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引き出しを開けたまま、佳織はしばし呆然とその写真を見つめた。
なに? なぜ? 誰が? どうしてこれを? 次々と浮かんできた疑問は、向かいの席からの「真田先生、どうかしましたか?」の声にパチンと弾けた。
「なんでもないです」
素早く引き出しを閉めると、佳織は笑顔を取り繕った。
それから注意深く周囲をうかがうと、再び引き出しを開けて、例の写真を雑に四つ折りにした。そのままポーチに突っ込んで、講師室から一番近い女子トイレへと向かう。
カチ、と個室の鍵をかけたとたん、不覚にも足の力が抜けてしまった。
佳織は扉に寄りかかったまま、震える手でポーチから四つ折りの紙を取り出した。
間違いない──やはり、数日前の自分と亨の写真だ。駅のホームに現れた亨が、佳織の腕を引いたその瞬間を、誰かが撮っていたのだ。
A4サイズに拡大コピーをしたせいでだいぶぼやけてはいるが、見る人が見れば佳織と亨だとわかってしまう。それを、職場の机の引き出しに忍ばせたのだ。そこにあるのは、十中八九「悪意」としか思えない。
(誰が、こんなことを?)
生徒か、職員か。講義室に出入りできる人間となれば、他には考えられない。
では、目的は何か? 職場以外で生徒と接触したことに対する佳織への抗議か。それとも他の意図があるのか。
結局答えを見つけ出せないまま、佳織はその日の授業をなんとか終え、帰路についた。
いつもよりも混雑している電車に揺られながら、ポーチのなかに入ったままの写真について考える。できることなら、今すぐシュレッダーにかけてしまいたい。けれど、もしかしたらこれを撮った相手の何かしらの手がかりが残されているかもしれない。さんざん迷った末、しばらくの間写真を保存しておくことにしたわけだが、だからといって犯人捜しをするあてがあるわけでもない。つまり、どうすればいいのか、未だ決めかねているのだった。
ここでもやはり答えを出せないまま、佳織は最寄り駅まで帰ってきた。
のろのろとホームを歩き、改札を出たとたん、さらに足取りが重くなるのを感じた。
とはいえ、これは今日の出来事とは関係がない。なにせこの数日、帰宅するたびにこうした鬱々とした気持ちに苛まれていたのだ。
その理由も、実はうっすらとわかってはいた。
ただ、それを認めるのはどうしても気が引けた。認めてしまったが最後、戻れない道に足を踏み入れてしまうかもしれない。あるいは、平穏な日々を今度こそ失ってしまうかもしれない。
では、どうすればいいのか?
駅前の交差点で自分自身に問いかけたそのとき、いきなり背後から左腕を捕まれた。
あまりにも不意打ちすぎたその出来事に、佳織は少女のような悲鳴をあげた。
と、同時に、数日前の「彼」が脳裏をよぎった。遠慮を知らない腕の力。どこか思い詰めたような、まっすぐすぎるあの眼差し。
けれど──
「うわっ、ごめん!」
慌てたような声の主は「彼」ではなかった。
「迎えに行くってメッセージを送ってたんだけど。まだ見てなかった?」
気まずそうに頭を掻く幸喜に、佳織は「ごめんなさい」と半ば反射的に返した。
夫は、ポケットからスマートフォンを取り出すと「ほんとだ、未読だった」と苦笑した。
「ごめん、先に確認しておけばよかった」
「ううん……それよりどうして?」
「僕も、打ち合わせで帰りが遅くなったから。この時間なら、待っていれば一緒に帰れるかなって」
幸喜は、再びスマートフォンをポケットに戻すと、するりと佳織の左手に指をからめてきた。
「誰だと思った?」
「……えっ」
「やっぱり『痴漢』とか?」
「そう……だね。この時間帯だし」
あいまいな返事になってしまったが、夫は特に気にしていないらしい。「だよなぁ」とのんびり答えるその声に、佳織は後ろめたさが募るのを感じた。
いっそ「痴漢かも」と思えたほうがよかった。それなら、こんな気持ちを抱かずに済んだに違いない。
帰路につく足取りが、さらに重たくなる。それを夫に気づかせないことが、今の佳織にできる精一杯だった。
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