長谷川×山岡

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 決して露天風呂につられたわけではない。  決して好奇心が勝ったわけでもない。  だが。これまで旅行なんてものに行ったことがない山岡。温泉など夢物語。あの家を出てからは、一度でいいから入ってみたいと思っていた。それが今、目の前にある。   (本当に、あった)  夜景の煌めく美しい展望。下に見る豆粒のような車の流れ。吹き抜ける風が、いつになく冷たい気がする。  案内を受けて確信したのだが、このマンションの部屋とんでもない広さだ。部屋がいくつあるの分からない。明らかに一人で住むタイプの間取りではない。 「ね? 本当だったろう?」 「……ソウデスネ」  確かに凄い。圧巻だ。椛の木や紗更で囲われた天然石の露天風呂。屋根が付いているので、小雨程度なら問題なく入れる。淡く輝く灯篭が和の雰囲気を一気に底上げし、優しくも上品な空間に仕立て上げていた。  先ほどの寝室といい、長谷川は和のテイストが好きなのかもしれない。西洋の血が入っていそうな容姿なので、少々ギャップを感じる。 「今日のお湯は、どこのだったかな……。ちょっと待ってね」  そう言ってスマートフォンで何か調べ始めた長谷川に、どういう意味なのだろうと首を傾げる。 「あぁ、今日のは下呂温泉のお湯だ。岐阜の温泉だよ。知ってる?」 「有名な温泉なので、名前くらいは」  下呂温泉。岐阜県にある日本三名泉の一つ。無色透明のアルカリ泉。大変まろやかな湯質で、老若男女問わず愛され続けている名泉だ。  湯気立つ目の前のお湯を眺めながら、ふと生まれた疑問をぶつけた。 「……あれって、下呂温泉なんですか?」 「うん。お湯自体は温くなってるから、追い炊き機能で温め直してるけどね」 「温泉が、日本中から届くと?」 「前に、柚野(ゆの)から教えてもらったサービスなんだ。以来、僕も愛用してる」  柚野。それは長谷川のパイロット仲間の名であり、曽田を口説くと宣言した男だ。かなりの長身で、百九十センチは軽く超えていたのを覚えている。旧財閥、柚野グループの三男坊。誰よりも金持ちのくせに近隣の商店街のタイムセールに精通している、よく分からない人物だ。  育ちを鼻にかけない朗らかさが、山岡は嫌いではなかった。山岡たちを見る目とは全く違う雰囲気で曽田を見つめるあの瞳を、なんとなく応援したくなるのは……内緒である。 「すぐに入れるよ。準備しておいで」  そう言われた直後、再び長谷川のスマートフォンが着信音を鳴らした。一言断って長谷川が電話に出る。途端、彼の表情が厳しくなった。足早にその場を離れながら、低い声で何か話をしている。  山岡はしばらく長谷川を待っていたが、中々戻って来ない。どうしたものかと頬をかく。このままここで突っ立っていても仕方がない。約束は守るだろうと腹を括った。風呂の準備をしに露天風呂を出る。もし手を出すようならば、長谷川もその程度だったというわけだ。  とりあえず寝室に戻ると、ベッドの横に荷物が置いてあった。さっきは気付かなかったが、長谷川が運んでくれたのだろう。風呂の支度を済ませて露天風呂へ向かう途中、リビングから出て来た長谷川と鉢合わせる。 「尚、ちょっと出てくる。留守番をお願い。すぐに戻るから」 「ぇ、えっ?」  口早にそれだけを言うと、長谷川は本当に出て行ってしまった。返答する暇もない。  右を見て。左を見て。誰もいない、だだっ広い空間。一人マンションに取り残された山岡は、思わず本音を零した。 「らっきぃ……」  これで心置きなく、露天風呂を堪能できる。  きっと電話は滝川からのものだ。やはり一人では処理できなかったか。  誰もいないのに、こっそりウキウキしながら露天風呂へと急ぐ。