出会いの君と逃げる君(長谷川×山岡)

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出会いの君と逃げる君(長谷川×山岡)

 客も引いた昼下がり。  そろそろ休憩に入ろうかとしていたところに、入店を告げる(リン)が鳴った。 「こんにちは」  笑顔で入店してきた、長身の男。明るい栗色が特徴的な髪と瞳。ラフだが品のあるサマーニットにスラックス。柔らかで温かく、それでいてどこかゾッとするような凄味のある笑顔が、真っ直ぐに山岡へ向けられる。  何度見ても綺麗な顔だ。神様は実に不公平だと痛感する。  山岡は営業スマイルを引っ込めて、きつく眉根を寄せた。  仕事帰りなのか、手に荷物を持っている。毎度お馴染みの紙袋は、今度は一体どこの国のものなのか。 「……いらっしゃいませ」  視線は逸らしたまま。ニコリともせず口先だけの歓迎。接客業としては完全にアウトだ。しかし入ってきた客は楽しそうに笑うだけで咎めはしない。嫌な顔一つしない。優雅な足取りで近づいてくるなり、手に提げていた紙袋を差し出した。 「はい、これ。お土産」 「何度も申し上げておりますが、結構です」 「美味しいよ?」 「いりません」  軽く一礼をして背を向け、店の奥に引っ込んだ。  毎回毎回、甘い物につられると思ったら大間違いだ。  羽田空港近くにあるこのソルーシュは、上手い南仏料理を食べられる店として有名なバルである。  山岡が運良く店長である志間(しま)と副店長の美津根(みつね)に拾われて、ソルーシュで働き始めたのが約二年前のこと。一人家を出て、騙されて、店の前で野垂れ死にしそうだったところを二人に助けてもらった。 「あれ、長谷川さん。こんにちは。今度はどこにフライトだったんですか?」  店の奥からホールに顔を出した、短髪の青年。年齢は二十代後半。人懐っこい表情に程よく焼けた肌。身長は百七十センチ弱。この店の店長である志間だ。  ソルーシュの店名は彼が海外で出会った大恩人の名前から取っており、この店を起ち上げるきっかけを作ったのもその人物だった。志間は彼の写真を、神だなに飾るほど尊敬している。 「こんにちは、志間くん。今回はフランス。カヌレが美味しいって評判の店があってね。気に入ってもらえるかと思ったんだけど……」  駄目だったと微苦笑を浮かべる長谷川に、志間が笑顔で着席を進める。 「諦めます?」 「まさか」  三か月前。山岡を含めたソルーシュの従業員三人を口説き落とすと宣言した、パイロット三人組。そのうちの一人が長谷川だ。彼は山岡狙いだった。  跪いて愛を乞う様はまるで物語のワンシーンのようで、閉店後の店内に従業員から思わず拍手が起こったほどだ。しかしその後、まさか自分に被害が及ぶとは思わなかった美津根と曽田は、自分を口説き落とすと跪いた男たちに目を剥いて青ざめ、そのまま見事に硬直してしまった。  志間はパイロット側のお助け人。三人には随分と相談されていたようで、告白の場所に店を提供したのも志間だった。 「山岡ちゃん、まだちょっと人を信じきれないトコロあるんで」 「大丈夫。分かってるよ」  チラ、と長谷川が店の奥を見れば、山岡が物陰からこちらを見ている。目が合うと慌てて引っ込んでしまったが、その愛らしさに長谷川が一段と笑みを深くした。 「なんか食って行きます?」 「(なお)が淹れてくれたお茶を一杯」 「りょーかい」  尚、と呼ばれた山岡は物陰に隠れたままでいたが、注文を聞いて俯いていた顔を上げる。いくら苦手な相手でも、客は客。注文は注文だ。    身長が百六十センチ丁度しかない、男性にしては小柄な山岡。本名を山岡尚道(なおみち)。一昨年成人したばかりのソルーシュ最年少だ。少し長めの前髪は人の視線を遮るため。