組曲のために 後編

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 クリスマスにはツリーを飾る代わりに、小百合お手製のスノードームを飾った。小百合はDIYにはまっているようで、休日に一〇〇円ショップでリボン、ラメ、オーナメントを買いこんだ。家に余っていたガラスの壜、使い古しのスポンジ、液体のり、接着剤と買った材料で作ったという。  壜の蓋は真っ赤なリボンで彩られ、サンタクロースが足から逆さ吊りに接着されていた。せーの、の掛け声とともにひっくり返すと、サンタクロースのオーナメントは直立し、その周囲を液体のりと水の混合液がドロドロと上下に動く。キラキラしたラメは光を反射しながら浮遊して、その様は幻想的でメルヘンに誘うようで、西洋の絵本の世界そのものだった。大人も子どもも喜ぶ手工芸品だった。 「電気、消しましょうよ」  小百合にいわれ、壁のスイッチをパチンと反対に倒した。闇の中に灯る小さな蝋燭の灯りに、スノードームは照らし出された。ガラスの小壜に入ったラメが煌めき、クリスマスムードはいっそう高まった。  小さめのケーキに、赤、青、黄色、緑などさまざまな色の細長い蝋燭を挿し込み、ライターで順々に火をつけた。クリスマスらしさはピークに達した。宅配で取ったハーフピザと、コンビニのサラダを食べた。そのあと、小百合が紅茶を淹れ、ふたりでケーキを食べ合った。  その晩、彼女の枕元にプレゼントを置いて深い眠りについた。ささやかなプレゼントだった。オモチャではなく、宝石や貴金属、高価な服や雑貨でもない。金がないし、弁当屋でパートをする身分に似つかわしくないだろうと考え、少し頭をひねってみた。  プレゼントとは、球体のDIYだった。フィラメントの切れたボール状の電球に、使わなくなったCDやDVDをハサミで切り刻み、接着剤で貼り付けた簡単なオーナメントだ。ネットで検索して、作れそうなものを探した。町中やネット通販では売ってない、世界に一つだけの品物を作り上げた。翌朝、目覚めて枕元の箱に気づいた小百合は、さっそく箱を開け、「これ、きれい!」と子どものようにはしゃぎ声を上げた。彼女の弾んだ声と明るい表情に満足した。  夜、早めに帰宅し、プレゼントの球体オーナメントを天井から吊るした。再び部屋を暗くし、蝋燭だけを灯す。球体はキラキラと光を反射し回り出した。  こうして、クリスマスはささやかな手作りの品で演出し、オレたちは悦に入った。  彼女の出身は高知で、結婚の報告を兼ねて昨年の正月に顔を見せに戻って以来、一年ぶりの帰省だった。正月二日にオレと一緒に高知に戻った。  去年は緊張してよく見定められなかったが、小百合の家族は見るからに純朴そうで、気さくな人たちだった。  義母の幸江さんは、娘が生家に里帰りするなり、 「よく帰ってきたね。達夫さんも疲れたでしょう。上がってゆっくりしてください」  とねぎらって、沓脱でスリッパを出してくれた。オレは玄関でコートを脱いで丸め、片手に掛けた。廊下を歩き居間に入る。昔ながらの木造の古い家は、風通しがよくて湿気がない分、冬になるとかなり寒かった。四国まで車で来たので、車内の暖房に体が慣れ切っていて、家の中は相当に寒かった。  部屋では大きなストーブが焚かれていた。鴨居にハンガーが吊るしてあるのが目に留まった。ハンガーには、丸に三つ星の半纏が掛かっていた。灯油の燃えるにおいが妙に懐かしく感じられた。座卓の前にえんじ色の冬用座布団が四組敷いてあった。  どちらに座ろうかとためらっていたら、廊下に近い方にアタシが座るから、達夫さんは窓際に、と小声でいった。身内になったとはいえ、慣れなくて落ち着かず、とても緊張していた。気付くとふだんやらない正座で座布団に座っていた。幸江さんがお盆に日本茶を運んできて、 「どうぞ、足を崩してくださいね。疲れるでしょ」  ニコリと微笑んだ。オレは足を崩す前に立ち上がり、 「新年おめでとうございます」  頭を下げて挨拶した。 「あけましておめでとう。本年もよろしくお願いします」  幸江さんは背中を丸めてお辞儀をした。それにつられてこちらもお辞儀を返した。ジャケットの胸ポケットからポチ袋を取り出し、少ないですが嗣春くんに渡してください、と手を伸ばした。 