海に還る

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海に還る

 上階の開いた窓から潮風が薫る階段で先輩に引き止められた。 「流香(るか)ちゃん、帰らないで」 「あれ? 今日部活ありましたっけ?」  なんとなく先輩が気に入って入った漫画研究同好会は週三回の活動で、流香は月に一作品提出分以外は他の部員を眺めているだけのぼーっとした時間を過ごしていた。  特に帰らないでと言われるほど忙しい空間でもない。 「海に帰らないで」 「は?」  この人は一体なにを言っているのだろう。  流香は本気で呆れた。  先輩は悪い人ではない。  勉強は苦手だが人がいいというのだろうか。ムードメーカーだとかそんな言葉が合う人で、なんとなく一緒に過ごすのが心地いい人だ。  時折流香ちゃんの眼鏡だけでご飯三杯は食べられるなどと理解できないことを口にすることはあるが、絵には真摯な人だ。 「私は半魚人かなにかですか?」 「どっちかっていうとマーメイド」 「いや、人間ですから」  先輩はなぜか流香の容姿を気に入っているようで度々奇妙なことを口にする。創作意欲を刺激するミューズにでもなれていると言うのなら光栄な話ではあるが、理解不能な彼女の感情は落ち着かない気持ちにさせる。 「なんか流香ちゃんが急にいなくなっちゃう気がして」 「明日も普通に登校します」  おかしなのは先輩の方だ。あれでいて部長だし、なんとかというアニメの専門学校に進学すると言うだけあって絵を描かせたときは凄い。しかも美術部と兼部している。  また制服に絵の具をつけているななどと思いながら、流香は持っていた本を見せる。 「図書室に返却に行ったあとでよければ時間作りますけど?」 「流香ちゃん図書室行ったら二時間は戻ってこないでしょ」 「新刊入らないんで今日はそんなには居ません」  司書が気を利かせておすすめの本を山積みにしてくれているからその中から次に読む本を決めるだけだ。 「いいよいいよ、ゆっくりしておいで」  どうやら特に用事があったわけではなかったようだ。  流香は一礼して階段を下る。  図書室は階段を下りてすぐの奥にある。  入ってすぐ下り階段のある少し不思議な作りだが、背の高い棚を入れるために天井を高くした結果がこの階段なのだろう。  すぐ隣の自習室には上級生らしき姿がちらほら見えた。  試験前でもない限り自習室は込み合わないのだ。  借りていた本を返却し、新しい本を借りる。翻訳ものの恋愛小説らしいが吸血鬼が登場する物語で司書が流香のために選んでくれた本のひとつだった。  吸血鬼ものが好きだ。いや、非現実的な世界が好きなのかもしれない。  流香は手続きを済ませ、そのまま玄関へ向かう。  海風が呼んでいる気がした。  まだ日は傾いていない。  少しくらい寄り道をしてもいいかもしれない。    流香の家は海沿いの別荘地にある。  どこかの金持ちの別荘や海の家なんかが並ぶ通りでテラスからまっすぐ砂浜へ出られる。  曽祖父がこの辺りの漁業権を持っていた名残なのか家の前の砂浜はプライベートビーチのような扱いをされ、祖父なんかは来る度に魚を捕っていた。  潮風が心地よい。  波音を聴くのが好きだ。  ぐるりと玄関とは反対に回る。  テラスに座り、ローファーとハイソックスを脱ぐ。  ビーチは素足で歩くのがいい。  鞄とローファーをテラスに置いて砂浜を踏み歩く。  まだほんのりと温かい砂が気持ちいい。  波音と潮風に誘われるように、ゆっくりと海へ近づいた。  そこで先輩の言葉を思い出す。  海に帰らないで。  思わず笑ってしまう。  どうしてそんな発言をしたのだろう。  先輩の考えはよくわからない。  流香は人間だ。  怪奇小説や童話の世界みたいな非現実的なものを好んではいるけれど、自分が人間である自覚はしている。  人間の両親から生まれて、十六年間人間として過ごしているのだから間違いなく人間だ。  そう思うのに、どうしてだろう。  海が呼ぶ。  気がつけば波が爪先を(くすぐ)っていた。  波が触れると安心する。  泳ぐのが好きなわけではないのに、波音を聴くと落ち着く。  波音を聞きながら読書するのも、波打ち際を素足で歩くのも好きだ。  けれども、先輩の言葉のせいで少し不安になった。  どうして先輩は流香を海から来たと思ったのだろう。  どうして、こんなにも海が呼んでいる気がするのだろう。  気がつけば、(くるぶし)まで海水に浸かっている。  