脱衣所で豪快に服を脱ぎ、先に体をと髪を洗ってから露天風呂を拝んだ。手を合わせてしまったのは、それだけ妙に神々しく思えたからだ。  透明なお湯なのに温泉だと思うだけで心が躍る。ソルーシュでお金を貯めて、いつか温泉旅行に行くのを目標にしていた。ここは温泉宿ではないし思っていたのと少々異なるが、温泉は温泉。思わぬところで、ちょっとだけ夢が叶ってしまった。  へへ、とニヤける顔を隠せず湯に浸かる。  解放感のある露天風呂。旅行気分とまではいかないが、知らない場所であることに違いはない。ふぅ、と高い天井を見上げて大きく伸びをした。軽く泳げそうな広さだ。  パイロットが高給取りなのは山岡も知っているが、どうも長谷川はそれだけではない。実家が相当な金持ちか、他に不労収入があるか。 (ま、俺には関係ないか)  どんなに長谷川が裕福でも、山岡には無関係。他人の金に興味などない。  鼻元まで顔を沈めて、出て行った長谷川のことを考える。もし本当に滝川からの電話で実家に行ったのなら、揉め事の仲裁をしに行ったはず。親父や叔父貴とやらが山岡の想像する人物像かは分からないけれど、無事に解決できるのだろうか。長谷川も慣れている様子だったし問題はないと思うが、やはり若干心配なところはある。 「いやいや、なんで俺が心配してんの」  思わず声に出して否定し、頭までお湯に浸かった。  長谷川がもし怪我でもして帰ってくれば、断るいい口実になるではないか。滝川のこと。家のこと。万が一そっちの道の家なら、正直に関わりたくないと言えば済む。 (……)  血塗れで帰ってくるなんてことにはならないとは思うが、さっきから任侠映画のイメージが離れていかない。  湯から顔を出し、ゆっくり浸かっている気分にもなれずに上がることにした。手早く着替えを済ませ、水を一杯頂こうとダイニングに入る。全室空調管理が行き届いているが、風呂上りはやはり暑い。  首からかけたタオルで軽く汗を拭きながら、ウォーターサーバーで水を一杯貰った。リビングの壁に掛けてある時計を見る。流石に寝るにはまだ早い時刻だ。長谷川の出掛けた先が遠いのか近いのかは知らないが、帰って来る気配もない。鍵を持っていないので帰ることもできない。  何より、やることがなかった。暇なので、早々に寝支度を整える。そのままリビングのソファに寝転がり、静寂に身を委ねた。一応自分の携帯電話を確認してみるが、連絡は入っていない。連絡先を教えていないのだから当然なのだが、なんとなく長谷川なら何かしらの方法を用いて番号を入手していそうだと思った。  山岡は未だに、いわゆるガラケーと呼ばれるものを使っている。理由は単純。スマートフォンが高いからだ。ネットには無縁の生活が長かったため、特に不自由も感じない。    ただ、バーテンダーを初めてから客との会話で困ることがあり、格安のスマートフォンに変えようか悩んでいた。なんだかんだと客商売。会話について行けないのは致命的だ。  その点、美津根は大変博識で、客との会話もよく弾んでいた。酒が目当てではなく、美津根と話したくて来店する常連客も多かったくらいだ。憧れの美津根に少しでも近づきたいのなら、やはりそれなりの情報は頭に入れておくべきだろう。  ゴロゴロしていても仕方がないので、普段から持ち歩いているメモ帳とペンを荷物から取り出して来た。リビングのテーブルでそれを開く。メモの内容は、酒に関する美津根からのアドバイスとソルーシュで出しているカクテルのレシピだ。  一応全て頭に入れてあるが、最近はオリジナルカクテルを作ってみたらどうかと美津根に言われていた。自分なりに色々考えているものの、これといったものが出来上がらない。  美津根のオリジナルカクテル『ソルーシュ』は店名を冠した一品。