「あら、お年玉。どうもありがとう」  幸江さんは口元を片手で押さえ、ポチ袋を受け取った。嗣春くんは、小百合の姉の麻由さんの長男だった。いま高一で甥にあたる。  朝の八時に神戸を出発し、高知に着いたのが一二時過ぎだった。用意していたように、タイミングよく雑煮が出てきた。どうぞお構いなく、といいながら熱いうちに箸をつけた。餅を食い、汁を啜りながら、義父と幸江さん、オレたち二人の四人で話した。  姉の麻由さんは、正月から仕事に出かけて留守だった。実家から車で少し行った場所の大手スーパーで、新年から働くらしい。パートなのだそうだ。同じパートでも正月休みのある小百合とはずいぶん待遇が違う。小百合の方は弁当屋なので、会社が休みに入る盆と正月は長い休みになった。 「仕事の方はどう?」  幸江さんから訊ねられ、オレは包み隠さず喋った。 「仕事はなんとか一人前に認められるようにはなりました。ただ、人手不足で忙しいのと、そもそも受注がじり貧で減りつつありまして」  会社の窮状を打ち明けた。 「まあ、そうですか。どこもたいへんでしょう。給料もなかなか上がらないと聞きますけど、健康には気を付けてくださいね」 「気を付けます。ありがとうございます」  幸江さんの心遣いが嬉しかった。他にも、義父と景気や経済、政治情勢などの世間話などをしているうちに日が傾いてきた。 「そろそろ日も暮れるので、これでお暇いたします」  オレは脱いで畳んでおいたコートを取り、ジャケットの上から袖を通そうと立ち上がった。 「もっとゆっくりしていけば?」  幸江さんはいったん引き止めたが、 「明日も早いので、このへんで。きょうはご馳走になり、本当にありがとうございました」  とやんわり断って辞去した。帰りが遅くなりそうなので、晩飯は神戸で食べようと車の中で提案した。  帰り道、橋を渡ってハーバーランドのサイゼリヤに寄った。こういうときのファミレスはありがたかった。オレはステーキを、小百合はスパゲッティを頼んだ。待っているあいだ、ドリンクバーを利用した。オレはいつものようにコーヒーを啜り、小百合はメロンソーダを美味しそうにストローで吸い上げた。  帰省のときも、正月が明けても、小百合に大きな変化の訪れはなかったはずだった。  急に妻が家を出ていったのは、一月末のことだった。まったくの青天の霹靂だった。以前から不満や愚痴などはいっさい彼女の口から出ず、オレはただ唖然とするしかなかった。この青木のアパートを出ていくまで、普通に二人向かい合って食事をとりながら話を交わしていたのだから。  いったい、なにがあったんや? 小百合に何が起きたんや? 頭の中にはいくつものクエスチョンマークが林立した。パート先の店長にも、近所の奥様連にも、恥を忍んで訊ねてみた。が、納得のいく回答は得られなかった。 「いなくなった? びっくり。寒山さんのどこに落ち度があったのかしら」 「行くあて? さあね。こっちが訊きたいよ。パートのシフトも困っとるし、制服も借りたままで返してもらってないからな」 「どうしちゃったのかしら。過去に知り合った男から連絡でも入ったとか、借金を肩代わりするために行方をくらましたとか? 念のため、警察には届けた方がいいわよ」  いろいろとみんなからいわれた。パート先で使っていたエプロンと帽子は、クリーニングに出してから勤め先に返した。持参したとき、残りの給料を茶封筒に入れて手渡された。店長も、勤務態度はよかったで、と首を捻るばかりだった。隣に住む主婦の言葉に従い、警察に家出人として捜索願を出しておいた。  穏やかなはずの小百合が、オレに腹を立てて家出する理由や、昔付き合っていた男の影響などは微塵もなかった。手掛かりは、メモ一枚に綴られていた文字の伝言だけだった。  達夫さん、ごめんなさい。ここに居られなくなりました。      さゆり  たったこれだけの文章でなにが分かるのか。いられなくなる事情が思い当たらない。念のため、高知の実家にもいきさつを話した。反抗期のときでも家を空けたのは一度もない子でしたよ。電話口で訝られた。麻由さんのところへも連絡を入れてみたが、こちらには来ていない、と告げられ肩を落とした。  どうしろというのか。オレはどうしたらよいのだろう。仕事にも身が入らず、そうかといって休む理由もない。