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 深琴は自分の意見を上手く口にできない子どもだった。学校でも、深琴くんはどう思うの? と聞いてくれたのに、上手く言葉に出来ず結局は、別に、なんてそっけない言葉しか出てこなかった。頭の中では色々考えているのに、これは今言うべきことか、これを言ったら周りは変な反応をしないだろうか――なんて考えている内に言えなくなってしまうのだ。  大人になればきっと上手く言葉を選んで何でも言える様になると思っていたが、実際はそう変わるものでもなかった。  だから、今自分が歯科医なんていう、人とコミュニケーションをとらなければ成り立たない仕事をしているなんて、自分でも驚きだ。 「はい、終わりました。口濯いでいいですよ。今回の治療はこれでおしまいです」  深琴はそう言いながら診察台の背もたれを起こすスイッチを足で踏んだ。患者は近所の老齢の女性で、父親の代から通ってくれている。 「みこちゃん、ありがとうね。あ、そうそう。加奈さんにおまんじゅう預けておいたから後で食べてね。好きでしょう、みこちゃん」  よいしょ、と掛け声を掛けて椅子から降りる女性に深琴は手を貸す。それを自然に受け入れながら、彼女は微笑んだ。 「あ、ありがとうございます。でも、もうみこちゃんは……」  やめて欲しい、が言えない。もういい大人どころか、もう三十になろうというのに『みこちゃん』なんて少し恥ずかしい。 「みこちゃんは、いいお医者さんになったねえ。先代先生も安心ねえ」 「いえ、そんなことは……」 「なに言ってるの、みこちゃん。みこちゃんは、小さい時から賢くてね、先代先生も自慢ばかりしてたんだから。ちゃんと期待に応えて、偉い先生になって……」 「さ、佐々木さん! 次の患者さんが待ってますから」  女性の言葉を遮り、深琴が強く言う。一瞬驚いた顔をした彼女は、それでもすぐに穏やかに、そうだね、悪かったね、と言って診察室を後にした。  ――また、やってしまった。  もっと言い方があったはずだ。そんなに褒められたら治療代とれなくなっちゃいますよ、なんて冗談にしてもいいし、娘さんが待ってますよ、と笑って促してもよかった。考えればいくつもの穏便な会話の終わらせ方があったはずなのに、自分はどれも選択できず、結局一番ダメな言葉をぶつけてしまった。  深琴は長いため息を吐いて椅子に座り込む。するとそこにこのクリニック唯一の衛生士である加奈(かな)が顔を出した。 「あ、先生サボってる。次の方お待ちですよ。佐々木さんのお相手疲れたのはわかりますけど、頑張って」  深琴よりも五つ年上の彼女は、時々こうして深琴を弟のように励ます。深琴はそれに、わかりました、と小さく笑みを作って頷いた。 「あ、お昼のデザートに佐々木さんにもらったお饅頭出しましょうね」  いや、時々八歳になる自分の息子と同じように扱われている気がする――そんなふうに思いながら、深琴は立ち上がって、そうだね、と笑った。 「あ、あと、大学時代のご友人から、また手紙届いてますよ。いい加減、ちゃんとお返事したらどうですか?」  加奈が一枚の封筒を深琴に手渡す。差出人は同じ大学に通っていた友人で、内容はいつも同じだ。歯科医院を開業したから澤島も来ないか、という誘いだった。 「僕がこの医院を継いでること知ってるのに……」 「それだけ、先生の腕を買ってるってことなんじゃないですか? 確か、学部主席で卒業したんですよね」 「まあ、たまたまね。それは、捨てておいていいよ。次の患者さん診ようか」  深琴はそう言って加奈に封筒を返した。加奈がそれに不満そうな表情をする。 「確かにここがなくなってしまったら私は困るんですけど、先生はもっと自分に自信を持っていいと思いますよ」  加奈の言葉に深琴は曖昧に頷いて、ありがとう、と笑った。
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