美津根がカウンターに立たなくなりレシピを引き継いだが、正直彼が作るものと自分が作るものでは『ソルーシュ』の深みと味わいが全然違う。  ソルーシュは、オレンジとブルーのコントラストが美しい、シンベースのカクテルだ。同じ分量で作っているのにこうも違うのは、シェイクの仕方が原因だった。こればかりは練習しかないため、一生懸命頑張っている。  その時、ガチャ、と近くで扉の開く音がした。集中していた気付かなかったが、既に一時間が経過している。それは長谷川が帰宅した音だった。 「あ……、お帰りなさい」  何とも言えない空気感。照れくさい。別に変なことは言っていないはずなのに、ソルーシュのメンバー以外に言ったのが相当久しぶりで気恥ずかしい。 「ただいま」  嬉しそうに表情を柔らげた長谷川が、しかしすぐに顔を顰めて口元に手をやった。今気付いたが、長谷川の左頬が赤く腫れている。口元は既に赤黒く変色していた。 「大丈夫ですか?」 「ン、平気。こんなの、大した事ないから」 「ダメですよ、ちゃんと冷やさないとっ」  すぐにダイニングへ走り、勝手に冷凍庫を漁って首からかけていたタオルの使ってない方に包む。 「すみません、こっち側は使ってないので今だけ我慢してください」  驚いている長谷川の手を引いてソファに座らせ、顔に氷をそっと押し当てた。血の滲む口の端。切っているらしい。 「これ、お仕事柄マズイんじゃないですか?」 「明日から三連休でね、っ……たた」 「ああ、喋らないでください。また血が出てきた」  タオルの端で血を拭うが、やはり清潔な方がいいだろうと思いタオルはどこかと尋ねる。 「俺、取ってきます。脱衣所ですか?」 「……」 「ちょっと待ってて――」  カラン、カラン。音を立ててフローリングに転がる、無色透明の塊。  強引に引き寄せられて腕の中。息が苦しいほど強く抱き締められていた。 「……行かないで」  初めて聞くような、抑揚のない声。動けない。不思議と腕を振りほどく気にもなれない。山岡は黙って長谷川の腕の中にいた。それで長谷川が落ち着くなら、今だけいいかと思えた。  沈黙が流れる。重くはない。嫌な感じもしない。ただ、ちょっぴり長谷川のことが心配だ。体がとても冷たいのだ。外が寒かったのか、それとも彼が落ち込んでいるせいか。  長谷川は何も言わない。無言で山岡を抱き締めている。山岡もまた黙って腕の中にいた。本当は、何があったのか尋ねたい。けれど口にはしない方が、きっといい。 「え? ぉ、おぅぅっ?」  ゴロン、とソファの上。正確には長谷川の上。三人掛けの大きなソファに横たわった長谷川。驚いて体を起こせば、彼が利き腕で目を隠していた。逆の腕は未だ山岡の背に回っており、やはり動けない。 「ごめんね。……ありがとう」  それが何に対しての謝罪と感謝なのかはよく分からなかったが、なんとなくこれで良かったのだと感じた。手を出してくる気配もないので、今日だけは許してやろうと思う。それだけ長谷川が落ち込んでいたからであるが、自分もつくづく甘いなと長谷川の胸に頭を乗せた。  規則正しい心臓の音。段々と瞼が重くなってくる。小さな欠伸と閉じる瞳。こんなところを志間あたりが見たら大変なことになりそうだ。そんなことを考えながら、意識が優しく霞んでゆく。  微かに頭を撫でられる感触。それがやけに心地いい。 「尚。明日の朝、何が食べたい?」 「……、お……みそ、しる……」 「え、味噌汁?」  これ以上は答えるのが億劫。口を開くのが面倒くさい。 「尚? ……って、寝ちゃったか。可愛いな」  すやすや。  ふわふわ。  沈む。沈む。    柔らかな夢の中。寒くない。痛くない。苦しくない。 「なんの味噌汁にしようかなぁ……」  もう、怖くない。
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