魂は抜け殻のようになって通勤電車に乗り込み、車窓を呆けのように眺めていた。会社の入り口に吸い込まれ、機械のように仕事をし、帰りには自動ドアから吐き出される日々が過ぎた。  再び独身に戻って二月を迎えた。ぼんやりと冬の夜空を見上げて過ごした。北風が窓をガンガンと叩いていく。なぜオレの元を去っていったのだろう、小百合は。  そんな疑問が心にいくつもの渦を巻いては泡となって消えた。座卓の上に置いた熱燗をちびりちびりと飲んで忘れようともした。  ごめんなさい。ここに居られなくなりました――。  一体、小百合は何に対して謝っているのか。オレに対してやろう。ここにいられなくなった本当の理由とはなんだ。誰かが訪ねてきたのか。これから訪ねてくるのか。ここの住所が知られるとまずいのか。いくら頭をひねっても何の解決にもならなかった。  小百合は、湯呑みと少しの食器類を残し、服や下着、傘、靴、化粧道具などの日用品にいたるまで自分専用の品物すべてをかばんに詰め込んで、夜中のあいだに忽然と姿を消した。いま考えても、鮮やかな手口だった。よほど緻密で周到な計画をもって実行したに違いない。夫のオレにすら相談できない秘密か悩みを抱えていたのだろう。露見しないよう、平静を装って。  だんだん薄気味悪くなり、小百合の奇行がミステリアスにも、SF的にも感じられてきた。その昔、小説『砂の女』で読んだ筋を思い返そうとした。その中身は、とらえがたい不可解な現実、日常に潜む市民の真相をテーマにした小説だったとどこかで見た。主人公の男は、立ち寄った砂丘に住み着いた。実に奇妙な筋立てだった。砂の女か。オレは飲み尽くした酒壜を恨めし気に見て、独りごちた。まさかとは思った。小百合がどこかにフラリと立ち寄り、そこから抜け出られないなんてことは……。しかし、安部公房の小説には、まさに不条理な状況下での人間の生き様がリアルに描かれていた。小説の世界が小百合に起きたとは思えなかった。数週間もすれば、旅先から戻ってきたように、いつもの明るい声で、「ただいま」とドアを開けてくれそうな気がしてならなかった。  ふと、去年のカレンダーを引っ張り出してみた。もしかしてと思い、ページを繰った。一二月、一一月、十月。とくにおかしな予定や記号、数字、文字などは書き記されてなかった。  九月。一日からザッと指で辿りながら観察していき、一四日で指が止まった。  これだ!   一四日に奇妙なものを発見した。赤ペンで、「∴」と打ってある。なんだ、これは。三角関係? 茶畑? 一四日に? 隣人のアツシに聞いたところ、これは「ゆえに」という数学で用いる記号らしい。「ゆえに」か。それが意味するものはなんや。親父に確認を取ってみたら、「下」とか「三つ目」だと主張した。もう何が何だか分からない。オレが付けた記号でないことだけは確かだ。「ゆえに」を他の月で探してみたが、見あたらなかった。なぜ九月一四日だけにあるのか。それを知ってどうなるのか。三つ目ならば、そうしたキャラクターのアニメや漫画は見かけたことがある。小百合、∴、ゆえに、三つ目。なにも結びつかなかった。  一四日は金曜日だった。金曜に小百合のしそうなことは――。だめだ。いつもと変わらずパートに出て、おそらく決まった時間に帰ってきて家事をする姿しか頭に浮かばなかった。パート終わりに誰かと会っていたのか。オレは会社で仕事をして、遅くまで同僚と飲んでいた。次の日は、競馬中継のテレビを観た。  そうか、競馬だ。いつだったか、テレビをつけっぱなしのまま競馬新聞に目を落としていたときがあった。新聞の記号に小百合は関心を示したのを覚えている。 「〇とか◎とか、馬についているのね」 「◎が本命の馬。〇がその対抗馬。二番手やな」 「△もあるわ」 「三番手以下や。競馬紙によっては☆もあるで。記者のおススメや」 「面白い。予想する人っていろいろと馬を見るんでしょ?」 「もちろん。毛並み、馬体重、前走、親の系統、適性の馬場。数えきれないほどのデータを揃えて判断するんや」  馬の話をしばらく聞いていた様子だった。いや、専門用語のあたりは聞き流していたのだろう。ところで、カレンダーの記号に戻ると、小百合の中では、「・」が「〇」、「‥」が「◎」、「∴」が「三重丸」だとしたら。想像は次第に膨らんできた。