いつの間にこんなに進んだのだろう。  首を傾げ、戻ろうとしたはずだった。  足がどんどん海へと向かってしまう。  帰らないで。  また先輩の声が響いた気がした。  帰る?  海へ?  自分は海から来たのだろうか。  不可解な疑問が浮かぶ。  一説によると全ての生物は海から生まれたとはいうが、人類は人類に進化した時点から既に陸上で生活している生き物だ。  流香が海から来ただなんて非現実的な思考だと理解はしている。  それなのに、妙に海が呼ぶ。  気がつけば、スカートの裾が重い。  既に膝まで海水に浸かっていた。  おいで。  声がする。  先程まで脳内で響いていた先輩の声とは違う女性の声に聞こえる。  どこから響いているのかわからない声。たぶん脳内で響いているのだろう。  直感的に海の声だと理解した。  海が呼んでいる。  これ以上進んではいけないと、戻らなくてはいけないとわかっているはずなのに、どんどん海へと向かってしまう。    このまま死ぬのだろうか。  そんな考えが(よぎ)る。  べつに人生に不満なんてない。今日借りた本がどんな話なのかだとか、晩ご飯に数の子を食べたいなだとかどうでもいい考えがいくつか浮かぶ。  数学の宿題はいつまでだっただろう。  英語のスピーチの内容がまだ決まっていなかった気がする。  生命の危機だというのに、雑念と切り捨ててしまってよさそうな考えばかりが次々に浮かんでいった。  気づけば、肩まで海水に浸かっている。  きっともう戻れない。  流香の直感が告げる。  先輩、明日の部活は行けないようです。  そう考えた瞬間、頭のてっぺんまで海に飲まれた。  不思議だった。  海水に沈んでいるのに、全く息苦しさがない。  流香はただひたすらに海底を歩いていた。  海の底はもっと暗いのだと思っていたのに、海面からきらきらと光が降り注いでいる。  変なの。  夕暮れになっていてもおかしくない時間のはずなのに。  流香があたりを見渡すと、家の近くの海には棲息していなさそうな、見覚えのない魚たちが泳いでいる。  ここはどこなのだろう。  どうして呼吸が出来るのか。  不思議なことはいくつもある。  なにより魚たちは流香が海底を歩いていても全く気にしていない様子だ。  人慣れしているのだろうか。それとも、単純に天敵とは認識されていないだけなのだろうか。  水中を歩いているはずなのに、水の抵抗すら感じない。  ただ、口から気泡が吐き出されていることだけが、水の中に居るのだと感じさせた。  おかえり。  突然響いた声にびくりとする。  振り向くと、白い女性がいた。  白い。全身が白い。  髪も肌も着ている物も白く見える。  こんな人には会ったことがない。  けれども流香はその人を「母」だと思った。  おかえり。わたしの子。  彼女は両手を広げて、流香をやさしく包み込んだ。 「ただいま」  どうしてだろう。  彼女に抱かれた瞬間、帰ってきたのだと感じる。  ここが故郷なのだと確信したのだ。  流香の母親は陸にいるはずなのに、海の中の真っ白いこの女性を母だと感じている。  どっちかっていうとマーメイド。  先輩の言葉がまた浮かぶ。  そうだったのか。  どうして忘れてしまっていたのだろう。  この海で生まれたことを。  この器が借り物だということを。 「ただいま。お母さん」  流香は母をきつく抱きしめ返した。  生物は皆海で生まれる。  だから還るべき場所は常に海なのだ。  そして、そこには永遠がある。  海の底に、一冊の本が落ちてきた。  水の中だというのに、不思議と濡れている様子はない。  流香は本に手を伸ばす。  丁度図書館で借りてまだ読んでいなかった本だった。  内容が気になっていたから、幸運だと思う。  残念ながら海の底の図書館には新刊が届かないのだから。  こうやってどこからか流れ着いた本を集められた図書館はまだまだ蔵書が少ない。  久々に新しい本が読めると表紙を開けば、メモが挟まっていた。  帰っちゃったんだね。  楽しく過ごすんだよ。  先輩の文字と、人魚のイラスト。  どうやらこの本は図書館で借りた本そのものだったらしい。  先輩を思い出して、ほんの少し胸が痛む。  けれどもそれ以上に。    先輩も来てくれればいいのに。  そんな考えが浮かんでいた。
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