14人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
祖父が彼女に求めたのは、神出鬼没であることだった。
彼女はそれを忠実に守った。
僕がトイレから出て部屋に戻ろうとすると、開けっぱなしにしていた僕の部屋のドアから彼女の着物の裾が覗いていたり、縁側でスイカを食べて種を庭に飛ばすと、いつの間にかそこにいた彼女の足元に落ちたりすることがあった。
夏休みの間、祖父一人で暮らしているはずの家に泊まりに来ている僕は、どうしても彼女の姿を不意に見つけるたびにぎょっとしてしまう。
祖父は彼女の存在を無視していた。寝ている枕元に彼女が立っても平気で眠っているし、居間で観ているテレビの前に立ち塞がってきたときも、まったく気にせず画面を観続けていた。
最初は祖父には彼女が見えていないのかと思っていた。
彼女は僕と同じくらいの齢に見えた。だけど小学校似通っている女子たちとは雰囲気が違っていた。それは多分真っ赤な着物を着ているせいだろう。袖に大きな花が咲いた振袖に、黄色い帶を占めていて、髪はおかっぱ頭だった。
彼女の姿はどう見ても座敷わらしだ。
去年祖父の家に来たときはいなかった。ただ見えなかっただけだろうかと思ったが、実際本当にいなかった。代わりに祖母がいた。去年の冬に亡くなってもういない祖母がニコニコと僕を出迎えてくれていた。
祖父だけになってしまった大きな古い家に、全く知らない女の子が着物姿でうろついているのだ。どう考えても座敷わらしだという結論にしかたどり着かない。
何より彼女が座敷わらしという妖怪だと僕に確信させたのは、祖父が毎日三回欠かさず押入れに供えている食事だった。朝はおにぎりと味噌汁、昼はそうめん、夜は僕と祖父と同じ献立が押し入れの前に置かれ、祖父の手のひらが合わせられる。近所の人から大福やゼリーなどのおやつをいただいたときも、同じことがされた。
食べ物が置かれると、襖がすうっと横に動き、細い隙間から細い腕が伸びる。獲物を巣に引きずり込む蛇のように、出来たての食事を押入れの奥に吸い込んでいく。押入れが閉まる。
しばらくして押入れを開けると、そこには米粒一つも残っていない食器だけがあった。
そんなことから、僕は彼女を住み着き始めた座敷わらしだと思っていた。あるいは昔からこの家にいた妖怪が見えるようになったのだと納得していた。
見えるはずのないものが見えるというのはなかなか不気味だった。しかしその見えるものが座敷わらしなので、僕は大して怖がらずに済んだのかもしれない。座敷わらしが住む家には良いことが起きるからだ。
でも彼女は座敷わらしではなかった。もちろんその他の妖怪でもなかった。
彼女は正真正銘の人間である。僕とそう変わらない齢の女の子だった。
僕は知っている。祖父や僕の注意をかいくぐって、死角に忍び込んでいることを。祖父が食事を供える前に、押入れを開いて入っていることを。真っ暗な押入れの中で一人黙々と食べ、ごちそうさまも言わず押入れを出て閉めることも知っている。
僕が座敷わらしの存在に慣れてきた頃、夜中にトイレに立った僕と彼女が出くわしたことがある。彼女は気を抜いていたのだろう。冷蔵庫から取り出した麦茶を片手に「あっ」と僕の目を見た。それから物凄く取り乱して、冷蔵庫を閉めないまま階段下の物置部屋に駆け込み、閉じこもってしまった。家に吉兆をもたらす妖怪にしてはよそよそしい態度だった。
あのときの彼女の目は冷蔵庫の光を反射して光っていた。麦茶を下す喉はぐびりと鳴って動いていた。
彼女の行動は全て、生きている人間のする動きとしか考えられなかった。彼女は座敷わらしみたいに姿を消したりしない。消すことはできないのだ。ただ消えたように見せるために隠れたり現れたりするだけだった。
僕は祖父に聞いてみた。
祖父は即答した。まるで答えを用意していたみたいだった。
「それは座敷わらしだ」
祖父は彼女が見えていないふりをした。廊下で図らずも鉢合わせたときには祖父は道を譲ったりなんかしない。彼女が足音を殺して端に寄る。僕と出かけて家が彼女一人になるときは冷房は消していく。いつもは開けっぱなしにしている玄関の鍵もしっかり閉める。
