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3
「終電を逃した」
彼女がそう言ったのは、日付を少し回った時のことだった。
いつの間にか時間も忘れる程語り込んでいたことに僕はその時はじめて気づいた。
そしててっきり彼女も近所に住んでいるのだと思い込んでいた僕は狼狽えて、「確か駅前の方に漫画喫茶が……」なんて言ったと思う。
「あなたのお家に行きたい」
こんな時、何が正解かも分からない僕は、彼女のその言葉を断る理由も見つけられなかった。
彼女を僕のボロアパートに通して、途中のコンビニで買った酒で飲み直しをした。
ここでもよく笑っていた彼女が、突然静かになって具合でも悪いのかと不安になった僕は彼女の顔を覗き込んだ。すると彼女の細い指が僕の顔を掴んで
―――彼女の綺麗な唇が僕の唇に触れた。
そして万年床になっている薄っぺらい布団の上にふたりでもつれ込んで―――
その後のことは、正直よく覚えていない。
「おはよう。朝食ができてるよ」
その優しい声を目覚ましに、僕は跳ねるように飛び起きた。途端に襲いかかる激しい頭痛に顔をしかめる。
「大丈夫?」
隣には、心配そうに眉を下げる彼女の姿。
彼女は何故かその小さな顔を半分以上隠すようにマスクを着けていた。
ああ、夢なんかじゃなかった。薄らと思い出す昨夜の記憶。
僕は昨日、彼女と―――なんてことをしてしまったのだろう。
汚れたこの手で、誰かに触れる資格なんて僕にあるはずもないのに。彼女を汚してしまった。
ああ、どうしよう。
青ざめて震える僕に、相変わらず優しい声で彼女は言う。
「とりあえず、服を着て……それから一緒に朝ごはんを食べよう?」
「近くにコンビニしかなかったから、大したものはできなかったけど……」
恥ずかしそうにそう言う彼女。
粗末な折り畳みテーブルを広げた上には、ずらりと朝食が並んでいた。
この家で朝食をとるのなんていつぶりだろうか。
湯気から沸き立つ味噌の香りが鼻先をくすぐった。
「ほ、本当に食べていいんですか……?」
「勿論!」マスクをしていても、彼女がそう微笑んだのが分かった。
メイクを落としたのか、その目元は昨夜の記憶よりもさっぱりとした印象だった。
彼女のその笑みを見たら、知らずと入っていた肩の力が抜けていく。
その途端自覚した空腹に押されるように、僕はそっと箸を持って―――「いただき、ます」
「はぁい。いっぱい食べてね、 “ ” くん」
心臓が飛び出るように高鳴った。
硬直する身体とは裏腹に、指先が震える。
僕の手を離れていった箸が地面に転がった。
だって、今呼ばれたその名前は―――改正前の僕の名前。少年院を出てからの僕は、別の名前を使っている。昨夜だって彼女にはその名前を伝えたはずだ。
それなのにどうして、彼女がその名前を知っている?
「あーあ、落としちゃった……はい」
彼女が落ちた箸を拾い上げて、新しいものを僕に手渡す。まるで平然とした顔で、何でもないことのように。
「さあ、私も食べようかな」
そして彼女がマスクを外した。
間近でみるその顔に、覚える既視感。
その正体を、僕は知っている。
「……食べないの?」
僕をじっと見つめる目。
そこで気づいた。その目、その目だ。
まさか彼女は―――
僕は後ろに飛び退いた。その勢いでテーブルの上に味噌汁が零れる。
気づいてしまったら、全身の震えが止まらなかった。
声にならない声で口を開閉させる僕に向けて、彼女は再び微笑みながら言った。
「まずは朝ご飯を食べよう?
せっかく作ったのに、食べて貰えないなんて悲しいもの」
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