不潔感はないが、野暮ったさが拭えない。それでいて肌は白く華奢で、先日買い出しに出た際は中学生に間違えられた。  山岡は自分の容姿が大嫌いだった。 「長谷川さん、また来たのか。マメだねぇ」 「曽田(そだ)さん……」  ソルーシュの厨房を取り仕切る若き料理人。明るい金髪。黒い瞳。派手な頭の割に作る料理は堅実的な、帰国子女。ソルーシュに入る前は、外資系の一流ホテルでチーフを任されていた。 「ほら、ポット」 「ありがとうございます」    曽田とは二十センチ近く差があるため、曽田に合わせて設計してあるキッチンでは手が届かないことが多い。そのため専用の小さな丸椅子を準備し、ちょこまかと動いてお茶を準備する。  基本的に山岡はホールスタッフだ。夜になるとバーテンダーにもなる。元々は副店長の美津根がバーテンダーを務めていたが、二年前に起こった事件以降、人前には出なくなった。山岡が拾われた直後のことだ。それからしばらくして美津根の猛特訓を受け、山岡がバーに立つようになった。 「あれ? 今日の日替わり茶、ジャスミン茶じゃなかったっけ?」 「……」  用意しているお茶が菊花茶だと分かり、片付けを済ませていた曽田が不思議そうに山岡の手元を覗き込んできた。山岡は無言でお茶を淹れ終えると「間違えました」と呟いて、そそくさ厨房を出て行く。間違えているのに、ホールに出た小さな影。  去り際、山岡の耳が赤いことに気付いた曽田は、合点がいったように小さく笑った。  目の疲れに効果のある菊花茶。フライトを終えた長谷川のためにあえて用意したのだろう。日替わりとは違うお茶を出す山岡に、抜け目のない長谷川が気付かないわけがない。鈍い山岡ではバレているだなんて微塵も考えていないだろうが、長谷川からするとそこが可愛いのかもしれない。 (……変な意味は、ないぞ)  そう言い聞かせてお茶を運び、すぐに奥へ戻ろうとして引き留められた。無視しようかとも思ったが、相手は一応客だ。渋々振り返り、言葉を待つ。 「ありがとう、嬉しいよ」 「別に、ご注文通りのです」  優しく笑う長谷川に、山岡はどんな顔をすればいいのか分からなくて俯いた。  口説かれ続けて、早三か月。太古の昔からの定番プレゼント攻撃はもちろんのこと、連絡先を教えていないために店に送られてくるラブレター、暇を見つけては来店して小まめ会いに来る正攻法。そのくせ無理強いすることはなく、強引な真似をするわけでもなく、大人しく帰って行く。正直、彼がどこまで本気なのかは恋愛初心者の山岡にはサッパリ分からない。  チラ、と長谷川を盗み見る。  年齢三十一歳。身長は百八十センチ後半。この若さで機長を務め、その柔和な物腰と圧巻の美貌からロイヤルカローラ・エアライン——RCAの顔の一人だ。昨年表紙を飾ったRCAのカレンダーは発売開始数分でソールドアウトした。あまりにも人気が高いので彼のフライトスケジュールを不正に入手しようとする輩が後を絶たず、そのため彼の情報は社内トップシークレットとして管理されている。  そんな男が、だ。こうもモテる男が、何故自分なのかと山岡は疑問でならない。男がいいタイプなのだろうか。人の性的思考をどうこう言うつもりはないが、この遺伝子を世に残さないのは少々勿体ない気がする。 (だいたい、どこで会ってるんだろ……?)  山岡は全く覚えていないのだが、以前長谷川と会ったことがあるらしい。それも、まだ山岡があの家にいた頃。大好きな祖母が健在で、どうにか人間として扱われていた高校生の頃だ。しかし結局祖母が死に、血縁関係の全くない山岡はゴミ以下の扱いに耐えかねて家を飛び出した。  もう二年も前のことである。無知とは恐ろしいもので、それまで必死に貯めていたはした金も赤の他人に騙し取られてしまったけれど、捨てる神あれば拾う神あり。