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『ゴメンネ。旦那にバレちゃったから、もうお別れしましょ♪』
突然の告白と別れ。
付き合っていた彼女は――人妻だった。
さらに小学校低学年と幼稚園児の子供がいるとか……。
彼女との出会いは去年の春。
居酒屋で逆ナンパされてからの付き合い。
いつも明るく笑顔で陽気な彼女は、別れの言葉すら1ミリも罪悪感を感じられない軽い口調だった。
あまりのショックからここ数日、どのように生活していたのかあまり覚えてない。
しかし職場の同僚たちからの苦情がなかったことから、日常に支障をきたすほどの状態ではなかったのだろう。
今日は久しぶりに一人だけの休日。
去年、彼女と初めて訪れた日帰り旅行先へ突発的に来てしまった。
都合よくレンタカーを借りることができ、彼女との想い出の地へと車を走らせる。
縁結びで有名な神社で手をつないで歩いた場所。
道に迷いながらもたどり着けた名物のソバ屋の場所。
冷えたジンジャーエールを二人でラッパ飲みした場所……。
そんな一年前の楽しい想い出の場所も、今は悲しく、そしてただ空しく感じる。
だけどスパッと彼女のことを割り切ることもできず、もはや現実逃避がしたいだけの傷心旅行。
誰かに話して楽になりたかったが、知らなかったとはいえ不倫していた事実を告白する勇気もなく、今に至る。
人の多い観光地で一人ぼっち。
初夏の青々とした空の下、寒く感じるのはなぜだろう。
周りの観光客は物珍しさや好奇心いっぱいの笑顔をしている。
そんな人々の中を俺は早足で通り抜ける。
立ち止まると過去の幸せな想い出がうしろから追いかけてくるような、そんな気がするのだ。
すこしでもその幸せだった想い出に捕らわれれば、男なのに……その場でみっともなく泣いてしまうだろう。
どんなにつらい別れ方をしても、いい想い出をおもい返せば――失恋のつらさも飲みこめる。
などというヤツもいるが、その程度で解決するくらいなら失恋で苦しむ人間はいないんだ。
(ああ、来なきゃよかった……)
レンタカーを運転しながら後悔の念が頭の中で渦を巻く。
最後の目的地は海を望む白い灯台が目印の岬――火ノ岬。
俺は観光用の大きな駐車場に車を停めた。
(以前来たときはすでに夕暮れ時で、海に沈む夕日を眺めながら彼女の肩を抱いてたなぁ……)
はあっとため息をついて車から降りると、いきなり俺に向かって海風がゴオッと音を立ててぶつかってきた。
おかげで髪の毛がめちゃくちゃに……。
仕方なく軽く手ぐしで髪を整えて、まずは近くのお土産屋や飲食店のエリアへと足を運ばせる。
辺りは潮の香りより、イカ焼きやサザエの壺焼きの香ばしい匂いと魚の生臭さや磯臭さが鼻につく。
そして名のある観光地からは離れた場所もあって店数も人も多くはない。
昔はもっと栄えていただろう町並みの名残だけが哀れを誘う。
しかしどこか懐かしさを感じさせる風情は嫌いじゃない。
ふいに飲食店の店先にある干物コーナーで足が止まった。
ここは彼女と来た時、のどぐろの干物をねだられた場所だった。
高級魚ともあって一枚二千五百円。
『家族に食べさせてあげたいから』
と瞳を潤ませながら訴えかけられ四枚……。
あの頃は彼女と付き合い始めたばかりだったので、いい顔したくて調子よく支払ってしまった。
(彼女と旦那と子供たちとでアノのどぐろ、食べたんだろうなぁ……)
思い出すと、やっぱり泣きそう。
未だに彼女のことが好きで好きでたまらない気持ちで胸が苦しくなる。
俺は涙をこらえて干物から、となりのイカ焼き四百円の看板へ目線を移した。
ちょうど昼も過ぎた時間。
ガッツリ食べたいほど食欲はないが、イカ焼きぐらいならと――店員のおばさんに皿にのった調理済みの焼イカの山を指さして、
「イカ焼きを一つください」
「イカは切りましょうか? それともかぶりつきで?」
「かぶりつき? で」
「それでは四百円になります」
俺は財布から四百円取りだしておばさんに手渡す。
「これから温め直しますんで5分ほどお待ちください」
そういっておばさんは店の奥へと入っていった。
ちょっと謎な言葉が聞こえたような気がしたが、深く考えずに俺は店先のオープンテラスのベンチに腰かける。
そしてぼーっと景色を眺めていると、しだいに意識が朦朧としてきた。
精神的な疲労からなのか、抗えない睡魔に襲われる。
すぅーっと寝息を三回ほど立てた時だ。
いきなりヒヤリとした冷たさが全身を包みこむ。
「ヒッ」
不意打ちな衝撃におどろきの声を上げ、身体がビクンと高く跳ねた。
一気に眠気も吹き飛び、俺は寝落ちのまぬけ面を晒してたのが気恥ずかしくなって赤くなる。
しかし誰も俺のことを気にする様子もなく、眼の前を平然と通りすぎてゆく。
(よかった……)
俺は放心したように強張った表情ををゆるめた。
あらためて行き交う人たちを見てみると、その中から艶やかな黒髪にグレーのセーラー服を着た少女をみつけたのだ。
(――!)
顔すらわからないうしろ姿だというのに、何かが引き寄せられるような――そんな感覚が俺の身体をつらぬいたのだ。
少女は他の観光客同様に海岸へと向かうのだろうか。
おもわずベンチから立ち上がり少女のあとを追おうとした俺に、
「イカ焼きお待たせしました」
「あ、ああ。はい……」
おばさんの声が引き留めた。
俺は串に刺さったイカ焼きをおばさんから受け取ると、すぐさま少女を追いかけようとしたが――もう姿はみえなくなっていた。
ふうっと落胆の息をもらす。
(失恋したばかりでもう他の女に、しかも十代の少女に……。何やってんだろなぁ、俺。ははは………)
乾いた笑いしかでない。
俺は手にした温かいイカ焼きを大口で頭からブチッと噛み千切った。
(弾力のある歯ごたえがいいな。それに噛み砕くたびにうま味が出てくる)
……ああ、なるほど。これがかぶりつきか。
先ほどのおばさんの言葉を、今さらながら理解したのだった。
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