祖父が彼女にしていることはただ三度の飯の用意とたまにお菓子をやることくらいだった。
「座敷わらしじゃないでしょ。おじいちゃんも本当は見えてるよね。あの子は人間だよ」
そう食い下がっても無駄だった。祖父は取り合わず、
「座敷わらしは子どもにだけ見えるんだ。羨ましいな」
と笑うこともあれば、
「あまり言い過ぎると心配になる。暑さにやられているのかもしれない。お母さんに連絡して迎えに来てもらおうかね」
などと脅しとも取れるようなことを呟いたりする。
祖父に彼女の存在を認めさせるのは諦めた。
僕は何とかして彼女を守ろう。僕は決心した。
祖父は知らない女の子を家に住まわせ、着物を着せて座敷わらしにしている。
存在を無視して、いないもののように扱う。
僕は祖父の行動から危険な匂いを嗅ぎ取っていた。
僕が彼女を助けなければいけない。僕は胸に誓った。
祖父の家に来て五日目のことである。
僕が彼女に対して接触をしようとすれば、祖父が放っておかないだろう。運が悪ければ、親に連絡が行って僕を迎えに来させるかもしれない。親に頼ることも考えたが、祖父は巧妙に隠すだろうし、誰も僕の突飛な行動に付き合ってくれないだろう。
まずは彼女が存在する証拠を集める必要がある。それがあれば、大人を説得できる。
それと同時に祖父の隙をついて彼女と話をしようと企んだ。これは祖父が出かけているときか、夜が良いだろう。
僕は冷房の効いた居間のちゃぶ台で宿題をしていた。向かいでは祖父が新聞を読んでいる。彼の後ろには仏壇があり、写真の中の祖母が僕に笑いかけていた。
算数ドリルの問題を一問解くごとに、背後を振り返ったり襖の方へ目を向けたりしたが、彼女の姿はなかった。
これはまずい。
冷房のスイッチを入れているのは居間だけだ。祖父の部屋と僕が使っている部屋にも冷房はあるが、今はスイッチがオフになっている。
今日はとても暑い日だ。日差しも強くて、縁側なんかは歩いているだけで跳ね上がりそうになる。
彼女はどこにいるのだろうか。
トイレに行くふりをしながら居間を出る。案の定熱気が全身を包んだ。
廊下にはいない。左手に見える階段にも姿はない。
トイレとは反対方向であるが、僕は階段を上って二階へ向かった。居間にいる祖父からは障子越しに僕の影が見えるだろうが、漢字ドリルを持って戻ってくれば言い訳するまでもないだろう。
二階も窓から日光が燦燦と降り注いでいた。放っておけば煙が出るのではと疑ってしまうくらい、床は熱されていた。カーテンを閉める。
どこにも彼女はいなかった。
夏休み中使わせてもらっている部屋に入り、冷房のスイッチを付ける。カーテンは元より閉じてある。机の上に出したままにしていた漢字ドリルを片手に、僕は部屋を出て、階段を下って居間に戻った。
祖父はまだ新聞を読んでいた。漢字ドリルを床に投げ捨ててまた出ていく僕を気にするそぶりもない。
僕はトイレのある方向に歩いた。
果たして彼女は台所にいた。
台所は他の部屋に比べるとかなり薄暗く、ひんやりとしていた。それでも勝手口の前にうずくまる彼女はじっとりと汗をかいていた。
今日の彼女は浴衣姿だった。色はいつも変わらず赤に黄色の帯だった。浴衣という出で立ちに僕は少し安心したが、思い直した。夏祭りに浴衣を着ていったことは何度もあるが、浴衣というのは着ていて暑いのだ。汗をかくと裾や袖が肌に張り付いてさらに暑くなる。
彼女は前に立った僕を見上げた。
初めて見たときからこけしみたいだと思っていたが、彼女の目はこけしよりもずっと大きかった。こけしのような木の肌と違って、彼女の頬は収穫期のリンゴのように赤かった。
僕は彼女の方に屈んで言った。
「僕の部屋使いなよ」
彼女の反応はなかった。戸惑いすら浮かんでくる様子はなかった。
「冷房、ついてるから。ほら、立って」
彼女は立たない。
僕は戸惑ってしまった。
「ここにいると暑いから。熱中症になっちゃうよ。だから立って」
彼女が腰を上げた。動いた拍子におかっぱ頭の短い髪が頬にへばりついた。僕はそれを払ってやる。
僕が彼女を先導して歩こうとすると、彼女は違う方向へ歩き出したから、僕は焦って彼女の肩をつかんだ。
「どこ行くの」
