? 分からなくなってきた。ほら、またこの瞬間もあなたの為に浪費されてくのよ一秒、二秒! 三秒が!」 「ゴメンナサイッ」 「ブライアントさんに言ってるんじゃないんですけど」  テアは両手で口を塞いだ。大輪の華のような特別な佇まいの人の激怒は恐ろしさも特別になるのを知った。グローストンは複雑な表情で「ごめんなさい」と小さく言った。  教師への敬愛を錯綜させ、女王が見下すように宣う。 「あなたはこれまでもこれからだって私の視界には入らない。だから、うっかりその足を踏みつけてしまってもご容赦を――と言うか、踏み潰して跡形も残らないから卒業の日を恐れて待ちわびるがいいわ」  学年長と補助員は言葉も無かった。 「済んだのなら解散なさいよ、いま・すぐ」 「ハイッ」「はい」 「だからブライアントさんには言ってないわ」  すぐさま場が解散となると、テアは研究室に直行した。師匠の貴重なお時間を頂戴しながら懸命に報告書に取り組んだ。  取り組みの最中で、ペン先をカリカリと鳴らせていたその手が止まった。 「――……」  反芻して迷い、正面の師匠を何度か上目で窺ってから、決心して顔を上げた。 「あの、この綴りの最後は、oで合ってますか?」 「eだ」  師匠は相変わらず悠然としていた。弟子は小さな声で「ありがとうございます……」と述べる。  残念ながら不正解でやはり顔は赤くなってしまう。それでも情けなさを悔いて立ち止まってしまうようなことは無い。  忘れぬ為刻み込むようにペン先が走り、奮闘の跡を描いていった。  その夜、テアは夢を見た。  いつものくすんだ紫色のエプロン姿なのに、なぜか頭は寝起きのぼさぼさのままでいた。座り込んで真夜中の星空を見上げていた。  ところがその星空は大きな大きなマグパイのデネブだったので、羽ばたきのたびに星が遠ざかっていく。やがて全てが去ってしまうと、シェパーズパイの丘の向こうに、クリーム色の塊がぷっかりと浮かんでいるのが見えた。  テアは立ち上がった。塊は何百フィートも遠くに見えたのに踏み出したらたった一歩で辿り着けた。  それは初めて見た時よりも小さくて、丁度春頃の羊くらいの大きさだった。 「触ってもいい?」  テアが問いかけると顔も無いのに塊が 「メェ」  と鳴いた。  心躍った彼女は、だけれどとても慎重に、その表面に手を触れた。 「ああ、やっぱり」  微笑んだ瞳に真夜中の星が光る。 「きっとおまえはとてもふかふかの、とてもやさしい羊だと思ってたの」 「メェ」と顔の無い羊が返事をするので、テアはそのぬくもりに寄り掛かった。安心して目を閉じる。羊の鼓動が聞こえる。それは機関車の音だ。きっと行く先はロンドンよりもっと遠い、誰も知らない所、美しい場所。  やさしさにぬくぬくと包まれて運ばれていくテアを、脅かすものは何も無い。  羊がもう一度鳴いた。そこは目覚めれば全て忘れてしまう夢の底だった。  紫色のエプロンから滑り落ちた銀の懐中時計が、二度と手の届かぬ深みへ消え去っていったのを、誰も覚えていはいない。 f40f7f04-0603-47d3-bf16-b12f6cd26ea5
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