志間と美津根に出会えたことは、幸運以外の何者でもない。  山岡は今、確かにゴミではなく一人の人間として平穏に生活していた。 「尚」  名を呼ばれてハッと我に返る。ボンヤリしていた山岡が長谷川を見ると、彼に一枚の封筒を差し出された。 「はい、証拠」  そう言って微笑む彼に、思わず封筒を受け取ってしまう。訝しく思いながらも中身を確認した。一瞬また赤面必須のラブレターかとも思ったが、そうではない。 「これ、は……」  出会った当初、山岡が自分と会ったことのある証拠があれば持ってこいと長谷川に言ったことがある。そうでなければ認めないと。  手にした一枚の写真。割と古いものだ。データが送れないため、出力したらしい。 (嘘じゃ、なかったんだ)  写真の中で笑っている祖母と長谷川。そして、うつむき加減の学生が一人。日本人でも珍しいほどの深く黒い髪。長い前髪のせいで目はほとんど見えない。肌は青白く、体は今よりも骨ばっていて、どこか痛々しい。  間違いない。これは、自分だ。あの当時は祖母以外の人間全てが、山岡の敵だった。気を抜けば打ちのめされる。虐げられる。だから毎日必死に歯を食いしばって生きていた。  祖母の体調が思わしくなく、入院してしばらく経ってからの一枚だ。祖母がいなくなったあの家は地獄そのもので、当時の記憶が山岡にはほとんどない。それだけ、心が死んだ。過酷なものだった。 「ね? 本当だったろ?」 「……」 「少しは、思い出してくれたかな」 「……無理」 「やっぱり、思い出さない?」 「……。思い出したくない」  つい、本音が零れる。ズン、とうなじから全身にかけて違和感が走り、重いような熱いような感覚が駆け抜けた。マズイと思い、すぐに呼吸を止めて酸素を吸い過ぎないようにするが、体が震えて上手くいかない。  口を塞ぐ。店に迷惑をかけたくなくて堪えるが、異変に気付いた志間が顔色を変えて駆けて来た。しかしそれより先に大きな影が山岡を包む。キツイくらいの抱擁だった。力強い腕と、押し付けられた分厚い胸板。  温かい。  とても、温かい。 「ごめん。ごめんね。忘れていい」  嫌なことを思い出させた、と背を撫でられる。  山岡は動けなかった。長谷川の胸に顔を押し当てたまま微動だにしない。ただ大人しく、抱き締められている。  不思議なもので、大きな手のひらに何故だかホッとした。優しい手の感触に、少しずつ呼吸も穏やかになってくる。  頭の上から聞こえる、落ち着いた大人の男の声。  大丈夫と囁かれるたび、鼓動が静まる。  体から力が抜け、ゆっくり目を閉じた。自分を口説いている男の腕の中なのに、やけに心地が良くてジッとしていた。他人の鼓動をこんなにも近くに感じたのも初めてだった。  背を撫でていた手が、髪に触れた。こんな風に頭を撫でられたのも、生まれて初めてかもしれない。おかしな話だ。もうすっかり呼吸は落ち着いたのに、されるがままだなんて――。 「怖くないよ。大丈夫。いい子だね」  ほとんど子供に言う台詞だが、どういうわけか嫌ではない。むしろ眠くなってきた。口説かれる気はないというのに、落ち着くとはどういうことだろう。  分かっていても、瞼が重い。普段、睡眠が非常に浅い山岡。睡眠時間は大変短く、それをソルーシュのメンバーにも心配されている。睡眠薬には頼りたくないので、アロマだったりハーブティーだったりと色々試しているが見事に何もハマらない。効果がない。 「どうしよう志間くん……。可愛い。このまま持って帰っていい?」 「駄目で~す。というか、そろそろ離してあげてくださ――」  カクン、と足が膝から崩れて倒れそうになる。それを長谷川が受け止め、そのまま横抱きに抱えられてしまった。そこでようやく自分が一瞬寝入っていたことを自覚し、霞む目を擦った。 