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一日の業務を終え、一人クリニックのドアを開けた澤島深琴は、足元に広がる影がいつもと違う気がして、頭上を見やった。
『さわじま歯科クリニック』と横に大きく書かれた看板の下に取り付けられた、オレンジ色の電球のひとつが点いていないことに気づいた深琴は、大きくため息を吐いた後、今出たばかりのドアを再び押し開け、スマホの明かりを頼りに中へと戻った。
十人も座ればいっぱいの待合室の奥の受付カウンターの下にある、備品の入ったケースを引っ張り出し、中を探る。確か半年前に別のひとつが点かなくなり、その時に予備をもう一つ買っていたはずだ。
「ああ、これだ」
電球を探し当て、外へ出る。建物の裏手にある倉庫を開けて、中から大きな脚立を出して電球の下に立てると深琴はおもむろにそれに上った。
小さな頃から背が低くて『前倣え』に憧れ続けた深琴は、結局成長期を迎えても劇的に大きくなることはなく、未だに背が低い。
そのため、脚立の一番上に上ってうんと背伸びをして、ようやく指先で電球を掴むことが出来る程度だったが、他にやる人もいないので、深琴は背伸びをして電球を外した。
外した電球を着ていた上着のポケットに押し込んで、今度は片手に持っていた新しい電球をつけようとした、その時たった。
ずっと上を向いて背伸びをしていたからだろう。急にくらりと眩暈がした。それは一瞬だったのだが、その時に脚立が一緒にぐらりと揺れ、バランスを失ってしまった。
体が、宙に投げ出される。
落ちる、そう思って衝撃に備えぎゅっと瞼を閉じた、次の瞬間、深琴の体は硬いタイル貼りのポーチに激突したのではなく、ふわりと柔らかく、けれど力強い何かに包まれていた。
「……っぶねー! 大丈夫?」
その声に深琴は驚いて目を開く。すぐ近くに目鼻立ちのぱっちりとした端正な男の顔があった。茶色の髪がライトに透けてキラキラと光っていて、まるで絵本から出てきた王子様のようだと思った。形のいい、大きな唇が開いて、もう一度大丈夫か訪ねてくる。
「は、はい……」
その顔に見惚れていた深琴が慌てて頷くと、男が笑みを浮かべた。
「よかった。じゃあ、下ろすね」
そう言われ、そこで深琴は初めて、彼にお姫様よろしく抱きかかえられていたことに気づく。
「す、すみません!」
思い切り頭を下げると男は、いいよ、とまた笑う。目元が優しくへにゃりと下がる爽やかなそれは、キラキラと輝いて見えて、落ちかけた余韻なのか、妙に心臓がドキドキとした。
「電球?」
脚立と、その上を見つめた男が深琴にそう聞く。深琴が頷くと、危ないな、と小さく息を吐いた。
「まず、ここの電源落して、それから何か別の明かり持ってきて」
「……え?」
「電気通ったまま電球換えるの危ないんだよ。あとは俺が代わるから――えーっと、ここの衛生士さん、とか?」
男はテキパキと脚立を立て直し、それに上がる。そこから深琴を見下ろし、そう聞いた。
「いえ、院長の澤島深琴、です……」
「え、嘘。こんな美人で若い先生なの? えー、俺通っちゃおうかなー。あ、深琴センセイ、今言ったことよろしく」
男は満面の笑みでそう言った。軽い口調に深琴は眉根を寄せたが、言われたとおりに動き始める。
それからはあっという間だった。
背の高い彼は、脚立の一番上でなくても楽に電球に手が届いていたし、その作業も真面目で鮮やかだった。さっきの笑顔とは違い、今度は雄っぽい真剣な表情に、なぜか深琴は息を呑んでしまった。
「すみません、ありがとうございました」
脚立の片付けまで手伝ってもらった深琴が深く頭を下げると、気にしなくていいから、と男は笑った。
よく笑う人だなと思った。しかもその笑顔は明るくて、見ているだけで不思議と心が華やぐ。
そんなことを考えていると、男は、じゃあ、と言って笑顔のままきびすを返し、歩き出した。深琴はその背中にぺこりと頭を下げ、もう一度、ありがとうございました、と告げる。
顔を上げると、広い背中は段々と小さくなって、少ない街灯に照らされ、次第に闇に溶けていった。
「……名前、聞けばよかった……」
自分を助けてくれて、作業まで代わってくれたのに、ありがとうしか言えなかった。大人なら、ちゃんと別のお礼をするべきじゃないのか――そう考えて、自分の判断力の低さに、深琴はため息を零した。
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