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 ――ねえ、暁斗、母さんが退院するまで一緒に住まない?  母が入院した直後、夕陽がそう言って暁斗に問いかけるまですでに夕陽と両親の間で今後のことについて話し合われていたのだと知ったのは二度目のお見舞いに行った時だった。 「俺のことなのに、なんで母さんたちと兄さんとで勝手に話進めてるんだよ」 「だって、あきちゃん一人を家に置いておくなんて心配じゃない」 「べつに、一人でも平気だよ。家事だってもとから手伝ってるし自分でできる」 「それはそうだけど」  せめて自分にも相談してくれればよかったのに。子どもだということはわかっていても一人だけ除け者にされたようで、どうしても反発してしまう。 「暁斗、勝手に話を進めたことは悪かったよ。でも、ちゃんと夕陽が暁斗にどうするって聞いただろ?」 「それは……うん」  母の隣に腰かけていた父が穏やかに問いかける。仕事で不在にしている夕陽の分まできちんと話し合ってくれようとしているのだということはわかる。誰も除け者にしようなんて思っていないことなんてわかっていた。それどころか家族みんな単に暁斗を心配しているのだということも。 「僕も母さんも、それから夕陽も、暁斗の仕事のことも踏まえて考えたんだよ。もちろん、高校生だからというのもあるけど、暁斗はもうただの高校生じゃない。母さんから聞いてるよ。たくさんファンレターもらってるんだって。もちろん暁斗を応援してくれる人はたくさんいると思う。でも、有名になるっていうことは、それだけ危ないことでもあるんだよ」 「……うん」  父の訴えは事務所の方からも常々言われていることだ。世間に顔が知られれば知られるほど自由は奪われていく。今はまだ実家に住んでいても平気かもしれないが、いずれ今より有名になった時、実家を出ることも必要になるかもしれない。それがいつになるのか、予想よりも近い未来なのではないか、とマネージャーからは言われていた。 「まだ母さんが一緒にいれば守れるかもしれない。でも、暁斗一人で家に置いて行くのはすまないが納得できない」 「あきちゃん、仕事も増えて忙しくなって、そんな中で家事も勉強も仕事も、なんてきっと大変に決まってる。それはゆうちゃんも同じように心配してたの」 「だから、兄さんが俺を一緒に住ませるって……?」 「うん。ゆうちゃんのところなら安全だろうって」  確かに夕陽も同じアイドルだ。事務所が許可したセキュリティのしっかりした場所に住んでいるのだろう。 「でも、兄さんだって忙しいのに……」 「もちろん、それはそうだと思う。でも、夕陽は言ってたよ。〝暁斗はオレよりずっとしっかりしてるから、一緒にいてくれたら安心だ〟って」 「……そんな……」  父が発した言葉が夕陽の声になって心に届く。夕陽がそんなことを言ったはずがない、とは思えなかった。でも、だからこそ信じられなかった。どうしてそんなことを言ったのだろう、と。  一緒にいてほしい、夕陽にそう望まれることがどれほど嬉しいのか、わかっているのだろうか。 「暁斗、どうする?」  結果は決まっているようなものだ。それでも父は暁斗に答えをゆだねる。 「……わかった。兄さんと住む」 「ありがとう、あきちゃん。できるなら、今度は二人で顔を見せてね」 「仕事が、なかったらね」 「ふふ、そうね」  兄さんと二人で。本当にいいのだろうか、と思いながら、心の奥底では不安と一緒にどうしようもない嬉しさが胸をぎゅうと締め付ける。    ◇◇◇ 「暁斗、おかえり」  日曜日の夕方、ドアを開けて夕陽はふわりと微笑んだ。  おかえり、またこうして出迎えてもらえるとは思っていなかった。  つい黙って夕陽の顔を見つめてしまい、その穏やかな瞳にきょとん、と見つめ返され慌てて口を開く。 「ただいま」 「うん」  嬉しい、夕陽の表情から溢れ聞こえる感情にこらえきれず視線をそらした。夕陽は気にせず「入って」と中へ進んでいく。 「洗面所とお風呂はここ。トイレは……こっち」  次々に説明されながら暁斗は案外よく片づけているんだな、と思った。 「案外きれいだな、とか思った?」 「え?」 「ふふ、やっぱり」  口に出してしまっていただろうか。いや、そうではない。昔から考えていることなんてすぐに見抜かれてしまう。顔には出にくい方だと他人には言われるのに、どうしてかこの兄にだけは隠せない。 「これでも昨日頑張って片づけたんだよ。暁斗きれい好きだから、散らかしてたら怒られると思って」 「怒らないよ」 「うそ、しょっちゅう怒ってた。〝兄さんはずぼらだ、もうすこしマメに片づけろ〟って」 「それ俺のマネ?全然似てないんだけど」 「ほんと?けっこう似てると思ったんだけどな」  まるで昔に戻ったかのように夕陽は屈託なく笑っている。話題を見失って気まずい雰囲気になったらどうしよう、と思っていたから内心ほっとした。  なにせ今日からまた夕陽と暮らしていくのだ。