第1話 解雇の予見

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第1話 解雇の予見

   学校が苦痛だった  みんなとは違うから居場所がない  違うからみんなには馴染めない  教室のざわめきは心細くて  笑い声に不安になって  視線の先を恐れていた  いつも逃げ出したい気持ちでいたけれど  どこに逃げればいいのかも知らなかったから  こんな所 無くなればいいんだ って  青いケープの一団が校舎から出てきた。  屋外は夏らしい爽やかな風が吹いて、この日のめでたさに似合う晴天だった。古びた石造りの校舎との対比が、空の青を一層鮮やかにしている。  三十人ほどの卒業生全員が校舎前に出揃うと、次いで出てきた保護者や教職員がその周囲に並んだ。 「卒業、おめでとう!」  一人の声を合図に歓声が上がった。同時に卒業生達が、先端にタッセルの付いた小ぶりな三角帽を一斉に頭上へ投げる。  束の間宙を飛び地面へ吸い込まれるはずだったそれらは、だが落ちてくることは無い。  舞い上がった三角帽は光を散らすと、各々が鳥の形へ姿を変え更に高度を上げた。白い翼のはためきに陽光がきらきらと反射するのは、真昼の星の群れのようであった。  笑顔で見上げる者、級友と抱き合う者、拍手の中を解放感に駆けだす者。黄道十二宮会第七領リーブラ魔法学校の最高学年、その卒業者全員を言祝いで、魔法仕掛けの鳥達は天高く羽ばたいていった。 「はい、回収」  施設管理室長のスミスが淡白に言った。  感慨深く空を見上げていた者達もその関心が周囲との歓談に移った頃。白い鳥は時間経過で魔法が解けた順に帽子へ姿を戻し、ぱらぱらと降ってきた。  一団から離れた校舎脇に整列していた管理員達が動き出し回収に向かう。くすんだ紫色のエプロンを着ける彼らは、関係者のみで厳かに執り行われる式には参加せず屋外で出番を待っていた。  管理員達は屋根にひっかかった物や落下途中の物を魔法でうまく誘導していた。その中で、たったひとりの〝補助員〟が地面に落下済みの物を拾っていた。彼女の抱える籠へ、周囲の保護者や生徒が拾った帽子を入れていく。 「あ、すみません、ありがとうございます。すみません、はい、こちらに」  受け取るうち人混みに近付いていった彼女の、金縁の眼鏡越しの視界に、一際目立つ姿が映った。ケープの青い波とは異質の濃紺色の艶やかなガウンだ。  金糸銀糸の刺繍が施されたそれをただ一人纏うのが許された主席の卒業生が、目的の後輩に近付き声をかける。 「オルラ、来年はあなたがこのガウンの主になるのを確信してるわよ。頑張って」 「光栄です。きっとご期待に応えますわ。ご卒業おめでとうございます」  主席卒業生の激励に、在校生代表の一人として式に参加していたオルラ・フローラ・フィッツレイモンドが微笑みを返した。  離れた所から眺めるそのやりとりも、先程からの華々しい学校の空気の全ても、縁遠い異世界に紛れてしまった心地に施設管理補助員は恐縮していた。仕事なので仕方が無いが、あまりざわめきの中心へ近寄るのはためらわれた。 「いっ」  突然頭部に衝撃が走った。誰かに叩かれでもしたのかと身を固くしてから恐々と辺りを窺って、背後の地面に三角帽が落ちているのに気付いた。  これが自分の頭に当たったのだ、と察すると同時に、妙な振る舞いをしたのを恥じた。近くにいた数人から不審な目を向けられている。  ずり落ちた眼鏡もそのままに回収しようとした時だった。  三角帽がふわりと浮いた。  宙を滑って自ら補助員の籠に収まったように見えるそれは、しかしひとりでに動いたのでは無い。第五番純素ルブの副反応である光が散ったのこそその証左で、かがもうとしていた補助員の視界の上部には、魔法行使のため軽く振られた手が映っていた。 