長谷川×山岡

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 新生活が始まって、三週間。 「広すぎて、意味が分かんない」  掃除機片手にため息一つ。  長谷川の部屋は特別仕様で、他の部屋とは間取りからして違う。なんでもこのタワーマンション自体が長谷川の実家のものだそうだ。しかも、このフロアには長谷川以外誰も住んでいなかった。  使っていない他三つの部屋も、もちろん長谷川名義の所有物。清掃業者が定期的に入っているらしい。この部屋にも業者が入っているが、山岡が常時部屋にいることを受けて暫くの間休止することになった。何が原因で弟に居場所が特定されるか分からないため、念には念を、と言われた。  正直、弟のことは思い出すだけで震えが走る。どうやってソルーシュを突き止めたのかは知らないが、今更何故自分などを探しているのかが分からない。  山岡は遠くに引っ越した。素直にそれを信じてくれればいいが、プロを使っていた探し出したのなら嘘はすぐにバレる。  きっとあれは、長谷川や美津根が山岡を落ち着かせるために口にした方便。そんな簡単な嘘では欺けないことを承知しているからこその、雲隠れだ。  弟には極力会いたくない。もう二度と顔も見たくない。弟の方もあれだけ嫌っていたのだから、会いに来る理由はないはずだ。  成人してすぐに分籍した。時間はかかったが、それだけで気が楽になった。山岡の姓をそのまま名乗っているのは、唯一これだけが敬愛する祖母との繋がりだからだ。  祖母の律子は、山岡にとって心の支えだった。彼女だけが山岡を愛してくれた。人として扱ってくれた。大好きだった。祖母のいなくなったあの家に未練などなく、山岡は卒業式を終えたその足で姿を消した。 「ふぅ……」  駄目だ。昔のことを思いだすと、すぐに暗くなってしまう。こんなことではいけないと、改めて掃除機のスイッチを入れた。  実はフロアごと買い取った理由を、山岡はなんとなく察している。おそらくだが、長谷川の実家が原因だ。彼にも色々とありそうな匂いがする。だとしても、それは山岡も同じ。詮索するつもりは毛頭ない。  あれ以来、滝川も姿を現さずに平和そのものだ。今日は長谷川は仕事で最終便で北京に飛んでいるため、帰って来ない。明日も帰国してから何便か国内を飛ぶそうで、帰宅は明後日の予定だった。 「こんなもんかな」  家賃を受け取ってくれない長谷川に、ならばと申し出た家事全般。料理は長谷川のストレス発散だそうで、彼がいる時は全て任せている。材料の買い出しも徹底されていて、長谷川がいない時は宅配で届く仕組みになっていた。  掃除機を片付け、手を洗ってから休憩に入る。最初の頃こそお茶一杯飲むのにも緊張していたが、長谷川と一緒に暮らし始めて早二週間。いい加減慣れてきた。  自分の適応能力に驚く一方、あまり干渉してこない長谷川にも驚かされる。てっきり何かにつけて構われると思っていたので、これは助かった。  長谷川の作る美味い食事と、日替わりで届く日本全国の名泉。最早それらは最高としか言いようがなく、むしろ大変快適に生活させてもらっている。とにかく料理が美味いのだ。  ただ、ベッドが一つしかないのが唯一の難点だった。自宅から布団を持ってくると言っても許可されなかったため、結局長谷川の寝室で一緒に寝起きしている。今のところ何かされる気配もない。お陰で毎日快眠できており、顔色も体調も人生史上最高だ。  一緒に生活してみて分かったことだが、長谷川は空気を読むのが上手い。山岡の嫌がるようなことは一切しないばかりか、寛げるようにさりげなく気遣ってくれる。山岡はそんな長谷川を、一人の男性として尊敬し始めていた。  昨日長谷川が焼いてくれたマドレーヌを温め直し、紅茶を淹れてソファに腰掛ける。