《1》

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《1》

 今思えば、若い頃には不思議なことが幾つもあった。  例えば、根拠のない自信。例えば、どうでもいい内容で腹を抱えて笑う余裕。常に腹を空かせ、味覚も未発達で、大した味でもないのに極上の味に感じることも多かった。  非常に移り気で、すれ違う女がみんないい女に見えた。人に自慢できるほどの努力もしていないくせに、未来はきっと金持ちで、何でも欲しいものを買え、あくせくせずとも暮らしていける気になっていた。  俺は学生時代、音楽に没頭していた。やはり根拠なくプロになれると信じていたし、ソロで食っていける腕があると思い込んでいた。  就職氷河期世代と言われていたが、そんな実感はなかった。芸術に氷河期なんて関係ない。本物はどんな時代であっても認められるものだと(たか)(くく)っていた。  初めて現実に打ちのめされたのは、借金で首が回らなくなったときだった。返済に追われ、食うものも食えない。ギターの弦を爪弾く時間があるなら、少しでも金を稼がないといけなかった。そうしているうちに、ギターの弾き方を忘れ、指が自在に動かなくなっていた。ふと、良いメロディーが頭に浮かんでも、それを曲として完成させ、発表してやろうとは思えなかった。するとすぐにメロディーは喪失し、曖昧な霧の中へ溶けていった。  あれだけ移り気だったのに、しばらく恋をしない時期が続いた。女は金がかかるもの。ペットもまた金がかかるもの。自らの生活以外に金がかかることを許容できず、当時の俺は、金という悪魔に取り憑かれ、それだけ世界を狭めてしまっていた。  (よわい)二十七の手前頃、知人の紹介で社員として就職することができた。仕事内容は過酷だったが、決まった曜日の休みと、毎月決まった金額を貰えるようになった。職場の人間も理解のある者ばかりで、三年ほど頑張ったら、あんなにあった借金もどうにか返済し終えていた。  不意に、周囲を見る余裕が生まれた。俺の近くには、見過ごしていた幸せが幾つもあった。それらを一つ一つ()でてみると、倍以上の喜びになって返ってくることが多くあった。今までの余裕のなさに乾いた笑いが漏れた。そうして、情けなく泣いた。
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