「あ……」 顔を上げたテアの正面に佇む男性は、極まった感情がそこかしこで溢れるこの場においても凪いで、相手の様子に構わず落ち着いた様子で、それは彼女には校内で最も親しみのあるものだった。  二人の右耳と左耳には、同じ金の耳輪が控えめに光っている。  それは二人が師弟であるという証だった。  教師としてそれまで式典に参加していた師匠と、施設管理補助員の弟子はここで小さな再会を果たした。 「ありがとうございます、エヴァンズ先生」 「ああ」  籠を抱えなおすテアに、エヴァンズが悠然と答えた。 「誰だ鳥に紛れてドラゴン飛ばしてるの」 「火を噴くな火を!」  管理員達の悲嘆をよそに、師弟のはるか上空では卒業生が最後のいたずらに行使した小さな白い竜の義体が、夏の雲と伸びやかに遊んでいた。  夏休みに入ると寮暮らしの生徒達が帰省し始め、例年通り校内のひと気は少なくなっていった。  テア・ウィーオリヴァー・ブライアントにとっては、リーブラで過ごす初めての夏だった。  施設管理の業務も人数を減らした交代制となり、テアの出勤は週に数日程度で、エヴァンズも補講業務が一段落すると師弟の登校日はめっきり減った。  空いた時間の多くは、エヴァンズ邸での修行に取って代わっていた。 「親指、人差し指……」  居間で着席し師匠を待つ間、熱心に自主鍛錬を行う弟子は自身の左手に杖を向けていた。  握りこぶしに光が散ると、指が一本ずつ開いていく。それは彼女の魔法による動きだった。  自身に行使されていた記憶改変が解けて以降、テアは師匠のもとで他の基礎魔法と並行し人体操作系統の習得にも励んでいた。 「小指――小指」  左手の小指はとっくに外側へ伸びきっていたが、気になるところがあるテアは魔法を行使し続けていた。 「――……ッ」  杖の先を逸らし、やっと魔法を中断すると手や表情から力が抜けた。卓上に杖を置き、痛んだ小指をなでる。  その時靴音が聞こえて、はっとしたテアは姿勢を正した。  居間に入ってきたエヴァンズが着席して、師弟の修行が開始した。 「――他に、質問は?」  講義が進みしばらくして、挟まれた問いにテアは本から顔を上げた。 「はい。えっと、身体の操作について、少し、いいでしょうか……」 「ああ」 「もしかしてなんですが、他人の身体を操作しようとした時に、なんというか……」  テアは表現を探して少し口ごもった。 「そのひとに、ひどく痛い思いをさせるようなことがあるんでしょうか。例えば怪我――骨を折ったり? とか……」 「稼働範囲を得たうえで、やろうと思えば出来る」  それはある程度予測していた答えで、テアは納得したがその加虐性に少し緊張もした。 「折ってみるか?」 「お? おお折ってみません」  そもそも誰のを? 私? と青ざめて首を振る弟子に、冗談だと笑って応えるような師匠ではなかった。彼はただ無感動に「そうか」と答え、続ける。 「本日からは、実際に君から私へ操作を行使してもらう。まず――」 「(え、この流れで……?)」  ただでさえ緊張する魔法を更に師匠相手に行使しなくてはならない戸惑いに構わずエヴァンズは修業を続けるので、いくら熱心な弟子であるとはいえテアは――おそらく彼女の生涯で最も――恐る恐るといった手つきで、杖を振るうこととなった。 「エヴァンズ様、お届け物です」  丁度修行がひと段落した頃、白いエプロン姿の使用人が居間に入ってきた。  中央の卓に彼女が抱えてきた届け物が置かれる。それはリーブラの上空を飛行してきて、エヴァンズ邸の玄関脇に着陸したものだった。  玄関扉の脇には手に収まる大きさの金属板が掛けられており、そこには家主の頭文字と、文字にも模様にも見える独特の線が刻まれている。  この家の使用人は魔法が全く使えない中年女性であるが、「手紙や荷物はこの魔法製の金属板を目指して飛行してくる」という旨を魔法使いである主人から聞いているので、彼女――メイジーにとっては慣れた仕組みである。 