座敷わらしの体温

2/8
14人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 彼女の名は明かされなかった。  人間としての名前を僕に教えることができないのには理由があるのだろうか。僕が祖父の孫だからだろうか。  それでも僕は、彼女に普段は僕の部屋を使うことを約束させた。彼女は約束したつもりはないかもしれないが、頷いていたので後は信じるしかない。  祖父は二階には上がってこない。祖父の部屋は一階の居間と廊下を挟んだ向かいにあった。寝るとき以外は大抵居間にいた。  彼女が二階にいれば祖父の目をほとんど気にしなくてもよいということだ。しかし、油断はできない。僕たち二人がまったく見当たらなければ、祖父は二階を覗きにくるだろう。昼間は僕は居間にいて祖父を見張っている方がいい。  そう決まったら後は退屈な時間が続いた。  祖父が帰ってきて居間の障子を開けたとき、僕は畳の上に寝転んで本を読んでいた。  祖父は居間の冷房が効いていたことを喜んだ。祖父は暑いのが嫌いらしく、僕が勝手に冷房をつけても怒らない。いつもの仏壇前の位置に座り、テレビをつける。  祖父が友人からもらったという水ようかんを僕にくれた。祖父は友人の家でごちそうになったようだ。  正方形の水ようかんは食べる前から舌に甘みが滑るほど、艶やかで柔らかそうな見た目だった。彼女にあげたい、そう思ったが、これをそそくさと二階に持っていくのはさすがに不審だろうから諦めた。  今度美味しいお菓子あげるから、許してくれ。そう念じながら艶めくあずき色を口に放り込む。想像したのとさほど変わらぬ舌触りがして、おいしいと感じるほど彼女に対して後ろめたさが積もっていく。  無意識に階段のある方向を見て、ぎょっとした。水ようかんを噛んだ後でなければ、そのまま喉の奥へ滑っていっただろう。   いつの間にか障子の外に彼女の影があった。和装特有の凹凸のないシルエットが鮮明だった。  彼女はしばらく廊下に立ったままだった。  動きがないと次第に不気味さが増していく。居間の外にいるのは本当に彼女だろうか。もし彼女でなかったら、それこそ本物の座敷わらしだろう。  祖父を盗み見るが、彼はテレビに目を向けたままだ。本当に見えていないのか。それなら、外にいるのは……  彼女はようやく居間に入ってきた。障子が横にずれる音がする。畳の上に裸足が置かれ、障子がピタンと閉められた。  彼女がまず見たのは僕のあと一口ぶんになった水ようかんだった。僕はそれを口に運ぶことができなくなった。だからといって、彼女にあげることも叶わない。  僕の気まずさをよそに、彼女は野球中継で今まさに打者がボールを打たんとしていたテレビ画面の前を堂々と横切り、押入れへゆっくりと歩いた。何もしまわれていない押入れの中へ入り込み、襖が閉められた。  祖父が立ち上がったので、思わずビクッと体が身構えてしまった。  祖父は居間を出ていく。  戻ってきた祖父の手には水ようかんの載せられた皿があった。  押入れの前に置かれたそれを見たとき、僕はその水ようかんがさっき僕の食べた水ようかんの半分だと気づいた。長方形のようかんを半分に切った片方を僕にくれて、残りを座敷わらしに供えるためにとっておいたのだ。  僕は複雑な思いながらもホッとした。  人を座敷わらしに祀り上げるような祖父を憎く思いながらも、押入れから伸びる手を確認したら、結局何も言わずに本に目線を戻した。  押入れの座敷わらしモドキは水ようかんをちびちび食べているだろうか。それとも小さなようかんだから一口で頬にしまうだろうか。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!