午後三時。穏やかなお茶のひと時。こんな風にのんびりとした毎日を過ごすのは初めてだった。  ソルーシュに行けないのは残念でならないが、精神的に落ち着いている。あの弟が来るかもしれないのに、こうも平常心を保っていられるのは偏に長谷川が匿ってくれているから。ありがたい。心底そう思う。  ネットで注文したカクテルの本を片手に、優雅な三時のティータイム。レシピの開発が中々進まず、何かのヒントにならないかと購入してみた。日本全国にいるバーテンダーと彼らのオリジナルカクテルが紹介されている一冊だ。分厚いが非常に読み応えがある。  まだまだバーテンダーとしは駆け出しの山岡は、こんな自由な発想があったのかと感動しなが読み進めていた。何よりこの本には、ソルーシュの美津根が掲載されている。まだ山岡がソルーシュに入る前の美津根が、カウンター越しに微笑んでいた。 「やっぱ凄い人だ……、うん」  しかも表紙。美津根の嫋やかな笑顔が、あまりにも麗しい。彼の凄いところは、美しいだけでなく実力も備わっているところ。彼から見せてもらったレシピノートは数十冊に及び、改善点や新作レシピなどが網羅されていた。事件以前は暇を見つけては各地のバーを訪問し、勉強していたそうだ。  自分も今出来ることを頑張らねば。そう意気込んでページを捲る山岡に届く、チャイム音。本から顔を上げ、インターフォンの前に立つ。  しかし、山岡がボタンを押して相手を確認するより先に玄関の開く音がした。ここは三十階。一階にあるフロントと警備員が常駐しているホールを抜けるには、まずはこちらから許可を出す必要がある。しかも二十階から上階に住む住人には専用の拘束エレベーターがあり、部屋のカードキーを挿入しなければ動かない仕組みになっていた。  長谷川だろうか。欠航にでもなったか。 「お待ちください! 若の許可を、……親父ッ!」  違う。  長谷川ではない。  この声は滝川だ。  彼が部屋のカードキーを持っているのは先日の一件で予想がつくが、まさか突然入ってくるとは。呆然と立ち尽くす山岡の前に、リビングの扉を開いて和装姿の老人が現れた。  帽子に和装コートを羽織り、落ち着いた色のマフラーを巻いている。日本でかけている人を初めて見たモノクルが、凛とした風貌に大変よく似合っていた。手には風雅な扇子。どことなく長谷川を彷彿とさせる風貌に、血筋を感じる。  身長は百七十センチ半ば。年齢は七十代前後。威風堂々という言葉を体現したような細身の老人は、山岡を見るなり目を眇めて値踏みしてきた。 「お前さんが、あれが拾ってきたとかいう小僧か」 「え、……ぁ、の」 「何が目的だ。金か」 「か、金?」  なんの話をしているのだろう。  困惑する山岡を余所に、老人は汚物を見るような視線で静かに告げた。 「出て行け。お前さんのような小僧に、隼人(はやと)は勿体ない」  隼人。それは長谷川の下の名前。  どうも何か勘違いされている気がする。それをどう説明すればいいのか分からずにいると、手に持っていた扇子を鼻先に向けられた。 「出て行けッ」  鋭い一喝に肩が震える。  一瞬、山岡家にいた頃を思い出して足が竦んだ。  青ざめる山岡に、後からリビングへ入って来た滝川が割って入る。 「おやめください!」 「そこを退け、滝川。こんな小僧に現を抜かすとは、隼人の奴め何を考えておる。まだ女を取っ替え引っ替えしていた頃の方がマシだ」 「律子さんの、お孫さんですよ!」  分かりやすく老人の顔が歪んだ。  嫌悪感丸出しのその表情に、ますます体が強張る。 「馬鹿を言うな。儂が尚大の顔を間違えるわけがなかろう。あの屑めが、思い出すけでも忌々しい」 「親父。……尚道さんです」  そう告げて体を引き、滝川が改めて山岡を紹介した。  