「マーティン様からのようです」 「ありがとう」  互いに淡々としている主人と使用人の横で、テアはぎょっとした。それは箱の表面に刻まれた差出人の名のせいではなかった。エヴァンズの兄弟弟子、ウィリアム・ウィーレベッカ・マーティンからの届け物はこれが初めてではない。  以前テアは彼と文章のやりとりが出来る『転字帳』を所持していたが、師匠達に内緒でやりとりをしていた後ろめたさもあって、自分には手に余る物だと返却済だった。ウィリアムも彼女の意を汲んですんなりと受け取った。  代わりの清廉潔白な連絡手段として、テアの師匠であるエヴァンズを間に挟んでの手紙のやりとりが取って代わっていた。ウィリアムはテアへの文を兄弟弟子宛てに送り、テアはその返信を師匠に託して送ってもらう。そのやりとり自体は既に特殊なことではない。  だが、今回ばかりは様子が違っていた。  卓上に置かれたそれはあきらかに〝手紙〟ではなく、しかも二つあった。  一つは人の頭が入るくらいの正方形に近い箱型で、もう一つは厚みはさほど無いが両手で抱えるほどの幅がある箱型だった。手紙と同じく雨風から守るため大理石に似た白地の固い外殻をしているが、それが更に存在感を拡張させている。  荷物に向けてエヴァンズが軽く右手を振った。途端光の粒と共に外殻がたち消えるとそれぞれが紙製の色箱に代わった。上にカードが添えられている。  テアは数枚のカード内のひとつを横から覗いた。紙面にはエヴァンズ邸の玄関口に掲げられている金属板と同じ文字や図が記されている。 「飛行魔法だけでは物を遠距離の目的地まで届けることは出来ない。目的地点となる座標板の設置、そしてそれを模したカードの同包が移送魔法を可能にしている」と、まだ習得は出来ていないがそう師匠に教わっているのをテアは頭の中で復習していた。そもそもまだ物体抽出が未熟で座標板もカードも持てないのも彼女が文通に師匠を介している理由のひとつでもあった。 「この二つの箱は、君へ」  メッセージカードを確認したエヴァンズが、テアに顔を向けた。 「えっ私?」 「ここで開けてみては?」  メイジーが間髪入れず口をはさんだ。テアはそれに少々面食らったが曖昧に「はい」と返事をし、箱と特に情報を得られない師匠の無表情とを交互に窺ってから、少し悩んで、人の頭は入っていなさそうな平たい方の上蓋を、恐る恐る取った。 「――――……服?」  畳まれた女性用のドレスは上品なラベンダー色で、襟や前身頃をベルベットの光沢とレースが飾っている。同じ色合いの細身の手袋も添えられていた。 「もう一つは?」  使用人に急かされてもう一つの箱も開けると、中にはレースの盛られたつば付きの帽子が収まっていた。  色合いや素材で統一感を醸し出すそれらは、あまり装いに明るくないテアでも平服ではないのが推測できた。添えられていた手紙に急いで目を通す。 「マーティン様はなんと?」 「――『少し早いですが、誕生日の贈り物です』って……」  そう言われれば自分の誕生日が近かったと思い当たったテアだが、それより贈り物の上等さに戸惑い動揺していた。 「それは、普通の服でございますか? 確認が必要では? 何か仕込まれてるかもしれません」 「(仕込まれる? まち針とか?)」  テアはその昔同居していたパン屋の娘にされた嫌がらせが頭によぎった。 「また魔法で働くような、なんやかんやが……念のため、ですが。エヴァンズ様、ご確認なさるべきです」  主人の前で懐疑心を隠そうともしない使用人にテアははらはらした。メイジーがいまだに一連の騒動からくるウィリアムへの不信感を拭えないでいるのは知っているが、エヴァンズからすれば彼はたった一人のかけがえの無い兄弟弟子である。 「そうか」  しかし悠然としている主人は使用人の申し入れに応じた。 