長谷川×山岡

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 キリキリ。キリキリ。胃が痛い。  ズキズキ。ズキズキ。胸が痛い。    苦しいとも。辛いとも。  ましてや、助けてなど言えるわけがなく。  薄い布団に丸まって。早く朝が来いと。早く学校へ行かせてくれと。唇を噛んで祈っていた。寝付きたくても寝付くことはできず、気の遠くなるような時間だけがただ過ぎてゆく。  外は雪。明日は積もるだろうか。  冬は苦手だ。部屋には暖を取るものがなくて、常に手足は冷たい。祖母がいた頃はまだ古いストーブを入れてもらえたが、入院したその日にこの部屋には何もなくなった。  それを祖母に言えるわけもなく。笑って大丈夫だと嘯く毎日。  彼らは、彼女にとって血の繋がった家族。けれど自分は違う。弟が生まれた時点で、要らなくなった。  誰も目を合わせない。  誰も話しかけてくれない。  誰も名前を呼ばない。  嘆いたところで虚しいだけ。いっそ明日の朝、息が止まっていないだろうか。そんな希望を抱いて睡魔をかき集める。  冬は痛い。  冬は嫌い。  冬は辛い。  冬は、怖い――。 「大丈夫。もう怖くないよ」  誰かが目元に触れる感触。山岡は濡れた睫毛を震わせて、眉間の皺を開いた。  なんだろう。ひどく重くて、鉛のようだった体が急に軽くなる。それにとても温かい。いい匂いもする。柔らかくはないが安心する心地良さだ。それがすぐそこにあった。 「よく頑張ったね」  尚、と。優しい呼び声。こんな風に呼ぶ優しい人が、昔祖母以外にいたような気がする。それは誰だったかと考えるが、上手く思い出せない。  ゆっくりと浮上する意識。顔に触れる温かなもの。撫でられる髪の感触。  穏やかに意識が覚醒する。目の前に映る温かい壁。何度か目を瞬き、これはなんだろうと身を捩った。  動けない。 「起きた?」  もぞ、と声のした方を見上げてみる。すぐそこに明るい栗色の瞳。目が合うと優しく細まった。そっと近づいてくる。  長い睫毛だな、とボンヤリそんなことを考えていると、鼻先が触れ合った。 「寝ぼけてるね。可愛い」 「……?」 「ご飯作ったけど、食べられそう?」 「ご、はん……」  口にした途端、腹が鳴る。可笑しそうに破顔する綺麗な顔。  なんだか嫌な夢を見ていた気もするが、気分は悪くない。かなり久しぶりの感覚だ。有難いことに頭も痛くなかった。  いや。それよりも。まだ夢を見ているのだろうか。何故、目の前に長谷川の顔があるのだろう。そもそも隣で一緒に眠っている時点で、現実ではない……はずだ。 「尚? なーお」 「……ぅ」 「う?」 「ぉあああああああぁぁーっ」  寝起きとは思えぬ絶叫で飛び起き、山岡は勢い余ってベッドから転がり落ちる。ゴチン、と鈍い音と痛みが走ったが、お陰で完全に目が覚めた。  周囲を見回し、常夜灯の薄い明かりの室内に瞠若する。紛れもなく、ここは寝室。全体的に和モダンのテイストで統一された上品な空間だ。  クイーンサイズのベッドは低床タイプ。両脇にはインテリア雑誌でしか見たことがないような証明が、優しく灯っていた。  余計なものは一切ない。ベッドと照明のみ。窓には大きな遮光カーテン。いい匂いの正体は、ヘッドボードに置かれた加湿器のようだ。  ギ、とスプリングを軋ませて長谷川がベッドから下りる。手を差し出されるが無視して立ち上がった。苦笑する長谷川から距離を取り、改めて自分が寝ていたのだと理解する。  本当にあり得ない。どうしてしまったのだろう。車に乗り込んで気を張っていた数十分間の記憶しかない。まさか、あの後すぐに眠ってしまったのか。 (嘘だろ……。あんなに眠れなかったのに) 「尚、ご飯食べようか? 