老人の眉が微かに跳ねる。  落ちた沈黙。  長い沈黙。  破ったのは、扇子が床に転がる大きな音。  みるみるうちに老人の表情が変わり、大きく瞠った双眸がこちらを真っ直ぐに見下ろしてきた。戦慄く手がこちらに伸びてきて、先に怒鳴られたせいで山岡は咄嗟に頭を顔を両腕で庇う。  何かの崩れ落ちる音がしたのは、その直後だ。 「わ、儂は……なんという、ことを……」  床に両手両膝をついている老人から、グレージュ色の帽子が転がり落ちる。 「律子お嬢さん……っ、申し訳ございません!」  そう声を上げて懺悔し始めた。  何がなんだかサッパリ分からないが、怒鳴られたり殴られる様子はなさそうだ。それに安心して、帽子を拾い上げる。 「あ、あの……これ」  恐る恐る帽子を差し出せば、その手を掴まれた。老人のものとは思えぬ力強さに、山岡は素直に怯える。それだけ彼には言い知れぬ迫力があった。 「顔を、顔をもっとよく見せてくれ。さっきは本当にすまなかった。儂としたことが、なんたる不覚。……嗚呼、律子お嬢さん。ようやく見つけましたぞ」 (律子、お嬢さん……?)  祖母のことだろうか。長谷川も祖母の律子とは知り合いだった。証拠の写真まである。滝川も律子の名を知っていたし、可能性は高い。  確かにこの老人は祖母と同年代に見えるが、どういう関係なのだろう。 「まさか、うちの愚孫と一緒におったとは。……一言も、聞いていなくてね」  地を這うような声と鋭い視線を向けられて、滝川が困ったように頭を下げた。長谷川に口止めされていたと白状し、その場に土下座して謝罪する。 「まぁよい。彼に免じて許そう。さて、積もる話もある。参ろうか、尚道くん」  そう言って立ち上がった老人が帽子を被り直して、山岡へ手を差し出した。   (え、……え?)    ◆ ◆ ◆  カポーン。  遠くから響いてくる、鹿威しの涼やかな音。なんとも風流だが、いかせん現状はちっとも宜しくない。 「ささ、遠慮なく食べておくれ」  目の前に広がる、洋菓子和菓子に中華菓子。ケーキ、クッキー、大福、葛餅、マファール、月餅、普通であれば到底一人では食べ切れない量だ。香り良い日本茶を一口含み、山岡はこっそり目の前の老人を見つめた。  彼の名は長谷川泰造(たいぞう)。長谷川の祖父であり、この家の当主でもある。純日本家屋の大広間。その上座に半ば強制的に座らせられた山岡は、チラっと泰造の少し後ろに並ぶ男たちに目をやった。  滝川を中心に横並び二列で正座をしている、スーツ姿の男たち。睨まれているわけでも威嚇されているわけでもないのに、凄まじい威圧感だ。 「甘いものは嫌いだったかな?」 「い、いえっ、大好きです」  慌てて目の前の大福に手を伸ばして嚙り付く。 「あ、美味しい……」  上品な甘みと柔らかい餅の触感が絶妙。思わず顔が綻び、それを見た泰造が満足そうに頷いた。後ろの男たちも、分かりやすく表情を和らげる。  泰造を前に上座に座っているのは落ち着かないものの、美味いものは美味い。一口、また一口と食べ進めてゆく。山岡が食べ進めるたびに泰造が嬉しそうに微笑むので、気付けば粗方食べ尽してお茶も飲み干してしまった。  すぐに代わりのお茶が用意され、分厚く切り分けられたロールケーキやフルーツタルト、団子類がテーブルに並ぶ。  ここは甘味処か? と疑うような品数だ。 「律子お嬢さんが、君が大食いなのを隠していると話してくださったが、本当によく食べる。まだまだあるから、沢山食べなさい。お茶は紅茶の方が良かったかな?」  祖母が見兼ねて外に連れ出してくれた時、祖母の馴染みの店で蕎麦を食べるのが習慣だった。あまり気にしていなかったが、祖母にはバレていたらしい。  恥ずかしくて手を止め、小さくなりながら謝る。 