「(確認するんだ……)」  かばってもらえないウィリアムを思うと申し訳ない気持ちがしたが、テアは慎重に中身を取り出し、師匠の痕跡解明を手伝って長い裾の端を確認した。 「特殊な魔法の痕跡は無い」 「はい、普通のものだと思います。とてもきれいなだけの……」 「さようでございましたか。ところであの方は何故ブライアント様の誕生日などご存知で? エヴァンズ様がお伝えに?」 「あ。あの、前になにかで訊かれて話したような、私が」  抜け目無い男だ、と使用人が警戒心を深める一方でテアは困惑していた。 「でも、どうしてこんなに、こんなにすごい物、誕生日に……」 「――誕生日〝だから〟なのではないですか?」 「……?」 「?」  二人は互いに不可解、という顔のまま見つめ合ってしまった。  理解の進まないらしい相手にメイジーは何か言いかけたが、軽く息を吐いてから改めて口を開いた。 「確かに、お品は疑いようなく良い物です。上等な仕立てで品もある。何はともあれ、ブライアント様も良いお歳の頃ですしひと揃いは持っていて損はないかと思います」 「でも、いいんでしょうかこんな服、私には……」 「結構ではありませんか祝いの品なのですから。ちなみに、当日のご予定は?」 「何の?」 「ブライアント様のお誕生日です」 「特に……いつも通りだと」 「でしたら当日の祝いはこちらで承ります。構いませんねエヴァンズ様。お仕事はほどほどにしてご帰宅くださいませ」 「わかった」  きびきびとした使用人と無感動の主人の間で話が済んでしまい、テアは二人の顔を交互に見るばかりだったが――ふと思い出したことがあった。  ベイカー家に居た頃は、実子達のものも含めてさほど大切な日扱いではなかったが、そういえば自分の生家でのその行事は違った気がした。母がその日だけのご馳走を作ってくれるのが、父がくれるささやかな贈り物が、幼い自分には嬉しくて特別だった。そのあまりにおぼろ気でまばゆい記憶がよぎった。  ――幸福の影の濃さに、テアは急に色んなものが寂しくなった心地がした。 「お好みのお料理などはございますか?」  はっと我に返ってメイジーを見る。 「気に入ったものがあれば当日お出ししますので、なんなりとお申し付けください」 「あ、はい。でも、メイジーさんのお料理ならなんでも美味しいから、なんでも……」 「まあ」  メイジーは冷淡にテアとエヴァンズをそれぞれ見遣った。 「さすがご師弟でございます。言動も受け継がれていらっしゃる」 「アッッ、いえその、えーと」  エヴァンズの「なんでもいい」「好きにしていい」を聞き飽きている彼女を慮ってテアは慌てた。 「考えます。ちゃんと考えさせてもらいますので」  ただし、今も他人事のように佇んでいるだけの主人ならば口にしない「美味しい」という言葉を聞けたので、使用人は口ぶりよりまんざらでもないのだった。  夏の昼間でもやや薄暗い事務室で、中央に並ぶ机に管理員達が、窓際の机に室長がそれぞれ着席している。  その日は夏季休暇の間たまにある施設管理室全員の出勤日だった。 「九月からはエリース研究所に勤めます。ありがとうございました」  ひとり壁を背に立って退職の挨拶を述べた管理員に、周囲の者達が着席したままぱらぱらと拍手をした。テアもそれに倣って手を鳴らす。  送られる職員だけが馴染みのエプロンをしていなかった。彼は一通り挨拶を終えると室長の元へ行き個人的な礼を述べた。その際時折笑顔を見せる彼は、テアから見ると何かから解放されたように身軽で、どこか誇らし気でもあるようだった。  テアがこのような場に立ち会うのは初めてではなく、補助員になってから一年経たない間に既に数人の同僚を見送っていた。皆、黄道十二宮会の他の施設への転職が理由だった。  家族経営の職場にいた彼女にとっては、同僚がころころと変わっていく状況はなんとも不思議に思えていた。 