「寝不足かな。平気?」 「……平気」  だから下ろしてくれと告げたところで、志間が山岡の顔を両手で強引に包んだ。 「眠いの?」 「……はぁ。まぁ、ちょっと」 「山岡が眠いってぇっ?」  厨房から曽田まで出て来た。  二人に顔を覗き込まれて、目を瞬く。 「長谷川さん」 「ん?」 「持って帰って良し」 「俺も許す」  グッと親指を立てる志間と曽田に、山岡が完全覚醒する。冗談ではないと長谷川から身を捩って離れ、強引に着地した。しかし二人から許可を貰った長谷川が、長いリーチで詰め寄り再びホールドしてくる。 「ちょ、っ、やだ」 「山岡ちゃん。長谷川さんに寝かしつけてもらいな」 「そーだぞ、山岡。寝てこい。そのままの意味で」 「何言って……っ」 「いいの? 本当に連れて帰るよ?」 「いいですけど、手は出さないでくださいね。この子、ガチで睡眠に問題アリなんですよ。これまで何してもホント駄目で」  志間の言葉に、なるほど、と長谷川が頷いた。満面の笑みで山岡を見つめ、小さな体を抱え直す。 「ちょっと!」 「任せて。ちゃんと寝かしつけるから」 「はぁぁぁあ?」 「お願いします。期待しています」 「店長っ」 「山岡ちゃん。これ、店長命令ね」  普段、従業員にはすこぶる甘い志間の、珍しい店長命令。  本気で山岡のことを心配する志間だからこそのものだ。  志間と美津根に拾われて以来、山岡はソルーシュの三階で寝泊まりしている。給料から家賃や光熱費を引いてもらっているが、食費はほとんど賄いで事足りるため大変有難い環境であった。  最上階では美津根と志間がシェアハウスしており、曽田は近くのアパートに部屋を借りている。元々美津根も別に部屋を借りていたのだが、事件が起こってからは、志間が強引に美津根を呼び寄せた。  中学時代からの友人であるらしい、志間と美津根。普段美津根に頭の上がらない志間であるが、いざという時は店長の威厳と貫禄を見せる。  志間も美津根も二十代後半の若さでこの店を完璧に取り仕切り、山岡は彼に恩と同じく憧れも抱いていた。ソルーシュのメンバーの中では曽田が一番年上だが、ソルーシュに入ったのは一番遅い。それもあって曽田は憧れというよりは、いい意味で兄貴分のような存在だ。 「ああ、神様。ありがとうございます。長谷川さんで眠れるなら、いっそ同棲してくれてもオレは全然構いません」 「俺が構いますッ。何言ってるんですか!」  断固として拒む山岡だが、完全に多勢に無勢。分が悪い。  今日は営業時間が夕方までとはいえ、お持ち帰りされるなど冗談ではなかった。眠れないのは日常茶飯事なのだし、もう諦めている。今更少しばかり眠れたところで何かが変わるとは思えない。 「こら、お前たち。まだ開店中だぞ」  客らしい客がいないのをいいことに、ぎゃぁぎゃぁ煩くしていると、店の奥から呆れた声が届いた。  勝手口から戻ったのか、救世主の出現に山岡の目が輝く。ソルーシュの制服の上から羽織る、分厚いカーディガン姿の艶やかな佳人。銀行に行っていた副店長の美津根だ。  身長百七十センチ。華奢だがスタイルがいいせいでひ弱に見えない。例の事件をきっかけに表舞台から身を引き、今は事務方を一人で担っている。元々は腕のいいバーテンダー兼バリスタだった。常連客に乞われ、昼間の数時間だけ珈琲を淹れている。ただしホールには出ない。出られないのだ。  彼はある事件を境に、他人に触れることも、触れられることもできなくなってしまった。仲間内では接触障害と呼んでいる。手には常時、白い手袋。それが彼の生命線だ。  そこに立つだけで色香漂う、艶やかな青年。長い黒髪は美容室に行けなくなったためで、時折自分で切っている。