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「古川くん、待って! 止まりなさい!」
佳織がどんなに声をあげても、亨は足を止めようとしなかった。ただ、かたくなに前だけを見て、自分をどこかに連れていこうとしている。
すれ違う生徒たちの視線が痛い。このままでは確実に何らかの噂になるだろう。
再度抗うべきか、けれどそうすることによってかえって他の生徒たちの注目を集めるのではないか。
迷っているうちに玄関を通り抜け、学習塾からやや離れた有料駐車場に連れ込まれた。そこで、ようやく亨は足を止めると、ずっと掴んだままだった佳織の手首を離した。
「古川くん、どうしてこんなことを──」
とがめようとした佳織の目の前に、クリアファイルが突きつけられた。
中身は──想定どおりのものだった。以前、机のなかに入っていた「例の写真」と同じもの。大方、同じ人物が、コピーしてまた佳織の引き出しに入れたのだろう。
疑問なのは、なぜそのことを亨が知っていたかだ。
「古川くん、どうして……」
けれど、言葉はそこで途切れた。
久しぶりに真正面から受けとめた亨の視線は、強くて、まっすぐすぎて、佳織は身体の真ん中を貫かれたように感じた。
「先生、俺、先生が好き」
揺らぐことのない強さで、亨はそう口にした。
「本当に好き。だから、もう同じことは繰り返さない。今度こそ、先生のこと最後まで守りきってみせるから」
あまりにも一方的すぎるその宣言は、佳織を困惑させるのに十分だったはずだ。彼が言う「同じこと」とはなにか、「守る」とは具体的に何を示しているのか。
なのに、そのどれも佳織は口にできない。浅い呼吸のまま、彼の強い眼差しを受け止めるだけで精一杯だ。
どこか遠くで、波の音が聞こえたような気がした。寄せては返す、穏やかなあの調べ──
いや、違う。ここは、夢のなかに出てきた「海辺」の家ではない。
都市部の、人が多く行き交う一画で、自分と彼は、学習塾の「講師と生徒」であり「成人女性と高校生」、さらにつけ加えるなら「既婚者と未婚者」だ。
そう、わかっている。十分すぎるくらいわかっているのだ。
なのに、どうしてこんなにも彼に引き寄せられてしまうのだろう。
亨が、手を伸ばしてくる。
理性的な自分が「拒め」と警告を発してくる。当然だ。誰に見られているかもわからないこのような場所で、生徒の熱情に流されていいはずがない。
それでも、腕のなかにおさまったその瞬間、わかってしまったのだ。
これだ──と。
長いこと求めていたピースが、今きれいに埋まったのだ、と。
(もうダメだ)
もう逃げられない。彼にとらわれてしまった。この、まだ未発達ないたいけな腕のなかこそが、自分の「いるべき場所」なのだ。
それでも、彼を抱きしめ返すことだけは控えた。それが、今の佳織にできる精一杯の抵抗だった。
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