「ブライアントさんは、次の試験はいつ?」  校舎脇の日当たりの良い一角で、草むしりをするテアがエプロンで手を拭った時だった。突然降ってきた声にかがんでいた彼女は顔を跳ね上げた。  一階の窓枠にもたれかかって校舎内から顔を覗かせていたのは、施設管理室の同僚だった。  テアと年齢の近い彼は、補助員より一つ上の管理員職として入ってきて間もない新人だ。 「――試験?」 「階級試験。いつ受けるつもりなの?」 「あ、特に、まだ予定は……」 「そう。いま階級何番?」 「……?」 「無いわけじゃあないでしょ?」  要領を得ない相手に新人職員は不思議な顔をしているので、テアは記憶を浚った。 「あ」  ――それは師匠と行った師弟申請。その前日にエヴァンズから「師弟申請が受理されれば、魔法の技と知識の習得段階を示す階級のうち、二番が君に付与される」と説明を受けた。  確かに、訪れたトーラス事務局ロンドン支部の窓口で「師匠側が階級五番以上をお持ちですので、無試験で弟子側に二番を付与できます。よろしいですか?」「はい」という事務員と師匠の会話を聞いた。  ――それを思い返してから 「二番です」  と答えた。  そんな彼女に、新人の同僚は大げさなほど目を丸くしてみせてから、調子を落として「ふぅん」と言った。 「僕は次に五番を受験する。天文台に勤めたいんだ。昔、父の友人が所属していてよく話を聞いてたんだけど素晴らしい職務で、僕もつい憧れて――」 「はあ」  流暢に話し始めた彼にテアは呆けた返事をした。先ほどから彼の見下ろす視線が、言外に何かを表しているようで気になっていた。 「君は、昇級してどこに就くつもり?」 「えっと――たぶん、先生の助手職……とか」 「また学校に? 好きなんだね。もしかしてリーブラの学生だった?」 「いいえ」 「じゃあ何で?」 「……えっと……」  何でだっけ? と思い返す彼女を待たずに管理員は軽い調子で笑った。 「まあ、学校って良いよね、僕も好きさ。子供相手で気楽だ」  理解出来ず相槌をし損ねたテアに構わず相手は続ける。 「ここの施設管理室は本当に最適だよ、受験勉強しながらの腰掛に。給料は頼りないけど十二宮会所属の判は押してもらえるし、皆がそうしてきたのも道理だ」 「――みんなって?」 「管理室の皆そうだよ、当たり前だろ? ああ、室長とかいい年の人以外はね。一日でも早く階級を上げて、晴れてこの素敵な色のエプロンを脱皮して、理想の場所に辿り着けるようみんな陰で努力してる。管理室は腰掛室なんて、有名な話だけど?」  初耳のテアは目をしばたたかせた。  しかし、この一年の内に何人もの(ミラーは別として)入れ替わりがあったのは少し不思議に思っていたし、勤務の片手間に本で勉強をする管理員の姿も確かに見ていた。  何より思えば、自分も仕事よりエヴァンズとの修行を優先してもらっている身であった。 「妥協した労働で終わるなんて悲劇にも足りない。理想が叶ってこそ人生の意義がある。だろ? 僕は世の理を明らかにする天文台の職員に、君は――まあ、君には難しい話かもしれないけど。まだ二番だものね」  管理員はよく回る口の一方で窓拭きのそぶりすら見せない。草をむしりながら話を聞いていたテアは、退職する管理員が見せたどこか誇らし気な顔を思い出していた。 「まあ、君も頑張りなよ」  見下ろす若い管理員は、もたれかかっていた窓枠から体を離すと去っていった。  そんな彼が、事務室を出て担当場所へ向かおうとしていたテアを呼び止めたのは、雲の湧いた特に暑い日の午前のことだった。 「相談があって」  何事かと目を丸くするテアに、後ろ手に扉を閉めながら彼は続けた。廊下には二人だけだった。 「今日の実習棟の正面側の窓掃除、僕の代わりにやってもらえない? ちょっと手一杯で困ってるんだ」 「今日……午後になっても、大丈夫ですか?」 