しかも実家のように両親もいない、本当に二人きり、この夕陽の家で。 「暁斗の部屋はここだよ」 「わかった」  マンションの十二階、2LDKの広い部屋。一部屋余らせているから、と聞いていたが、暁斗のために宛がわれた部屋は本当にほとんど何も置いていなかった。一昨日実家から送った暁斗の段ボールが二つと買ったばかりだと思われる布団のセット、たったそれだけがちょこんっと隅っこに置いてあった。 「洗面所に置いてあるタオルとか、冷蔵庫の中のものとか、どれでも好きなように使っていいから」 「うん」  頑張って片づけた、と言うわりにはたいして物のない家だ。  昔からそうだった。夕陽が集めているものといえば本ぐらいで、実家にいた頃暁斗が片づけろと言っていたのも床に積み重ねられていた本の話だ。今はそれもきちんと本棚に納められている。 「座って」  促されるままリビングのソファに腰かける。硬すぎず柔らかすぎずとても座り心地がいい。じっとしているとソファからふわりと花の香りがした。きっと、たぶん、まちがいなく、夕陽の匂い。ここでよく読書をしているんだ、とすぐに気づいた。  ことり、と目の前のガラステーブルにグラスを置かれてはっと視線を上げる。一人分の体重を受けてソファがすこしだけ沈む。夕陽が隣に座っていた。  グラスの中身はココアだった。今日は氷が浮かんでいてそっと口付けるときんと冷えている。乾いた喉が潤い、甘さが頭の中まで潤すようで、おいしかった。 「母さん、結局どのぐらい入院するって?」  穏やかな笑みのまま夕陽は問いかける。 「リハビリも含めて三か月はかかるだろうって」 「三か月か……思ってたよりかかるんだね」 「まあ折れたとこ以外は元気そのものだけどね」 「はは、母さんらしいなあ」  らしいってなによ、と反抗する声が聞こえてきそうだ。  母が手首を骨折して入院したのが一週間前の話。そんなことがなければこうして夕陽の家でゆっくりと話をすることもなかっただろう。  そばにいてほしい、なんて口に出したことはない。また一緒に暮らしたい、とも言っていない。それでも間近に感じる夕陽の体温がどうしようもなく心地よかった。 「暁斗、オレと一緒に暮らすのちゃんと納得してる?」 「……なに、突然」 「ほとんどオレが勝手に決めたことだから」  ごめんね、と夕陽は眉尻を下げる。そんな顔するぐらいなら決める前に話してくれればよかったのに。外堀を埋めたのはそっちだろ、と思いながら夕陽の優しさに自分勝手に言葉は返せない。 「納得してないなら今日来てないよ。事務所にも話していい提案だと思うって言われた。俺はまだ子どもで、一人では生きていけない。でも、学校のことも仕事もちゃんとして、家のこともするから」 「うん、頼りにしてるよ」  頑張りたい、という気持ちを夕陽は決して否定しない。暁斗の気持ちを認めた上で暁斗がここにいる意味を言葉にする。  だからその想いに応えなければ、と自然と素直になれる。 「今日は俺が夕飯作る」 「ほんと?暁斗の手料理嬉しいな」 「たいしたものはできないけど、食べられなくはないから」 「なんでもいいよ」  ほら、もう。すぐそうやって甘やかす。  ぐいっとココアを飲み干して暁斗はソファを離れた。 「オレも手伝っていい?」 「兄さんは仕事があるだろ」  際限なく甘やかそうとするから「ほらそれ」とテレビラックに置かれていた台本を指さす。夕陽は今深夜枠の連続ドラマに出演している。ちらっと見ただけで読み込まれているとわかる付箋だらけの台本。きっともう頭の中に入っているのかもしれない。それでも、すこしでいいから夕陽の支えになりたかった。 「あー……はは、うん。じゃあ仕事してる」 「そうして」 「暁斗はなにか他にやらなきゃならないこと、ない?」 「大丈夫。荷ほどきは服と教科書が入ってるぐらいだからすぐ終わるし、明日の予習も済ませてある」 「暁斗は真面目だなあ」 「兄さんだって真面目だろ」  高校の時、夕陽はバイトをしながらでも成績は常に学年の中で上位だった。努力家なのにその努力を人には見せない。そんな夕陽の姿を見ていれば自分もという気持ちになった。 「とにかく、兄さんは自分のことしてたらいいから」 「……わかった」  ようやく夕陽は頷いて台本を手に取りペンを片手にソファに深く腰掛けた。  一度台本に目を落としてしまえば暁斗がすこし物音を立てたぐらいでは微動だにしない。時折ぶつぶつとひとり言を言って、急に立ち上がりふとするとまた腰かける。集中している夕陽の横顔はいつものふわんとした空気とは一変し、どこか近寄りがたい凛とした男の顔になる。  あまり見すぎないように、と思いながら時折つい料理の手を止めて夕陽の横顔に見入ってしまった。  暁斗はまだ演技の経験はない。でもいつかそういう日が来るとすればきっと夕陽の姿を追ってしまうのだろうと思った。
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