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数年後、少年院を出た僕は社会復帰して働くことになった。
しかし少年院上がりが、まともな職に就けるわけもない。僕はとある町工場に就職したが、そこは労働基準法なんて概念は存在しなかった。
社会から爪弾きにされた者たちの吹き溜まりのような場所で、毎日ろくに眠れず怒鳴られながら働いた。
同僚から暴力と共に金をむしり取られるようなことだって数知れずあった。
底辺の中の底辺のような生活。
でもそれでいいと思った。
だって人殺しの僕には幸せになる資格なんてないから。僕の犯した罪は一生消えることがないのだから。
こんなどうしようもない人生の中で、給料日の仕事帰りに、一人で近所の寂れた中華料理店で安酒を煽るのが唯一の娯楽だった。
その日も僕は油まみれのおかずを酒の肴に、ちびちびと焼酎を口に運んでいた。
そんな時だった。机の上に降りかかった水。
滴り落ちた水滴が足元を濡らして、じわりと染み込む冷たさ。
そして「すみません……!」酷く焦ったような声がして、隣の席に座っていた女性がコップの水をぶちまけてしまったのだとようやく気づいた。
「すみません、お洋服を濡らしてしまったみたいで……」
眉を下げるその女性は美人だった。
おおよそこんな汚い店には似つかわしくないような、洗練された雰囲気を持っていた。
その証拠に、店内の男共がチラチラとこちらを伺っているではないか。
「あの私、クリーニング代をお支払いします」
「い、いいです、そんな……ただの水だし……」
僕は生地が伸びきったようなチャイナ服を着たおばさん店員が面倒くさそうにこちらへ放ったタオルで
濡れた服や足を拭きながら、彼女の申し出を断った。
「でも、お料理にも水が入ってしまったし……」
「あの本当に、大丈夫なので……」
店内の視線を集めているようで、居心地が悪かった。彼女には悪いが、僕は僕のささやかな平穏を取り戻すために、彼女に早く立ち去って欲しいと思っていた。
「それなら、せめてここは私に出させて下さい」
その提案を断ってみても、今度は彼女も引かなかった。そして押しに負けた僕は、成り行きで彼女と一緒に酒を飲み交わすことになった。
はじめはまともに彼女の顔を見ることすら出来なかった。しかし酒が入るにつれ、段々と僕の口数は増えていった。
何せ彼女と僕はやけに趣味が合った。かつて高校生の僕が好んでいたマイナーバンドや作家。それらを彼女も好きだと言った時は感動すら覚えた。
少年院を出てから、こんなに人と会話をしたのははじめてだった。
彼女と話している時だけは、ただ懐かしいあの頃に戻れたようで―――自分が人殺しの犯罪者だということを忘れられた。
彼女はよく飲んでよく笑った。
その顔は、誰かに―――そう、僕のよく知る……“彼”に少し似ている。
酒に酔った頭で、そんなことをぼんやりと考えていたような気がする。
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