美しい黒髪を後ろで一本に束ね、そこから覗く左耳の小さな赤いピアスが彼のトレードマークだった。  慌てて彼の元へ駆け寄り、助けてくれと頼んだ。ソルーシュのメンバーだけは不意を突いて近寄っても問題ないため、美津根の表情も柔らかい。  微苦笑しながら、どうしたのかと尋ねられたので志間と曽田に裏切られたと正直に訴えた。 「裏切る……?」  (かおる)? と美津根に呼ばれ、志間がヘラヘラしていた表情を一転させる。背筋を伸ばし、首を左右に超高速移動させた。隣の曽田も天井を見つめたまま直立不動だ。 「ち、ち、違っ。山岡ちゃんのため! 山岡ちゃんが、長谷川さんと一緒だったら眠れそうなんだよっ。だから今晩、試しに一緒に寝てもらおうと……」 「そうなの? 山岡」 「っ、違います! そ……その、ほんのちょっとだけ、ウトウトしただけなんです」  微かに美津根の瞳が瞠る。長谷川と山岡を交互に見つめ、それから仕方なさそうに息を吐いた。 「なるほど、分かった。――長谷川さん」 「はい」 「山岡を、宜しくお願いします」  丁寧に深く頭を下げる美津根に、志間と曽田が胸をなでおろす。  ソルーシュに存在する、暗黙ルール。それは、美津根だけは絶対に怒らせてはならない。静かに、こんこんと説教をする美津根は本気で怒ると怖いなんてものではない。それを身をもって知っている二人は。美津根が自分たちの方についたことで、大義名分を得た表情だった。逆に死相が出たのは山岡だ。 「美津根さんっっ?」 「山岡。僕はもちろん君の味方だけど、だからこそ眠れていない事実は改善して欲しいと思っている。心配だ。不安も感じている。大丈夫、彼のことは安眠枕だと思えばいい。少し大きいけれど、そのうち慣れるよ」 「な、慣れる……って」 「長谷川さん。承知のことと思いますが、手は出さないでください。もし合意の上でなく手を出したら、今後一切ウチには出入り禁止です」    涼やかな笑顔で優しく脅す美津根に、長谷川が目を丸くして宣誓のポーズを取る。至極真面目な顔をして、「誓います」と宣言した。  結局、この流れにはどうしても逆らうことができずに、山岡は一晩だけ長谷川の部屋に泊まることになってしまった。まったくもって不服だが、志間だけでなく美津根まであちら側についたのでは対抗手段がない。  それだけ山岡にとって志間と美津根は存在が大きく、恩を感じていた。彼ら二人が自分のためにならないことはしないと、たった二年程度の付き合いだが素直に認めることができているからだ。  とはいえ、だ。  ニコニコと嬉しそうな、一回り近く年上の男を見る。  何が悲しくて自分を口説いている最中の相手の家に泊まりに行かねばならないのか。美津根が念を押してくれたので大丈夫だと思うが、そもそもこの男が傍にいて眠れるわけがない。きっと先ほどのアレは気のせいだ。 (……でたよ)  荷物を抱えた途端、追い出された店の前。そこには小学生でも知っている有名な超高級車(ハイブランドカー)。しかもかなりカスタマイズされている。洗練された美しい黒色と、重厚感のある深い色味のウッド内装。この一台だけで郊外のマンションが買える値段だ。  高給取りめ、と思うが口にはしない。その通りだからだ。事実を告げたところで虚しいだけだ。 「さ、どうぞ」  優しい笑顔で助手席に促す長谷川。  山岡は一つ嘆息して、荷物片手に乗り込んだ。ようは一晩寝て帰ってくればいいだけのこと。ただそれだけだ。  そう言い聞かせ、いい匂いのする車内で長谷川のマンションへと向かう。  二度と気を許すものかと意気込み、両手に拳を握った。  数十分後。  涎を垂らして熟睡する山岡に、一人ほくそ笑む長谷川の姿がそこにはあった。
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