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そのあとのことを、亨はあまりよく覚えていない。
ただ、洩れ出た声から、小柄なほうが写真をアップした人物だと気づき、馬乗りになって2発目をお見舞いしようとしたのは確かだ。
けれど、それは叶わなかった。もうひとりの男が亨に飛びかかり、そこから乱闘になったからだ。
誰が呼んだのか、男性講師2名が駆けつけ、亨と大柄な男子生徒を引き離した。小柄な男子生徒は、殴られた頬を抑えたまま、激しく胸を上下させていた。
周囲には、いつのまにか人だかりができていたが、意外にも彼らの視線は、小柄な男子生徒に集中していた。「ほら、あいつ」「ああ、前世で──」「この間も──」ひそひそ聞こえてきたその会話で、ようやく亨は、彼がいつかの、一部の男子生徒たちに一方的に殴られていた生徒だと気がついた。
怒りが、再燃した。
あのとき、佳織は彼を庇って殴られ、意識を失ったはずだ。それなのに、なぜ、彼女を陥れようとするのだろう。
その後、亨たちは講師室に連れていかれ、男性講師たちに事情を説明するはめになった。
当然、亨以外のふたりは「こいつがいきなり殴りかかってきた」と主張し、亨は「人が自殺した話を笑いながらしていたのが許せなかった」とだけ伝えた。
佳織のことは言えなかったし、彼らも口にはしなかった。殴られた理由のひとつだとわかっていなかったのかもしれないし、自分たちの行いが褒められたものではないという自覚があったのかもしれない。
講義室から解放されたあと、亨は「おい」と小柄な男子生徒に声をかけた。
男子生徒は、一瞬ビクッと背中を震わせたものの「なに」と振り向いたときには、わざとらしいほど露悪的な笑みを浮かべていた。まるで、自ら悪役を演じているかのようだ。
「お前、前に真田先生に庇ってもらっただろ。なのに、なんであんな写真を広めようとした?」
小柄な生徒は、わずかに頬を歪めたあと「べつに」と短く吐き捨てた。
「庇ってほしいって頼んだわけじゃないし。僕は、君と先生がこそこそ会っている写真を、ただネット上にあげただけ」
「あれはそんなんじゃない! 俺が先生にお詫びしに行っただけだ!」
「わざわざ、先生の地元の駅に? そんなの塾ですればいいじゃない」
薄い笑みとともにそう返されて、亨は言葉につまった。その理由を、男子生徒は的確に捉えたようだ。
「やっぱり何かあるんだ?」
「……っ、そんなのあるわけない!」
「そのわりに親しげだったよね。先生の腕を掴んだりして」
「あれは……っ、ただの勢いで……」
とっさに反論したものの、声がどんどん萎んでいく。
男子生徒の目に、仄暗い色が滲んだ。
「なんでだろうね」
「……え?」
「なんで今、先生と不倫している君より、前世でひどいことをしたらしい僕が責められるんだろう。少なくとも、現世で責められるべきなのは君たちのほうなのに」
違う、自分は不倫などしていない。
けれど、亨が言い返すよりも早く、男子生徒が再び口を開く。
「君、前世の夢は? 見たことある?」
「──あるけど」
「そう……でも、どうせいい前世だったんでしょ」
男子生徒は、鼻先で笑った。
「いいよね、真っ当な前世で。ほんと、うらやましい──」
「そんなんじゃねぇよ!」
今度こそ、彼よりも先に言葉が飛び出した。
「ぜんぜん良くない! 勝手に決めつけんな!」
生涯かけて大事にすると決めた人を助けられなかった。驚くほど呆気なく失ってしまった。
そんな前世のどこが「いい」というのだろう。
亨は、ぶるりと身を震わせた。
(ああ、嫌だ)
あんな思いをするのは、二度とごめんだ。
今度こそ、彼女を大切にしたい。それを、自分以外の「誰か」の手に委ねたくはない。
「先生に何をした?」
「──は?」
「言ってただろ。先生の机のなかに、何かを入れてきたって」
さあ、と小柄な男性生徒はわざとらしく首を傾げた。
「気になるなら自分で確かめてみれば? 今ならギリギリまだ間に合うだろうし」
すぐさまスマートフォンで時刻を確認する。今、行われている講義が終わるまで、あと2分もない。
亨は走り出した。佳織が講義室に戻ってくるまでになんとかしなければ──そんな思いで、頭のなかはいっぱいだった。
だからこそ、彼は気づかなかったのだ。残された男子生徒が、薄く笑っていたことに。
「もう遅いけどね。今さら足掻いたところで」
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