居間に繋がる廊下の手前で右に折れ、浴室へ入っていく。蓋をしたタスタブの上に座り、そっぽを向いた。
「ねえ、そんな恰好でこんなところにいたら危ないよ。お願いだから、こっち来てよ」
彼女は応じない。僕は潜めていた声を少しだけ張り上げてしまった。祖父には聞こえていないはずだが、ギクッとする。
「おじいちゃんには言わないから!」
聞いた途端、少女の顔が跳ね上がった。僕の顔をまっすぐ見つめる。
彼女は何か言いかけた。しかし、もごもごとさせた口を再び一文字に結び、立ち上がると、僕の横をすり抜けて浴室を出ていった。
僕は彼女がようやく僕の言葉に反応してくれたのだと受け取った。彼女はこのまま二階の僕の部屋へ行くだろう。
初めての接触にしてはうまくいったかもしれない。あとは何食わぬ顔をして祖父のところへ戻ればいいだけだ。
少しご機嫌になって居間の障子を開ける。
そこにはテレビをつけて将棋を見ている祖父と、テレビの前に立ち塞がっている浴衣を着た少女がいた。
僕は驚いて彼女を見るが、彼女はどこを見るでも何をするでもなくテレビの前に立っている。
何か言ってやりたかったが、祖父がいるので何もできなかった。今さっき彼女に言った「おじいちゃんには言わない」という言葉が思い出されたからだ。
それに、居間はこの家の中で一番涼しい。彼女が進んでここに来たのならそれが一番いいではないか。
僕はそれきり彼女の方に顔を向けず、算数と漢字の宿題を再開した。
祖父は見えない画面を観続けている。
祖父は夜の十時には部屋に戻って寝ている。
僕は念のため十時半に廊下へ忍び出た。古い階段の軋みに怯えながら、一階まで降りる。
彼女は意外にも早く見つかった。
もう冷房の冷気も消え失せた居間の端にうずくまる影があった。まるで土下座をするかのように突っ伏して眠っている姿はとても小さかった。
台所の冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐ。闇の中だと茶色い液体が真っ黒に見えて不安になり、冷蔵庫をもう一度開けて麦茶であることを確認した。冷蔵庫の照明が目に刺さる。
居間に戻ってちゃぶ台にグラスを置いた。コツンという音がしたが彼女は微動だにしない。
眠りを妨げるのは忍びなかったが、僕は彼女の背中に手を遣り、軽く揺すってみた。
蒸し暑い中、おかしな体勢で眠っていて深い眠りができるはずはなく、彼女はすぐに覚醒した。
寝惚けているのか、僕を見ても驚く様子はない。これは幸運と流れる動作でグラスを手渡し、彼女に飲むよう告げる。
彼女はある夜みたいに喉を鳴らしながら麦茶を飲み干した。
「もう一杯欲しい?」
彼女は頷きかけ、石になったように固まった。僕を見て、瞬きもできないほど凍ってしまっていた。
僕は構わず台所に走り、新しく麦茶を注いで戻ってきた。彼女はまだそこに座っていたので、ホッとする。
僕の手渡した麦茶を彼女は恐る恐る受け取った。今度は少しずつ口に運んでいる。
「きみはどうしてここにいるの?」
単刀直入に聞いた。
彼女は温かい缶飲料を包み込むように、冷たいグラスを両手で握っていた。闇で黒く見える液体を見つめたまま黙りこむ。
「おじいちゃんとはどういう関係? どこから来たの? 親は?」
ついつい質問攻めにしてしまう。逆効果だとわかっていても止まらなかった。
「おじいちゃんはきみのこと座敷わらしだって言うけど違うよね。もしかして、無理やり連れてこられたの?」
案の定彼女は首をもたげたまま静止してしまっていた。
これ以上追い詰めてはいけない。完全に心を閉ざされたら、助けるチャンスがなくなってしまう。僕は質問を止めて黙ることにした。
どのくらい時間が経っただろう。彼女はまだ顔を上げない。
もしやと思い耳を澄ますと、彼女は眠っていた。
僕は座布団を引き寄せ、彼女の体をそっと横にする。座布団を枕にして眠る彼女の横顔は、今まで見たどの人よりもきれいだったが、クラスの女子とも何ら変わらない人間であった。
僕は抜き足差し足で居間を出て、部屋へ戻った。
風のない、蒸し暑い夜だった。