本命中の本命、大本命が∴なのだろうか。  地元の図書館に通ってさらに詳しく調べてみることにした。 「家紋の可能性がありますね」  清楚な司書は、はきはきとした口調で、オレの疑問に想定外の答を告げた。点三つが三つ星という家。その三つを丸で囲めば丸に三つ星か、松浦三つ星と呼ばれ、松浦氏の用いる家紋らしい。点の大きい三つ星と丸三つ星は、岩田氏、大岡氏、川村氏、児島氏、柴山氏、出口氏、西氏、星田氏、三神氏、三賀氏、山田氏、渡辺氏などの定紋で、替紋を含めると二九氏に及ぶ。点の小さいのは松浦氏のみだ。 「他に横に一をかいた三つ星の毛利氏などもありますが、それは除外して考えましょうか。三つ星は将軍星として好まれた、との文献もあります」  司書は文献を引いてそう教えてくれた。「さらに」と美人の司書は続け、「星座で、三つ星と検索をかけたら、オリオン座、夏の大三角と出ました」と星のことまで調べてくれた。もしかしたら、その記号は、家紋いがいに、オリオンの三つ星を示している可能性もある。そう指摘した。  とりあえず、家紋に関する本を数冊借りて、小百合の知り合いの名前を実家で調べてもらい、ファックスで送ってもらった。その結果、松浦という女の友人がいる事実が分かった。九州の長崎県や佐賀県に多い姓らしい。どうやら、九月一四日に松浦三つ星の家紋を記して、松浦さん(もちろん結婚していれば旧姓だが)と会っていたような気がしてきた。  それを裏付けようと、実家に再び問い合わせてみた。松浦亜美という女の人ならクラスにいた。たしか、高校のとき、長崎県から四国に引っ越してきた人よ、と幸江さんはいった。カレンダーの符号と松浦姓の家紋が一致したわけで、偶然とは思えなかった。あながち馬の予想記号も外れておらず、亜美こそが小百合にとっての「大本命」に相当する可能性も出てきた。  問題はそこからだ。亜美と九月一四日に会っていた。それが引き金となり、数か月先、夜逃げ同然で服や靴まで持ち出す理由はまだ不明だった。その答は司書に訊いても、警察に訊いても分からない。  幸江さんに、亜美からの年賀状を調べてもらい、彼女の自宅の住所と電話番号だけを頼りに、週末、四国に行ってみた。謎解きの探偵気どりで出掛けた。ヴィッツで三時間半かけて高知に着いた。松浦亜美は結婚して東藤亜美に姓を変え、地元の高知市内で暮らしていた。小さい子を持つ主婦だった。小百合について訊きたいことがある。電話を掛け、近所の公園で会った。 「電話で申し上げたように、小百合の夫で寒川と申します。一月に小百合が突然失踪してしまって。ご存知のことがあれば教えてほしいんです。どんな小さなことでもいいので」 「小百合とは数年ぶりに会いました。それが去年の九月の半ばでした。神戸に用事が出来たんです。当日の一週間ほど前、その日に会おうと小百合に持ち掛け、彼女は承諾して会ってくれました」 「そのとき、変わった様子や、年明けにどこかへ行く、といったことを小百合が口にしませんでしたか」 「何も聞いてないです。会ったときも、私の話を落ち着いて聞いてくれて。どうしちゃったのかしら」  公園の砂場で遊ぶ子どもにときどき目をやりながら、亜美は親しくしていた友人の足取りを心配してくれた。どうやら小百合の失踪とは無関係な様子だった。  畢竟、亜美の口から妻の足取りに関する新しい情報は出なかった。亜美との接点は途切れた。小百合が亜美と会ったのは間違いない。本人が明言したのだ。カレンダーの九月一四日に亜美と書かず、∴の家紋を記したのは少し判然としないが、確かだろう。その後、小百合が失踪した理由について、亜美も首を傾げていた。  オレはもっと困っていた。頭の中のモヤモヤした霧が晴れなかった。神戸に帰りながら、車中でつらつらと考えた。  待てよ。小百合の名は、渡辺小百合である。渡辺と松浦。どちらの家紋にも三つの星があるやないか。共通項が存在した。なにやら秘密めいたにおいがしてきた。そういえば、二度目に高知を訪ねた正月、鴨居に掛かっていたのが丸に三つ星の半纏だった。今ごろになって気付いた。  その晩、酒浸りになり、日本酒のあてにあたり目を買ってきた。あたり目を歯でしがみ、ぼんやりしていたら、歯で下唇を噛んでしまった。紅い血がタラリと唇から垂れた。食うのを中断し、ティッシュで止血した。