前に志間くんから炊き込みご飯が好きだって聞いたから、作ったみたんだ」 (そうだよ、炊き込みが好きで……。え?)  炊き込みご飯? と山岡が長谷川を見る。彼は寝室の扉を開いて、明るい廊下に山岡を手招いた。  このまま寝室に閉じこもっているわけにもいかず、山岡は素直に長谷川の求めに応じて部屋を出る。正直、腹も空いていた。  志間たちに拾われるまで食欲とは縁遠い生活を送っていた山岡だが、志間の作る料理と美津根の美味しい珈琲に出会って食べる喜びを教えてもらった。その後、曽田がソルーシュに加わったことで海外の家庭料理などの味のバリエーションも増え、食事自体が楽しいものだと知る。  味の好みも出てきた。香味の強いものは苦手。辛いものも苦手。味の濃いものも好まない。好きなものは和食で、中でも炊き込みご飯が大好きだ。  あの家では食べる行為が苦痛だったため分からなかったが、山岡はかなりの大食いである。燃費は悪くないので食べなければ食べないで大丈夫なのだが、食べていいと分かるととにかく食べる。テレビに出てもいいレベルだった。志間にはネットで自分のチャンネルを持てと言われているくらいだ。 「はい、たくさん食べてね」  ダイニングテーブルに座らせられた途端、あれよあれよと埋まるテーブルの上。手伝うことも忘れて、山岡は運ばれてくる料理に魅入っていた。  大振りのアジフライ。黄金色の美しいだし巻き卵。手前にあるのは茶碗蒸し。香り良いすまし汁に、茄子の煮びたし。極めつけば、土鍋で炊かれた鯛の炊き込みご飯。  思わず涎が出て来て、慌てて口元を拭う。  ダイニングの時計は午後七時丁度。約二時間ほど眠っていたことになる。だとしても、材料のこともあっただろうに本当に彼が作ったのだろうか。 「これ、長谷川さんが?」 「好きなんだ、料理」  差し出された、茶碗大盛りの炊き込みご飯。呆然としながらも礼を言って受け取り、美味そうな匂いに喉が鳴った。  つい目が箸を探してしまう。手元で発見した途端、豪快に腹が鳴った。恥ずかし過ぎる。穴があったら入りたい。 「尚のために作ったから、たくさん食べてね」 「……ありがとう、ございます」  耳まで真っ赤にしながらも、山岡は食欲に負けて両手を合わせた。箸を取る。熱いうちに汁物に口を付け、目を見開いた。 「美味しい!」  三つ葉と卵とじのそれは、お世辞を抜きにして本当に美味しかった。山岡は賄いで生きているようなものなので、料理がほとんど出来ない。賄いは曽田と志間が交代で作ってくれており、作る出番もなかった。一度、部屋でチャーハンを作ってみたがベトベドして美味しくなかったのを覚えている。 「良かった」  嬉しそうにはにかむ長谷川に一瞬見惚れ、箸を落としそうになった。慌てて料理に視線を戻すが、なんだろう妙に気恥ずかしい。  汁物を置いて念願の炊き込みご飯を口に入れるが、こちらもビックリするくらいに美味しかった。濃過ぎず、薄過ぎず、絶妙の塩加減。ほんのりと香る出汁。白い鯛の身が輝くようで、行儀が悪いと分かっていても頬張らずにはいられない。  刻み生姜がアクセントになった煮びたしも、また最高だった。取り分けられた分を一気に平らげ、茶碗蒸しとだし巻きにも手を伸ばす。何より山岡が感動したのは、サクサクのアジフライだ。炊き込みご飯とまた合うのだ。  鯛とアジが喧嘩することなく共存し、舌の上でこれ以上ないほど美味く解れてくれる。 「お代わり、どうかな」 「頂きます」  土鍋に残る米を全て食らう勢いで再び山盛りにされ、目が輝いた。すまし汁もお代わりがあると言われ、遠慮なく頂戴する。 「尚はバーテンダーだから、お酒大丈夫だよね?」 「あ。俺、食事中は飲まないんです。長谷川さんはご自由にどうぞ」  熱燗をトレイに乗せて戻って来た長谷川に、山岡が茶碗蒸しを平らげながらそう告げた。 「長谷川さんって、小食なんですか?」 