「ありがとう! 中は立ち入り出来ないらしいから外から頼むよ。なるべく早い時間でよろしく」  簡易すぎる引継ぎをまくしたてながら新人は遠ざかっていった。それを為すすべなく見送ったテアは、ぽかんと開けた口を閉じてから清掃業務に向かった。  いつものように黙々と清掃をこなし、途中でエヴァンズの研究室での修行を挟んでから、太陽が高い位置にある時間帯に実習等へ赴いた。  石積みの壁に等間隔で並ぶ背の高い窓を見上げると、テアは動きを止めて少し考えた。  この間の夕立のせいかガラスには曇りがある。四階建てのそれを全て磨くには、建物の内側から身を乗り出すか、あるいは立ち入り禁止となれば外壁にロープで体を吊るすなりしなければならない。  しかし、彼女は違った。何故ならテア・ウィーオリヴァー・ブライアントは弟子の身分とはいえ、魔法使いだからだ。 「水と風よ、窓を拭え」  ガラスを滑るように覆った水は途端に薙ぎ払われ、細かな飛沫となって散る。手近な窓で確認をしたテアは、次の窓に向けて手の杖を向けた。  魔法が行使される毎に窓は透き通って輝いた。飛沫の中に虹が短く覗く。水が自身へも多少降ってきたが、夏の日差しの下では却って清々しい。  集中して行使するうちテアは興が乗ってきた。本来なら手の届かない高さの二階へそして三階へも小気味よく魔法が繰り返されていく。  ――ガーディリッジ校長が生徒の保護者と連れ立ち校内を歩いていたのは、その少し前のことだった。  彼らのいる石造りの廊下は、屋外よりもひんやりとした空気が満ちて涼しい。 「去年は飛行教室の備品を新たに揃えさせていただきました。おかげさまで生徒達も益々練習に身が入ったようで、多くの者が素晴らしい記録を」 「それは良かった」  校長に案内される身なりの上品な夫婦は、生徒の両親であり、学校の寄付者でもあった。夏の住まいの移動のついでに見学へ訪れる彼らをもてなすのも、学校長の重要な仕事であった。 「こちらは実習室です」  賓客に向けて凛々しい顔を作っている校長は、廊下の扉のひとつを開けた。 「標本の中には特に珍しいものもありますのでよろしければご覧に。ああ、ついでに、ここから見える校舎と庭はなかなかに美しい」  扉口に客を残し先んじて窓辺に赴く。 「こちらから眺望を是非――」  窓を押し開いた彼を出し抜けの水圧がひっぱたいた。  潰れた蛙のような声が突如校長から鳴って、背後の寄付者夫婦は硬直した。  目が合った。  三階の窓辺に立つ乱れ髪のガーディリッジと、紫のエプロンをした地上の補助員――テアは、互いにこれでもかというほどの丸々とした目で互いを認知した。  テアは開けた口を両手で覆って立ち尽くしていた。立ち入り禁止のはずの場所から人が覗くことを予測していなかった、よりにもよってそれが校長だとは。失態を悟った瞬間、戦慄のあまり体が震えて四散した気がした。  あ と で 。  次の瞬間には謝罪を叫びかけていた補助員を、学校の長は口の動きだけで制した。  爛々とした目に射抜かれ蛇に睨まれたように硬直するテアだけが残されて、窓は静かに閉まった。  小さな手の振りで魔法を行使し、水気を飛ばし髪を整えたガーディリッジが客へ振り向く。 「――近頃は、急な雨が多いですな。涼やかでよろしいですが」  夕方、諸々を終えたガーディリッジは早速言伝鳥を飛ばして補助員を校長室へ呼び出した。 「しかし何なんですかなあの新人の彼は」  重みのあるカーテンが飾る窓を背に、立派な書斎机に着席する校長はそう呟き顔を顰めていた。額に遣る手は水圧にはたかれた部分をさすっている。  机を挟んで相対するテアは、既に尽き果てそうなほど謝罪の言葉を繰り返し縮こまれ得る限りの縮こまりぶりで着席していた。 「スミス室長が探しに行ったら中庭で優雅に読書中だったそうです。