第三章 人は他者を自身の物差しでしか測れない 2

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第三章 人は他者を自身の物差しでしか測れない 2

 俺は家に戻り、自分の身に起きたことに恐れを抱いた。  さっき俺はプロデューサーの声が聞こえなくなった。  一切だ。  彼の発する一切の声が、俺に届かなくなったのだ。 「一体何なんだ?」  最初はピアノの音、次はプロデューサーの声。  他の人の声は聞こえた。  黒井さんとは普通に話ができたし、帰ってからも母さんの声は聞こえた。  特定の個人や特定の音だけが聞こえなくなる。  そんなの病気で起こり得るのだろうか?  あり得なくないか?    ピアノの音が聞こえなくなるだけでも十分おかしいのに、そこから特定の個人の声まで聞こえなくなる。  そんなピンポイントな病など聞いたことがない。  つまりこれは病気ではない何か……。  とりあえず誰かに話したい。  この秘密を共有したい。   「頼む! 出てくれ!」  気がつけば俺は天音に電話していた。  夕方のこの時間なら、学校からは帰っているはずだ。   「もしもし?」  受話器越しから聞こえる彼女の声に、俺は少し落ち着けた。   「もしもし? 俺だけど」 「流行りのオレオレ詐欺?」 「そんなわけないだろ!」 「ごめんごめん。それでどうしたの?」  天音はちょっとふざけてくれる。  彼女なりの優しさなのだろう。  いつもと変わらないように接してくれる。 「ちょっと会いたいんだけど」 「良いよ、こっちの部屋にきて」  そう言って天音は電話を切る。  突然の話なのにありがたい。  いま俺の症状を相談できるのは、天音しかいない。  母さんには、これ以上心配をかけたくない。  下手したら当事者の俺より先に、ショックで倒れるかもしれない。 「この謎は解き明かさないとな」  俺は着の身着のまま家を出る。  隣りの天音の家に向かって歩き出す。  途中に生えていた桜の木が、なんだか少し弱っているような気がした。 「何があったの?」  部屋に入るなり、天音がいつもの様子で尋ねてくる。  俺は努めて冷静に、プロデューサーの一件を話した。 「うーん……」 「どう思う?」  頭をひねる彼女に、俺は問いかける。  自分でも酷いと思っている。  いきなりこんな話をされて、どう思うもあったもんではない。 「酷いね、そのプロデューサー」  天音から出た答えは、予想の斜め上を向いていた。 「いやそうじゃなくて、確かに酷いけど、俺が聞きたいのはそうじゃ……」 「真希人はさあ、そのプロデューサーの声が聞きたくなかったんじゃないの?」  天音は一言そう告げる。  言われて納得する。  確かに聞きたくなかった。  というよりも失望したのだ。  その人間に、あのプロデューサーの人間性に。 「だから声が聞こえなくなったと?」 「そうとしか説明できないじゃない?」  病気ではない。  これは個人的には確信をもって言えることだ。  となると、残る可能性は一つしかない。  考えにくいけど、信じがたいけど、ここまで信じられないことが起きているのだから、もう納得するしかない。理解するしかない。 「じゃあ死神の呪いか?」  俺はやっと口にする。  病院で検査を受けていた時から、ぼんやりと思っていた可能性。    死神を俺は見ていない。  でも天音は見たと言っていた。  天音が俺に変な嘘を言ったことはない。  その場で終わるような小さな嘘なら冗談として何度もあるが、日を跨ぐほどの大嘘はつかない。 「真希人もそう思う?」  真希人もということは、天音はずっとそう思っていたのだろう。  まあ実際に見ているのなら仕方がないが……。 「死神なんていう眉唾な存在の是非を問う前に、実際に現代医学では説明がつかないことが起きてしまってるからな。特定の音や、特定の人間の声が聞こえなくなるなんて聞いたことがない」  俺は所見を述べる。  こんなのが病として認定されてたまるか! 「そうよね。だけど……」  彼女はここで言葉を濁す。  そうなのだ。  安易に死神のせいにしたくなかった理由はここにある。  死神の仕業と認めてしまうと、次の問題が発生する。  病なら治療法を探すなど、まだ足掻けるのだが、死神の仕業となってしまうとお手上げだ。  全くもって打つ手なし。  足掻きようがない。 「なあ天音」 「なに?」 「確か見たんだよな」 「そうだけど?」  天音は何をいまさらと言わんばかりだ。 「死神はどうやって消えたっけ?」  俺は彼女に尋ねる。  記憶があいまいだ。  あの日に天音が言っていたような気がする。 「……真希人の影に引きずられていった」  天音は思い出すように口にして、俺と同じタイミングで俺の影に視線を落とす。  俺と天音はまたも同じタイミングで顔を上げる。  二人そろって苦笑い。  そうやら考えていることは一緒らしい。 「死神はいま俺の中にいる」 「死神はいま真希人の中にいる」  俺と天音は同時に考えを口にする。  そして笑い出す。  あまりにも荒唐無稽な話なのに、二人そろって同じ結論に至ってしまった。    天音の言っていることが真実ならば、死神はどこにも行ってない。  死神は今尚、俺の中にいるはずだ。  俺から音を少しづつ奪っていく元凶が、いまも俺の中でほくそ笑んでいる。 「だからといってどうする?」  俺の影の中に死神がいるのは良いだろう。  良くはないけど、一度飲み込もう。  納得しよう。  ただ影から死神を引っ張り出す方法なんて知らない。   「呼んでみる?」  天音は提案しながらちょっと笑っている。  想像したら確かにちょっと面白い。  案外、呼んでみたらあっさりと出てくるかもしれないのだ。  シュール過ぎるだろう。  今までの俺の時間を返して欲しいものだ。 「もしもし? 聞こえますか? ちょっと出てきてくれません?」  天音は屈んで、俺の影に向かって対話を試みる。  数秒の沈黙。  黙って天音は立ち上がる。 「ダメだったみたい」  半笑いになりながら、天音は報告する。 「見たらわかる!」  俺は一緒になって笑い出す。  そりゃそうだ。  あんなので出てくるのなら苦労はしない。  でもなんだかスッキリした。 「ありがとう。久しぶりに笑ったよ」 「何よそれ! 私は笑わせるためにしたんじゃないんだけど!」  天音はそうは言いつつもまだ笑っている。  自分の行動を冷静に思い返して、ツボに入ったらしい。 「でもお陰で少し楽になったよ」 「なら良かった」  天音はそう言って俺の手を持つ。  驚いて彼女の顔を見ると、さっきまで笑っていたのに、今は真剣な眼差しだ。 「どんなことがあっても、なにがあっても私は君の味方だからね?」  ああこれだ。  この表情だ。  彼女が時折見せる真剣な顔。  絶対の味方宣言。  だから俺は彼女しか……。 「ああ。頼りにしてる」  俺はそれだけ言い残し、部屋を出て行った。
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