「……す、すみません」 「何を謝る。見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。滝川、フルーツもあっただろう。持って来てあげなさい」 「いいいい、いいえっ。もう十分です!」 「若いモンが遠慮することはない。メロンは好きかな?」 「大好きです。っ、じゃ、なくて……!」 「ハハハハ! 正直で結構!」  パッと扇子を開いて上機嫌に扇ぐ泰造に、滝川と数名の男がすぐに部屋を出て行った。戻って来るなり、食べやすく切り分けられたメロンを出してくれる。  美しい淡い緑。見るからに高級品なのが一目で分かった。北海道特産の有名ブランドが脳裏に浮かび、これだけで幾らするのだろうと目算してしまう。  泰造や滝川たちに礼を言って、フォークに手を伸ばした。一口サイズにカットされたそれを頬張り、目を瞠る。 「美味いかね」  咀嚼しながら大きく頷いた。美味い。美味すぎる。手が止まらない。ソルーシュに入って曽田がメロンを出してくれたこともあったが、糖度が全然違う。  結局、山岡はメロンもケーキ類も全て出されたものは食べ尽してしまい、無理矢理連れて来られた緊張感も忘れて三時のおやつを堪能した。 「嬉しいねぇ。これでも、君をずっと探していたんだ。良かった……、本当に良かった」  しみじみと喜びを噛み締める泰造に、山岡はどうやって切り出そうかと密かに考えていたことを口にする。 「あの、祖母とはどういうご関係なんでしょうか? ……俺は、あの家では少し訳ありで」 「大丈夫、分かっているよ。律子お嬢さんは、儂にとって命の恩人なんだよ。戦後しばらくして、日本が這い上がろうとしていた時代に生まれた儂は、生きるのに必死だった。悪いこともした。警察の世話にもなった。どうしようもないゴロツキに成り下がり、気付けば似たような者たちを引き連れて組織まで築いていた」 (組織、……極道ってこと?) 「だが、どんなに威張っていても病には勝てない。流行り病に倒れた儂を、仲間だと思っておった奴らが早々に見捨てて消えた。金を持ってな。そんな時、儂を助けてくださったのが、律子お嬢さんだった。律子お嬢さんは今で言うところの看護師で、御父上が医者をなさっていた」  祖母が昔、看護師をしていたことは山岡も知っている。山岡家に嫁いでからは看護師も辞めたようだが、色んな昔話を聞いた。  優しい人。懐の広い人。祖母らしい逸話に、山岡も表情を和らげる。 「九死に一生得た儂は、律子お嬢さんの御恩に必ず報いと誓った。君のことは、くれぐれも宜しく頼むと言われていたが……少々邪魔が入ってね」  扇子を畳んであらぬ方向を睨む泰造に、後ろに控える滝川たちの表情も険しくなった。何事かと思うが、安易に訊ける雰囲気ではない。  山岡は祖母が死んだ後、遺言通り高校までは卒業して家を出た。卒業間近が人生最悪の地獄だった。思い出そうにも頭が拒否して、受け付けない。また発作が出ると困るので、あえて考えないようにしていた。 「それはそうと、尚道くんや」 「は、はい」 「うちの隼人とは、どこまでいっておるのかな。同棲している以上、結婚も視野にいれているんだろう? 挙式は海外か? 籍はどうする。儂も老い先短い。できれば早急に披露目だけでも行いたいのだが」 「……ハイ?」    間抜けな返事をしたの直後、けたたましい着信音が鳴り響く。慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、相手はまさかの長谷川本人からだった。  一言泰造に断って、電話に出る。 「も、もしも」 『そこにいる祖父に電話代わってくれるかな、尚』
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