隙間時間に階級試験の勉強をしていたと――全く呆れる! 確かに施設管理室が副職的環境なのは周知とはいえ、仕事は仕事です。管理室にはこの私から直接、昼過ぎに〝客が来る〟から立ち入らず、窓掃除は〝朝の〟なるべく早い時間に終わらせるようにと注文しておいたんですよ」 『管理室は腰掛室』という言葉をテアは思い返すと同時に、それを自分が知らなかっただけの事実だと理解した。  また、同僚からの矢継ぎ早な引継ぎを幾度も振り返ったが肝心な部分を聞いた覚えがない。それに彼は「手一杯だから」業務を分けてきたはずではなかったか。頭の中が渦巻いて混乱していた。 「どうやらあの彼は素晴らしい耳をお持ちのようですな。肝心なところに限って聞こえなくなる特殊機能が付いている。そもそもブライアントさんが階級二番の補助員であろうとも、『誰の弟子』かしっかりと聞いて頭に叩き込んでいれば、あなたへ面倒を押し付けるなんてしなかったはずです。嘆かわしい」 「申し訳ありませんでした。すみませんでした。私が勝手に、室長に確認もせず」 「それはそうですが、いいえ。問題はそこではなく――」  ガーディリッジの迫力のある目がぎょろりとテアを見た。 「なめられてるんですよ、あなた」  テアは目を点にした。言葉を知らないかのように僅かに首が傾いている。 「腹が立ったりしないんですか?」 「はい、す、すみません」  要領を得ない謝罪に、校長は深々と溜息を吐いた。 「エヴァンズ先生が師匠に付いていると、あなたが着任したばかりの頃なら誰でも知っていましたが、時間が経って人の入れ替えがあれば印象も弱くなる。まずい。まずいですよこれは。弟子であるあなたが管理員の下っ端に見下されているようでは、師匠のエヴァンズ先生の名誉にも関わる。つまり彼を教員とする我が校の権威にも関わりかねない……」  校長は深刻な表情をして、机上に置いた手を組んだ。 「やはりこれしか手はないのでしょう……」  校長室の戸を叩く音が響いた。 「来ましたね――どうぞ」 「失礼します」  焦るそぶりも無く入室してきたのはエヴァンズだった。振り返って見たテアはぎょっとして、直後青ざめた。わざわざ師匠も同席させて何が起きようとしているのか。 「丁度ブライアントさんにも大方話し終わったところです。一緒に聞いてください」 「はい」  絨毯の敷かれた床にくぐもった靴音が鳴って、テアの横にエヴァンズが並ぶ。 「彼女の階級の問題で、エヴァンズ先生の助手職を目指しながら施設管理補助員として働く形をとっていましたが、やはりそれでは色々と問題がある」  校長が何を言わんとしているのか、必死に推理していたテアはある事に思い当たった。 「(――まさか、クビ?)」  これ以上同じ場に居て師匠の名誉を傷つけない為には、出来損ないの弟子を追い出すしかない。 「前々から考えていたことではありますが、この際、ブライアントさんには――」 「(やっぱりクビだ!)」  テアの脳内ではこれまでの学校での思い出が走馬灯の如く駆け巡っていた。血の気が引いていく。その目には、髭の口元がやけにゆっくりと動いて映っていた。  ガーディリッジが告げる。 「――人体操作特別学の、生徒補助員を兼任してもらいます」  解雇通告の衝撃に備えていた弟子が疑問を浮かべるより早く、師匠が冷静に問いかけた。 「生徒補助員とは、何ですか」 「新設の職種です、私が発案の。読んで字の如く『生徒』を『補助』するのみの職務です。彼女は現在、階級二番。言うなれば低学年と同じ段階ですから、教員助手は不可です。少なくとも階級試験を受験し四番以上を取得せねばなりません。なのでそれまでの繋ぎとして、教員業務の手伝いではなくあくまで〝生徒〟の学習の手伝いとして教室に参加するのです。助手就任への布石にもなるし、師匠の授業を間近で見るのも良い修行になるのでは? 