血に染まったティッシュを見て、不吉な連想をした。行方不明の小百合が血にまみれ、野垂れ死にしている凄惨な現場が頭に浮かび、慌てて打ち消した。手で頬をつねった。痛みがつねった箇所からじわりと広がり、現実と認識できた。洗面所に行き、軟膏を唇に塗り込んだ。  酔いが醒め、スマホで検索をかけてみた。すると、「三つ星会」なる家紋の会の存在が明らかになった。小百合は高知の高校時代、亜美と同級生だった。その頃から二人は「三つ星会」に所属していたかもしれなかった。三つ星の家紋の者は誰でも入会できる、とある。すべてWikipediaに載っている情報だった。  そこから先は会社員では詳細が掴めず、私立探偵に依頼して会の実態を探ってもらった。二週間後、大きな封筒入りの郵便が送られてきた。私立探偵からの報告書だった。ワープロ打ちで四頁にわたり、まとめられていた。  三つ星会は一四年前から、会の運営に関して不正経理を働いていた。会の収益の一部、三千万円ほどを会長の個人口座に振り込ませ、収入を誤魔化し脱税していたのだ。六月に開かれる総会で、会員の地元暴力団員からその事実を暴露され、三つ星会はたびたび脅迫を受けるようになった。小野寺組という暴力団に月二〇万の金を口止め料として渡していた。地元高知の短大卒業後、小百合は三つ星会に就職し、受付や経理補助などを担当した。  情報はそこで終わっていた。あくまで推測だが、小百合が経理の仕事で小野寺組への金の流れを知り、脅されていた可能性が残った。  再び、春の三連休に有給休暇を足し、五日間かけて小百合と小野寺組との関係を探りに高知へ赴いた。帰省したときのルートで渡辺家を訊ねてみた。 「達夫です」 「あら、いらっしゃい。正月に帰ってきたばかりなのに、どうしたの?」  幸江さんが出て応対した。 「妻の異変をご存知ですか」 「異変? 娘がなにか」 「いいにくいんですが、今年の一月、オレの家からいなくなりまして。突然に」 「小百合が出ていった? なぜ?」  幸江さんはひどく驚いた様子を見せた。 「誰に聞いても分からないのです。職場にもオレにも告げず、急に姿をくらまして」 「なにがあったのかしら。おかしいわね」 「なにか手掛かりを、と思いましてね」 「わたしはなにも知りませんよ。あの子がそちらに嫁ぐまで、方々に厄介になってきたのは承知しておりますけど」 「そうですか。あちこち転居する理由でもあるのですか」 「分かりません。住んでいる町かなにかが嫌になるんじゃないですか」  お母さんはいいようにはぐらかした。それっきり話は噛み合わず、渡辺家を辞去した。方向性を変えようと思い立ち、夜の繁華街へ繰りだした。バーを一軒一軒訊きこみして回り、最後の一軒で有力な情報が得られた。 「渡辺小百合という女を知りませんか。三〇くらいです」 「その人ならよくうちの店に来たわよ」 「小百合は何か喋りませんでしたか」 「喋るもなにも、組の人間と同伴しててね。彼女、小野寺組の若頭と関係があったって噂よ、昔ね」 「若頭と関係ですか」 「隣町の町長選で、立候補者の供託金五〇万のうち三〇万を組が肩代わりしたの。それをホテルのベッドで聞いた、って小百合はいってた」  そこだけ声を潜め、相手は喋った。 「そんなことがあったんですか」 「それからよね。矢井川にぴたりとマークされるようになったのは」 「矢井川というのは?」 「若頭の子分よ」  秘密を暴露されないよう、小百合は矢井川から監視され、追われる身となった。ひとの噂話を好みそうなバーのママは、客の少なくなった深夜に、事細かに喋ってくれた。  住居と仕事先を転々とする理由が判明した。神戸に逃げて青木のオレの家に身を寄せていたのは一時的な逃避行だったのだ。どうやら、矢井川が神戸に来たのを知り、慌てて身元をくらましたようだ。  あの明るかった小百合の、人に語れない裏側を見てしまい、心は傷ついた。暴力団に追われるアラサー女とは、誰が見ても分からないだろう。彼女自身が罪を犯したわけでもないのに、反社会的勢力の秘密を知り、悪党から追われる人生を送っていたなんて。いまさらながら哀れでならなかった。  金で仲裁できるのなら示談にでもしてやれるが、小百合と暴力団の関係は、骨の奥まで届きそうなくらいに抜けない棘のようだった。  