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白いゼラニウム
公営団地の廊下に立ってインターホンに指をかける。真夏の日差しが背中を焼き、セミがうるさいぐらいに鳴いていた。
意を決してインターホンを押す。数十秒待つと扉が開いて薫先輩が出迎えてくれる。
「いらっしゃい。どうぞあがって」
気丈に笑顔を浮かべる薫さんの声は弱弱しく無理をしているのが手に取るように分かった。
狭い公営団地の一室に小さな仏壇が置いてあり、あどけない笑顔で笑う五歳くらいの男の子の写真が置かれている。
仏壇に手を合わせて焼香をする。薫さんの息子である隆は先日ベランダから落下して死亡した。
薫さんは買い物に出かけており、旦那である悟先輩は仕事で不在で隆くんは家で一人だった。
ベランダで遊んでいた隆くんはエアコンの室外機に登り誤ってベランダの柵を乗り越えて落ちてしまった事故死だと警察は言っているそうだ。
薫さんに勧められるままリビングのテーブルに座る。目の前にコップに入れられたお茶と切られたスイカが皿に乗せられておかれる。
「おかまいしてもらわなくても大丈夫ですよ。薫先輩無理しないでください」
俺の言葉に薫さんは苦笑しながらスイカを切る為に使っていた包丁をテーブルの上に置き向かいの席に座りながら言った。
「スイカもらったけどとても食べる気にならないから、食べてくれると助かるかな」
息子を亡くしたばかりなのだ。食欲がなくて当然だろう。仕方なくスイカを一つもらって口にする。
「……なんでかな。全然泣けないんだ。とっても悲しいはずなのに」
遠くを見るように窓を眺めながら薫さんが呟く。
「ひどい母親だよね。自分の息子が死んだのに泣きもしないなんて」
「……きっと感情に体がついてきていないんだと思います。泣けるときになったら泣けますよ」
「……だといいんだけど。君は優しいね」
薄く笑ったその笑顔はとても綺麗で儚げだった。憔悴しているもののその笑顔は初めて大学で出会ったあの頃を思い出させる。
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