「いや、食べるよ。でも今日は機内食を食べてきたから」  なるほど、と頷いてだし巻き卵の皿を空にする。次から次へと皿の上のものを口に放り、美味そうに完食する山岡。そんな山岡を優しい顔で見守りながら、長谷川が徳利を傾ける。そんな穏やかで静かな空間が、不思議と居心地良い。 (……絵になる)  徳利傾けるだけで絵になるのだから、世の中はとことん不公平だ。  長谷川ほど美形になりたいとは言わないが、身長はもっと伸びて欲しかった。美津根がまだ伸びると言ってくれたので、思春期に食べられなかった分を今食べて最後の悪足掻きに勤しんでいる。  ――ピンポーン。  穏やかな時間が流れる食卓。そこへリビングの方から、来訪を告げるチャイムが鳴った。そろそろ八時近い。こんな時間に来訪とは、誰であろう。  箸を止めて時計を見上げながら、ハッとした。 「もしかして、彼女さんですか? お暇しましょうか?」 「君を口説いているのに彼女なんているわけないだろう? 馬鹿なこと言ってないで食べなさい」  呆れた顔で窘められて、山岡はそういえばそうだったと頬を掻く。食事に夢中で忘れていた。    ダイニングと続いているリビングルーム。長谷川がドアホンのスイッチを押して来客の相手を確認すると、モニターから大音量で叫び声が聞こえてきた。 「若! 大変ですっ、親父と叔父貴がまた……!」  男の声だ。野太く、長谷川より上に思える。  長谷川は応答することなく、無言でスイッチを切った。そのまま踵を返して戻ってくる。 「え、え? 長谷川さん?」 「部屋を間違えたみたいだ」 「そう……なんですか?」  ニッコリ、と。どこか有無を言わせぬ笑顔。山岡は曖昧に頷きながら、最後に残していたご飯を口に運んだ。全ての食事を綺麗に完食し、手を合わせる。 「御馳走様でした。物凄く美味しかったです」 「良かった、作った甲斐があったよ。曽田くんに聞いてたけど、本当によく食べるんだね。お茶はどう」  ――ピンポン、ピンポン、ピンポーン。  長谷川の言葉を遮って鳴り響く、軽やかな呼び鈴。  笑顔を張り付けたまま長谷川が、もう一度ドアホンの方へ向かった。 「お願いします若! 後生ですから! 二人を止められるのは若しか」  ブチッと話の途中でスイッチを切り、今度は何やら操作して戻ってくる。 「あ、あの……」 「最近、多いんだ。ああいう間違い」  困ったものだと笑う長谷川の目が一つも笑っていないのは気のせいか。  素直な山岡は疑うことなく頷き、テーブルの上の皿を手際よく片付ける。そこは流石のホールスタッフ。山積みになりそうな皿を二往復で運んで見せ、テキパキとテーブルの上を綺麗にしていった。その間、長谷川がお茶を淹れてくれる。 「ありがとう。助かったよ」 「いえ。食器は全部、食洗機に良かったんですよね?」 「うん。はい、お茶。熱いから気を付けて」  礼を言って、品の良い湯飲みを受け取った。長谷川はまだ飲むようで、彼の前にはだし巻き卵が残っている。山岡には長谷川が手作りのプリンを出してくれた。デザートまで作って冷やしておいてくれたらしい。  甘いものが大好きな山岡はまさかのデザートの登場に、目を輝かせて喜んだ。幸せそうに頬張る。  ――RRRRRRRRR。  ふと、今度は長谷川のスマートフォンが鳴った。沈黙が落ちる。長谷川は動かない。鳴り続ける着信音。山岡は電話と長谷川を交互に見比べて、なんと言えばいいのか分からずに黙っていた。  静かに長谷川が立ち上がる。キッチンのカウンターに置いていたそれを取り、長谷川の瞳が冷たく歪んだ。不快と怒りを隠せない鋭い視線に、一瞬目を疑う。これまで、柔らかな表情を崩すことのない長谷川。初めて見る彼の冷たい横顔に、ああいう顔もするのだなと新鮮な気分だった。 「ごめん、尚。仕事先からだ。