きょうもまた、会社帰りに居酒屋で飲んだくれた。家に辿り着き、酔いが醒めてラジオをつけた。月曜日なので野球はない。テレビをつけると、若手漫才師が大御所のこぼれ話をしていた。そういえば、その大御所は最近姿を見ていないと思った。  二日後、その漫才師の訃報を朝刊で知った。元号の変わる年に死んでしまった。平成のスターやったな。懐かしさがこみ上げてきた。湿っぽい話はすぐに忘れ、今日の阪神タイガースの戦況を予想しながら、ネクタイを閉めた。弁当のない分だけ軽くなったかばんに一抹の寂しさを覚え、駅へ向かった。  家紋を端緒にして、見えなかった蜘蛛の糸がはっきりと浮かび上がった。オレに矢井川の居場所が掴めるのなら、いますぐにでも乗り込んで妻の居場所を聞き出したかった。たとえ半殺しの目に遭ったとしても。しかし、どこにいるのか足取りが分からないと探しようもない。三つ星会にいたがために暴力団と関係を持ち、愛人となり、挙げ句にやくざから逃げる立場になって住処を転々とした人物。それが小百合という女だった。もはや妻との再会は絶望的だった。  小野寺組の話は伏せ、小百合が家紋の組織にいた事実を博美に電話で話したら、「管弦曲の組曲のようね」といわれた。たしかにそうかもしれない。  サイドボードに並んだクラシックのCDから、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」を選び、再生してみた。三つ星会のそれぞれの「家」が単独の世帯で成立していながら、家紋の繋がり同士で組織として活動している。その横のつながりは、クラシックでいうところの「組曲」なのかもしれなかった。小百合の人生は組曲の一曲として取り込まれ、コルサコフの「シェエラザード」のように劇的な主題のために捧げられたと思った。  パソコンのインターネットをしていたとき、たまたま競馬ファンの知人の友人がやっているSNSを、何気なく眺めていた。そのSNSにアップされていた一枚の写真が目をひいた。東京中山のパドックだった。第11レース、スプリングステークスの写真の背景に、女と男の寄り添う小さな姿が写り込んでいた。横顔が小百合に似ていた。写真を拡大してみても、雰囲気がそっくりだった。他人の空似だろうけれど、まさかと思った。もし妻ならば、東京まで逃げ延びたのだろうか。妻の安否が気になってその晩は寝つきが悪かった。  今年の四月一日、日曜日。よく晴れ、雲ひとつない朝を迎えた。興奮してよく眠れなかった。去年のような競馬場にいる夢は見ず、明け方に別の夢を見た。薄墨のたゆたうようにたえず明暗が入り混じる背景の中で、ボーっと浮かび上がった顔なしのマネキン人形が小百合の姿に変身していった。また背中と手にべっとりと汗をかいた。  大阪杯はテレビで観戦した。買った馬券はすべてスカだった。ため息が出た。夕方、近くの家の屋根に止まった烏が、ワッハッハと啼いたように聞こえた。烏にまで馬鹿にされているようで向かっ腹が立った。夜までパチスロで暇をつぶし、家に戻った。やさぐれた独身生活に戻り、四月の夜風はいやがおうでも身に沁みた。  紺色の東の空に、白煎餅のような満月が威風堂々と高層ビルの上に浮かんでいた。昨年はたしか十日過ぎが満月だった。九日の桜花賞は終わっていたからよく覚えていた。勝って意気揚々としながら夜桜を小百合と見物したのが、つい昨日のように思えた。昨年は雨で月を見られなかったが、その二日前にいい方のツキが残った。  望のずれが小百合と過ごした一年三か月の歳月を感じさせた。妻の競馬デビューを飾った日は、去年の阪神競馬場の大阪杯だった。今日はその大阪杯の当日。あれから一年経ったか。小百合のいない大阪杯に満月……。あっと言う間の一年が過ぎ、メモ一枚を残して突然家を出ていった妻は、いま何を考え、どこにいるのか。  窓から吹き込む夜風にあたっているうちに居ても立っても居られず、近所の居酒屋に飲みに出掛けた。日本酒を飲んで酔っぱらった。店のテレビで野球観戦をし、タイガースが逆転サヨナラ勝ちを収め、若手選手がヒーローインタビューに応じていた。目の奥に透明な滴が滲んだ。                     〈了〉
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!