祖父と一緒に祖母の墓参りに行った帰りに、祖父は近所のおじいさんに声をかけられた。昔からの友人で、遊びに来ないかと誘ってきた。僕も誘われたが、宿題を今日で終わらせたいと言って一人で帰ってきた。
宿題は昨日ですべて終わらせている。リュックサックの中にしまって、家に帰るまでは二度と見ることはないだろう。
玄関で靴を脱ぐとき、靴箱の中を確認したが、座敷わらしに扮した少女の履物らしきものは見当たらなかった。見つかったとしても証拠としてはぬるいかもしれない。
台所へ直行したが、彼女はいなかった。浴室のバスタブも一応蓋まで開けて確認したが、そこにもいない。
居間にもおらず、冷房だけが静かに息を吐いていた。
今日も昨日と同じくらい暑い。祖父と出かけるときにこっそり居間の冷房をつけっぱなしにした。祖父と一緒に帰ったら適当に言い訳するつもりだったが、その必要もなくなった。
彼女が涼むために冷やしておいた居間だが、彼女は利用しなかったのだろうか。僕は少しがっかりして、そして寂しく思った。
一階にはいないみたいだから、あとは二階しかない。縁側を通るときに庭を見渡したが、草が茂った中に着物の赤はなかった。
二階に上がって自室を開けたとき、僕は思わず「あっ」と声を出してしまった。
部屋の隅に彼女が膝を抱えて座っていた。
「椅子に座りなよ。ベッドでもいいからさ」
急いで窓を閉めて冷房のリモコンを探す。机の上にあったそれを操作し、設定温度を〇・五度下げ、起動させる。
部屋を出て階段を飛び降りるように駆け下って、麦茶を二つ用意する。冷凍庫から棒アイスを無造作に二本取り出し、麦茶を零さないようにゆっくりと引き返した。
ドアを開けて、彼女がまだそこにいるのを発見して、嬉しくなった。
少女に椅子かベッドのどちらかに座るよう促すと、ベットの方に浅く腰かけた。
「どっちがいい?」
そこで僕もアイスの味を初めて確認した。ミカンとパイナップル。
彼女は選ばない。仕方なく僕はミカン味の方のビニールを開けて渡した。
彼女は棒をつかんでビニールからアイスを引っ張り出そうとしたが、アイスの部分がビニールにくっついていたのだろう、棒だけがスポンと抜けた。
彼女が不思議そうにすっぽ抜けた棒と残されたアイスを見比べるのがおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。パイナップル味をビニールから取り出して、彼女のそれと交換してやる。
まさかアイスを知らないということはないだろうな、そう危惧していたが、彼女はゆっくりとした動作でアイスをかじり始めた。冷房のおかげか、頬の赤みが引いている。
僕は机とセットになった椅子に腰かけて、ビニールの奥に閉じ込められたままのアイスを救出にかかった。
彼女はアイスを食べ終わってからも棒をくわえたままだった。僕が手を出すとようやく棒を吐出して返してきた。
僕の方も何とかオレンジ色のアイスを食べ終わり、麦茶を一口飲んだ。彼女は口を付けず、氷が漂う茶色の水面を眺めていた。昨夜は暗くて墨に見えた液体も、今見ると透き通った茶色で、汚れ一つないグラスの中でゆったりと揺れていた。
「寒くない?」
尋ねると、彼女は首を振った。初めて僕の問いに応じた瞬間だった。
「来てくれてありがとう」
彼女が僕の顔を見た。警戒している様子はなさそうで、むしろ興味深そうにまじまじと見つめてくる。僕は思わず目をそらしてしまった。
「昨日の夜聞いたこと、覚えてる?」
彼女は頷いた。
「今、同じこと聞いても嫌じゃない?」
また頷く。確かな手ごたえが僕の体を前へと押しやる。
「きみはどうしてここにいるの?」
彼女は少し考えるふうを見せた。丸い大きな目が天井のシミを追う。汚い天の川を見ているお祭り帰りの女の子といった風情だ。
「……施設から、連れてこられたから」
彼女の声は想像していたよりも低めだった。低いが、よく通る声だった。
「施設って、もしかして、親がいない子が暮らすための施設?」
彼女は頷いた。
「おじいちゃんが、そこからきみを引き取ったの?」
「しばらく、あの人と暮らすんだって、施設の人はそう言ってた」
僕はその施設の存在を知っていたが、詳しいことはわからなかった。祖父がこの子を養子に迎えたのだろうか。では、「しばらく」とは?