少し席を外すね」  それが嘘であることくらい山岡にも分かったが、口にすることはない。きっと、さっきからドアホンを鳴らしている人物だろう。長谷川を若と呼んでいたが、一体何者なのか。親父だの叔父貴だの、なんだか任侠映画のようだ。 (流石にそれはないよね)  甘いプリンを完食して食洗機に突っ込んでも、長谷川は中々戻ってこない。  おそらく立て込んでいるのだろう。 (やっぱり帰ろう)  数時間ではあるが、ちゃんと眠れた。事情を話せば美津根たちも分かってくれるはずだ。食い逃げのようで気が引けるが、取り込んでいるのにこのまま居座ることはできない。  荷物を取りにダイニングを出た。 「帰れ」 「若……。そこをなんとか頼みます。後生ですから」 「尚が来てるんだ。親父だろうが叔父貴だろうが関係ない」 「尚、さん? あぁ、律子さんとこの坊ちゃんですね」  長谷川の影を追い、暇を告げようとして足を止める。  律子。それは大事な人、祖母の名前だ。長谷川と祖母が知り合いなのは写真で証明されたが、何故それを赤の他人まで知っているのだろう。  薄暗くて相手の顔はよく見えない。長谷川の知り合いのようだが、いつの間に招き入れたのか。 「分かったら帰れ。尚にはまだ知られたく――」  ない、と続けるはずだった台詞が消える。  それは、山岡と目が合ったせい。  振り返った長谷川が大きく目を瞠り、そのまま微動だにしなくなった。結果として盗み聞きしてしまったことになる現状に、山岡は慌てて頭を下げた。 「あの、すみません。お忙しいならお暇しようかと思って……」 「な……、尚」 「はい?」  初めて目にする、長谷川の焦った顔。声も掠れ、体は微かに戦慄いている。  よほど見せたくない一面だったようだ。  しかし、人に裏の顔があって当然だと思っている山岡は、さほど驚いた様子もなく小首を傾げた。何を知られたくないのかは分からないが、気付かないフリをしている方が彼の為になるのならそうしよう。 「その……、どこから」 「何がですか?」  そして今気付いたような素振りで奥にいる人物に目をやった。角刈りの厳つい顔が、真っ直ぐにこちらを見ている。身長は長谷川より若干低いが、全体的に体が分厚い。スーツの上でも分かる筋肉だ。年齢は四十代半ば頃。右目の上に縦に深い切り傷。潰れて開いていない。  明らかにカタギではない雰囲気だったが、山岡は臆することなく改めて一礼した。 「初めまして。山岡と言います。俺はこのまま帰りますので」 「必要ない。駄目だよ」 「でも長谷川さん、お客様が」 「君の方が大事だ。彼のことは気にしなくていい。すぐに帰る」  長谷川が角刈りの男を睨めば、男は慌てたように山岡へ頭を下げた。 「お初にお目にかかります。わたくし、滝川と申します。以後、お見知りおきください」 「は、はい。よろしくお願いします」  滝川と名乗った男は山岡を見つめて眦を下げ、小さく頷いた。 「そうでしたか……。分かりました。貴方がいらっしゃっているのなら、私が下がりましょう。若、失礼致しました。また参ります」  そう言って本当に踵を返して帰って行った滝川に、良かったのだろうかと長谷川を見上げる。彼は少し疲れた様子で額を押さえ、ロックをかけると山岡を奥へ促した。 「本当に良かったんですか?」 「もちろんだよ。プリンはもう食べた? 風呂の準備はしてあるから、入ってくるといい」  すっかりいつもの長谷川に戻っている彼に、これ以上滝川のことを尋ねるのはやめた。山岡にさほど関係があるとは思えなかったし、長谷川も訊かれたくないだろうと思ったからだ。 「そうだ。一緒に入ろうか」 「馬鹿言わないでください」 「露天風呂あるよ?」 「露天……、え?」  
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