何より、エヴァンズ先生との師弟関係を周囲が認知することで、ブライアントさんの弟子としての自覚も育つことでしょう。ふ。我ながら全ての諸問題を解決するなかなかの名案」  テアは助手と補助の違いがうまく呑み込めないでいた。  それは教員助手職ではないという建前のもとテアをエヴァンズに同行させる為の屁理屈に違いなかったが、発案者は満足気で振舞いに後ろめたさは無い。 「担当は来年度の最高学年の人体操作学特別教室。人数は五人ですね。奇数だと実習が不便ですから彼女が入れば役に立ちます。教室以外の時間はこれまで通り修行と施設管理職を続けて構いません。いかがです。エヴァンズ先生には――担当教員として師匠として、彼女の管理監督をお願いしたい」 「はい」 「着任に際しては、補助員とは言え彼女にも評価制度を適応します。報告書の作成もみてあげること」 「分かりました」 「まあ無いとは思いますが、評価が最低になるようなら生徒補助員職については解任となってしまいます。許可無き魔法行使は控えるなど、くれぐれも生徒補助員としてわきまえた振舞いを心掛けるように――」  エヴァンズは一向に動揺せず悠然としていた。テアは狂った風見鶏のようにして師匠と校長を見た。  ガーディリッジ校長が、満を持してテアへ顔を向ける。 「よろしいですね。ブライアントさん?」  玄関の方で慌ただしく扉が鳴ったのに気付いて、メイジーは台所を出た。いつもの通り白のエプロン姿に伸びた背筋で二人を出迎える。 「お帰りなさいませ」  冷淡さを崩さぬ彼女の一方で、主人と共に帰宅した弟子は速足で乱れた呼吸のまま口を開いた。 「メイジーさんっごめんなさいっ! 遅くなって……」  テアの誕生日当日の今朝、使用人は「誕生日のお食事の準備をしておくので、本日のお仕事はなるべくほどほどにして、定時に帰ってこられますように」と二人に念を押していた。  テアがそれを思い出したのは、生徒補助員の話をなし崩しに引き受け校長室を出た後だった。  思いがけぬ出来事によって帰宅時間は予定外に過ぎてしまっていた。今日一番に青冷めきって、テアは師匠を伴って小走りで帰宅した。  息をつく間も無く問題が起き続け今日だけで謝罪の言葉を何度口にしたか最早分からない。羞恥や不甲斐無さでいっぱいで、散々な思いでいた。 「こちらは支障ございません。エヴァンズ様のお仕事で、何か問題でも?」 「いや。テアの生徒補助員就任の件で話をしていた」 「――――ご出世、なされたんですか?」  テアへ向いたメイジーの顔に感情が滲んだ。 「しゅっせ?」  テアは呆けて繰り返した。その解釈は予想外すぎた。 「では多分なくて、あの、エヴァンズ先生の助手になったとかいうわけではなくて、生徒さんの授業のお手伝いをする、ような……」 「? 違いがよく解りません」 「わ、私もよくは……?」  首を捻るテアに、メイジーは切り替えるように口を継いだ。 「ともかく、問題が起きたのでないなら結構です。真におめでたい日はおめでたい事を呼ぶものございます」  おめでたいだろうか? とテアは内心で更に首を捻った。今日の出来事を振り返れば問題しか無かった。良いとはとても言えないが、何故か誇らし気でいるメイジーを前に否定も出来なかった。 「さあ、こんな所ではいつまでもお祝いの言葉も述べられませんので、夕食にいたしましょう」 「あ、あの手伝います!」 「主役が手伝いなんてしてどうなさるんですか。百歩譲ったとしてエヴァンズ様でしょうに」 「そうか」 「そうなわけがございません主は台所にお入りにならないでください」  三人分の足音が鳴る。こんなに散々で混沌として前途多難な誕生日は初めてで、待ち遠しさや喜びはテアの頭の片隅にすら無い。  しかし少なくとも、彼女を寂しくはさせなかった。
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