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ところで、ある調査期間の報告によると「Uー18症候群」には様々な捉え方があるらしい。
人類の新たな進化。
脳疾患ゆえの病。
停滞した現代が引き起こした社会現象。
そして、思春期特有の思い込み。
佳織は、この現象を「思春期特有のもの」として受けとめていた。
つまり、今「前世の夢をみた」などと主張する子どもたちも、年を重ねればそれらがいかにバカげた妄想だったのかを理解でき、10代ならではの気恥ずかしい思い出として封印することになるだろう、と。
とはいえ、思春期真っ只中の彼らは、本気で「前世の夢」とやらを信じている。だからこそトラブルは後を絶たず、彼らと接する機会が多い大人たちはこの現象に大いに悩まされていた。
そう、まさに今日も──
「サクラ!」
危うく飛び出そうになった悲鳴を、すんでのところでなんとか堪えた。
講師用の出入口を入ってすぐのところで、いきなり背後からのしかかられたのだ。
「よかった……これからここに来ればサクラに会えるんだ」
聞き覚えのある声、日だまりと汗の香り。
佳織は小さく息をつくと、巻き付いていた手を遠慮なく掴んだ。
「こういうことはやめなさい」
「痛たたた……っ、なんで……っ」
「不愉快だから。いきなり人に抱きついたり身体に触れたりするのは、やってはいけないことだと教わらなかったの?」
「えっ、あっ……なんかごめん」
意外にも、少年は素直に両腕を引っ込めた。
短い前髪をあげておでこを出しているにも関わらず、強い力を持つ大きな目が、彼を幼く見せていた。
「でも、サクラ……前は怒らなかったのに」
「ついでにその呼び方もやめなさい。先生、サクラって名前じゃないから」
「えっ……サクラはサクラじゃん」
「違います。先生の名前は『真田佳織』です」
「それは今の名前だろ。前世の名前はサクラだよ」
(前世……)
やはり危惧していたとおりだ。
(「Uー18症候群」……なんて厄介な……)
「じゃあ、サクラのこと、なんて呼べばいい?」
「先生」
「やだ、なんか他人っぽい……」
「あいにく君と先生はアカの他人です」
「違うよ、恋人だって」
強すぎる眼差しが、無邪気なものに変わった。
「サクラは、たいせつなたいせつな俺の恋人」
とろりとした甘い声。
佳織は、息を呑んだ。けれども、すぐにそんな自分に腹立たしさを覚えた。
相手は、思春期真っ只中の勘違いしがちな子どもだ。いい大人が、いちいち引きずられてどうする。
「悪いけど、先生、前世とか信じていないの」
「だったら今日から信じてよ」
「信じません」
「どうして? 俺たち、ほんとに付き合っていたんだよ?」
ああ、話が噛み合わない。
「それは、君の勝手な主張であって……」
「ねえ、俺、本当に会いたかったんだ。サクラに」
少年の身体が、再び佳織に迫ってきた。
「初めて夢をみたときから、ここんとこ……胸の奥からすっげー気持ちがあふれてくるんだ。『サクラが好き……大好き』って」
無邪気そうな目が、やわらかく緩む。
甘ったるい、恋をする者の目。もう何年も身近になかった眼差し。
押しのけなければと思うのに、なぜか身体が言うことをきかない。
「サクラ、こっちを見て……俺のことを見て」
「だから……先生は『サクラ』じゃ……」
「でも、サクラ、今ドキドキしてるでしょ」
見透かしたような指摘に、心臓が派手に跳ねる。
そんな佳織を知ってか知らずか、少年はさらに身体を近づけてくる。
「知ってる……サクラ、意地っ張りだけど、けっこう顔に出るから」
ひだまりのにおいが、いっそう強くなる。
「そういうところも好き。可愛くて大好き──」
「いい加減にしなさい!」
なんとか力を振り絞ると、佳織は少年を押しやった。
「君と話すことは何もありません」
「なんで?」
「なんでも。それより、早く来たなら自習室に行きなさい」
「ええっ、やだよ、俺、サクラに会うために……」
「ここは勉強する場所です。自習室に行きなさい」
努めて厳しく言い放つと、佳織は逃げるようにその場をあとにした。
出勤してまだ間もないというのに、心も身体もすでにどっと疲れていた。
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