少女も細かい部分までは知らないらしい。とにかく、少女は一時的にということで祖父のもとで暮らすことになったそうだ。
「いつから?」
「今年の始め。一月か、二月」
「そのときからきみはおじいちゃんと二人で暮らしてたんだ」
「うん」
「学校はどうしてるのさ」
座敷わらしみたいな生活をしていたら学校なんか行けるはずがない。僕は夜中に泥棒よろしく箪笥やら押入れやらを漁ったが、彼女の衣服や私物と思しきものは一つも見当たらなかった。学校に行くとなれば、着物で行くしかないはずだ。
「近くの学校に通ってたけど、今は夏休みなの」
「学校に行ってた? その服装で」
そのとき、少女は初めて笑った。柔和な笑みで、少しこけしみたいだと思った。
「学校に行くときは洋服だったよ。帰ってきてから着替えてた」
「でも、きみの洋服どこにもなかったよ」
僕は自分の発した言葉の恐ろしさを知った。女子の服を探し回ってたなんて、本人に言うべきではなかった。僕はまるで変態だった。
彼女はそれについては気にするそぶりもなかったが、せっかく灯っていた顔の明かりがふっと吹き消されてしまったようだ。
「そっか、捨てられちゃったのかな。もう学校には行かないから……」
「新学期があるのに?」
「多分、その前に施設に帰るんだと思う」
僕はその言葉に希望を見出すとともに、不安も覚えた。
彼女が施設に戻れば、座敷わらしの生活は終わりだ。見えない存在として扱われることも、暑い室内に取り残されることもないだろう。押入れにも入らなくてよくなる。
しかし、それで解決だろうか。第一、祖父がそれを許すだろうか。
祖父がなぜこんなことをしているのかわからない以上、どんな行動に出てくるかわからない。彼女の尊厳はすでに踏みつぶされ、粉々になったまま祖父の足裏にある。彼女を手放したあと、自分の行動が露呈するのを恐れないだろうか。それに、座敷わらしに何かしらの必要性を感じているなら、夏休みが終わってもそれは続くのではないだろうか。
夏休みが終わる頃になれば、僕は家に帰る。そのあと、二人だけになった空間で、祖父は彼女に何をするのだろう。
腕に鳥肌が立った。流れる汗で背中がかゆくなる。
最後に少年は聞いた。
「きみは誰?」
彼女はしばらく黙っていた。それから霧のようにいつ散ってもおかしくない声で、答えた。
「この家にいるうちは、私は座敷わらし……」
その言葉を聞いた瞬間、僕は経験したことのない感情がみぞおちのあたりで竜巻を起こしたのを確かに感じた。衝動に任せて彼女の肩をつかむ。
僕は彼女の言葉を否定した。
座敷わらしじゃない、きみの名前を教えてほしい。
冷房がいつもより低めの温度で稼働しているのに、僕の周りはめまいを起こすほど暑かった。
最初のコメントを投稿しよう!